「食料の生産や食料の確保が人類の歴史に大きな影響を与えてきた。今まさに起きているウクライナ問題でも、この戦争に起因する深刻な穀物不足などが世界的な食料問題を引き起こしている」と語る新谷隆史氏 「食料の生産や食料の確保が人類の歴史に大きな影響を与えてきた。今まさに起きているウクライナ問題でも、この戦争に起因する深刻な穀物不足などが世界的な食料問題を引き起こしている」と語る新谷隆史氏 生きることは食べること。ヒトという生物は「食」を通じて現在の形へと進化し、その「おいしさ」を追い求める飽くなき情熱が人類の歴史と文化をつくってきた。

「食」は人間の脳をどのように変えたのか?「食」への欲求が世界史をどのように動かしてきたのか?そして、「食」を巡る人類の未来は......。

生命科学の研究者である新谷隆史氏が、人類と「食」の関わりをさまざまな角度から振り返るのが本書『「食」が動かした人類250万年史』だ。

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――まず「人類250万年史」という壮大な時間のスケールに驚かされました。

新谷 私たちホモ・サピエンス(現生人類)が誕生したのは、今から約10万~20万年前頃だと考えられていますが、学名に「ホモ」のつく「ヒト属」が地球上に現れたのは約250万年前だといわれていて、本書は、そこから現生人類に至る人類の進化に、いかに「食」が関わったか、から始まります。

それで、タイトルにも「人類250万年史」と入れました。実際には、そのはるか以前、哺乳類が誕生した2億年前から「食」は生物の進化に大きな役割を果たしていて、その中で特に人類は実に多様な食性を持ち「おいしさ」を追い求める動物へと進化したのです。

――そもそも、人類にとって「おいしさ」とはなんなのでしょうか?

新谷 人類の祖先はタンパク質が豊富でカロリーの高い肉食を始めたことで脳の容積を拡大したと考えられていて、特に狩猟生活の始まり以降、急激に発達したのが前頭前野の最前方にある「ブロードマン10野」と呼ばれる部分です。

この脳領域は複数の情報から複雑な判断をしたり、他人の感情を推し量ったりする〝脳の最高中枢〟なのですが、このブロードマン10野には、幸せな感情とそのときの記憶を結びつける働きがあるんです。

「食」でいえば、あるものを食べたときの幸せな気持ちが、それを見たり考えたりするだけで呼び起こされる。この機能が、人間の感じるおいしさに強い影響を与えているのです。

――つまり、人間にとっての「おいしさ」とは、単に「これは体に必要な栄養が入ってそうだ」ということを察知する本能のセンサーではないんですね!

新谷 そこが人間の味覚の大きな特徴です。例えば、ほかの動物は刺激物質である辛いものや苦いものはまず口にしませんが、人間は唐辛子の辛味(痛覚刺激)や苦いコーヒーに含まれるカフェインの覚醒効果を、脳のブロードマン10野が好ましいと判断すると「おいしい」と感じるようになる。

そして、このブロードマン10野がさらにほかの情報と結びつけて「こうすればもっとおいしくなるのでは」と思考させることで、人類は「おいしさ」を追求するグルメな動物へと進化した。

この人類の「食」に対する強い執着や「おいしさ」を求め続ける飽くなき探求心が、その後の人類の文明や歴史を動かす重要な原動力のひとつになっていったのです。

――ただ、飽食の時代といわれる現代では、肥満など「食」への執着が健康を害するというケースも少なくありません。

新谷 人間の「おいしさ」には今お話ししたブロードマン10野の働きとは別に、ほかの動物と同じような報酬系の仕組みも関係しています。

報酬系は活動するために重要なエネルギーが多量に摂取できる糖や脂肪を「おいしい」と感じさせるようにできているため、飽食の時代では肥満などの問題を引き起こすのです。

本来はそうした報酬系の働きをコントロールするのも、ブロードマン10野の役割なのですが、現代のように大量の食料を、しかもおいしく作れる時代は人類史でも過去に例のないことなので、人間の本能や脳の働きが飽食の時代との間でアンバランスを起こしてしまっているのだと思います。

