佐藤喬さとう・たかし
フリーランスの編集者・ライター・作家。著書は『エスケープ』(辰巳出版)、『1982』(宝島社)、『逃げ』(小学館)など。『週刊プレイボーイ』では主に研究者へのインタビューを担当。
JAXAの探査機「SLIM(スリム)」が月面着陸に成功! でも、ちょっと待ってほしい。月面着陸は世界で5番目だし、アポロ11号のように人を月に運んだわけでもない。探査機はひっくり返って着陸してたし、この後地球に帰ってくるわけでもない。
それでもSLIMの成し遂げたことには大きな意義があるという。いったい何がスゴいの?
1月20日、JAXA(宇宙航空研究開発機構)の小型無人探査機「SLIM」が日本初となる月面着陸に成功した。エンジントラブルによってほぼ逆立ち姿勢での着陸になり、発電用の太陽電池パネルに太陽光が当たらないトラブルはあったが、その後太陽の向きが変わり電源も復旧。さまざまな調査を行なっている。
元NASA研究員で、ポッドキャスト『佐々木亮の宇宙ばなし』を配信する佐々木亮さんによると、まずなんといってもSLIMの着陸方法が革新的だったという。
「SLIMは世界で初めて、月面でのピンポイント着陸を成功させました。従来の他国の月面着陸とは比較にならないほど高精度だったんです」
今までの月面着陸の精度はどの程度だった?
「数十㎞程度の誤差が出るのが普通でした。アポロ11号の頃はもっとラフで、日本でいうと『東京に行きたいけど、関東平野のどこかに降りたいな』というくらいの精度です。
というのも、時速約6400キロなどの超高速で飛ぶ着陸船を軌道や速度の計算だけでコントロールするわけですから、どうしても大きな誤差が出てしまうんですね。
ところが、今回のSLIMは目標点からわずか55mの所に着陸しました。そのスゴさがわかりますよね」
なぜそんな精度が可能に?
「計算ではなく、月面のマップとの照合で位置を測ったからです。月周回衛星『かぐや』による月面のデータが生きたんですね。月面マップはアメリカやインドなどが持っているんですが、それを着陸に使ったのはSLIMが初です」
過去の探査の積み重ねの上に今回の成功があるわけだが、SLIMのスゴいところはほかにもあるという。
「SLIMは着陸方法もとてもユニークです。今までの月やほかの惑星への着陸では三脚のような脚を広げて衝撃を受け止める方法が主流だったのですが、それだとどうしても機体が大きく、重くなってしまう。そこでSLIMは脚ではなく、5つの半球状のクッションでショックを受け止めることにしたんです」
着陸の方法を具体的に見ていこう。月の周回軌道を回るSLIMは現在地を確認しながら徐々に減速し、同時に高度を下げていく。そして高度7㎞ほどに至ると、垂直降下を開始。開始直後の速度は時速約200キロだから降下というより月面に向かって落っこちている感じだが、ロケットの逆噴射で速度を落としていく。
月面から高度50mほどまで接近したら、着陸予定地を確認し、岩などの障害物があれば自動で回避する。そして高度約3mでメインエンジンを切って地表に降下する。
重要なのはここからだ。今回の着陸地点はクレーターの縁に位置する15度ほどの傾斜地なので、着地が難しい。そこで接地の直前に機体を斜面の上方向に傾け、まずはひとつ目のクッションでドンと月面にぶつかる。
次に上方に倒れ込みつつ残りのクッションも接地させる。まるで受け身を取るように着地する、世界初の「2段階着陸方式」に挑んだ。
実際の着陸では、最後に機体を傾けるはずだったメインスラスターのうちひとつが故障したためひっくり返ってしまったが、そこまでの経緯はバッチリ。
小型ロボットによる月面の撮影もできた。JAXAはミッションの成功度を「ミニマムサクセス」「フルサクセス」「エクストラサクセス」の3段階に分けているが、少なくともフルサクセスを達成したことは間違いない。つまり大成功なのだ。
「フルサクセス以上の成功を収めると、そのミッションを継続するための予算が下りやすくなります。日本の月面開発に勢いがつくのは間違いないでしょう」
今回の成功は、単に世界的な実績を残せただけではなく、「コスパ」も抜群に良いという。
「日本の宇宙開発は、先進国としては予算の割に成果を上げているのが特徴です。もしNASAがSLIMと同じチャレンジをしたら、数倍の予算が必要だったでしょう。
実際、小惑星リュウグウからのサンプル回収に成功した『はやぶさ2』のすぐ後によく似たミッションをNASAの『オシリス・レックス』が行ないましたが、かかったお金は6倍ほど。もしコスパを評価の基準に含めたら、日本の宇宙開発は世界トップレベルだといえます」
ところで、なぜSLIMはわざわざ傾斜地に着陸したのか? ピンポイントで着陸地点を選べるなら、平地に降りればいいように思えるが。
「それもSLIMのミッションのポイントです。今回の目的のひとつは、月の成り立ちを調べること。そのために、通常は月の地中深くにある、地質が表面にむき出しになったクレーターのそばに着陸する必要があったんです。
今までは降りやすい平らな場所に着陸してそこから移動するしかありませんでしたが、SLIMの方法なら直接狙いどおりの場所に降りられる。大変な進歩です」
クレーターなど、月の表面には地球以上に凹凸がある。従ってSLIMが成功させた、傾斜地にも降りられる2段階着陸方式とピンポイントへの誘導は着陸場所を大幅に広げることができる。
「月にはさまざまな資源が眠っていることがわかっていますから、資源開発の観点からも今回の成功は重要です。例えば水。月に水があるかどうかを巡っては100年以上議論が続いてきましたが、水の存在を支持する結果が2009年から続々と出