――一方、地球規模で見れば、途上国の人口増加や気候変動の影響などによって、将来的には人類が深刻な食料不足に直面するともいわれています。

新谷 それはまさに今、盛んにいわれているSDGsに関わる問題で、地球温暖化などによる環境破壊が進む中で、持続可能な社会を実現するためには「食」もまた大きな転換点を迎えているのは間違いありません。

例えば、1㎏の牛肉を生産するのに1万ℓ以上もの水が必要だといわれているのですが、将来的な水資源の枯渇を考えれば、家畜の成育に大量の水を必要とする食肉の消費量を減らし、野菜中心とする、あるいは大豆ミートなどの代替肉や、細胞を培養して作る培養肉などに切り替えていくことが必要になるかもしれない。

また、それ以外の農業分野でもAIなどを活用して、より効率の高い生産技術の活用などを進めることも必要です。

――その中には「遺伝子組み換え作物」や「遺伝子編集」などバイオテクノロジーの食物への応用をどう考えるのかという、難しい問いも含まれそうですね。

新谷 そうですね。ただ、世界ではこうした技術への抵抗感が強いのも事実で、なんとなく「危険なんじゃないか」というイメージを持たれている方が多い。これだけ広く出回っていても、遺伝子組み換え作物による具体的な健康被害の報告というのは、まだないんです。

それでもおそらく受けつけない人は受けつけないと思いますし、今はまだ食料事情が逼迫(ひっぱく)して、切羽詰まっているというワケではないので、それもまあ、仕方ないのかなと思います。

――「食」や「おいしさ」に執着して追い求める人類の性質は、この先、私たちの未来にどんな影響を与えるのでしょう?

新谷 本書でも多くの例を紹介したように、食料の生産や食料の確保が人類の歴史に大きな影響を与えてきました。そして、今まさに起きているウクライナ問題でも、単なるロシアとウクライナの2国間による争いというだけでなく、この戦争に起因する深刻な穀物の不足などが世界的な食料問題を引き起こしています。

人間というグルメな動物の進化を支え、「食」を豊かなものにしてくれたブロードマン10野が持つ、複雑な情報の処理能力や、他人の感情を推し量る高度な知的能力を、この先私たちが直面する「食」の問題の解決にも生かすことができるのか? それが持続可能な人類の未来を実現するためのひとつの鍵になるのかもしれません。

新谷 隆史(しんたに・たかふみ)
1966年生まれ、京都府京都市出身。89年、京都大学農学部食品工学科卒業。97年、総合研究大学院大学生命科学科博士課程修了。博士(理学)。基礎生物学研究所ならびに東京工業大学において神経科学と栄養生理学の研究を行なう。現在はファーメランタ株式会社研究開発部長として微生物を用いた生理活性物質の発酵生産に携わる。サイバー大学客員教授を兼任。著書に『一度太るとなぜ痩せにくい?~食欲と肥満の科学~』(光文社新書)などがある

■『「食」が動かした人類250万年史』
PHP新書 1210円(税込)
「食」の歴史がわかれば、人類の足跡がわかる。肉食が始まったことでわれわれの脳は発達し、それが人類をグルメな生き物にした。そして、狩猟採集生活から農耕と牧畜が始まったことで畑や家畜などを所有すること、つまり富が生まれ、それが文明へと発展する。かつての文明同士の争いの起因となるのは「食」で、それらの交流を促したのも香辛料や砂糖などの「食」だ。「食」というテーマでわかりやすく人類の歴史を振り返る一冊

『「食」が動かした人類250万年史』(PHP新書) 『「食」が動かした人類250万年史』(PHP新書)

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川喜田 研

川喜田 研かわきた・けん

ジャーナリスト/ライター。1965年生まれ、神奈川県横浜市出身。自動車レース専門誌の編集者を経て、モータースポーツ・ジャーナリストとして活動の後、2012年からフリーの雑誌記者に転身。雑誌『週刊プレイボーイ』などを中心に国際政治、社会、経済、サイエンスから医療まで、幅広いテーマで取材・執筆活動を続け、新書の企画・構成なども手掛ける。著書に『さらば、ホンダF1 最強軍団はなぜ自壊したのか?』(2009年、集英社)がある。

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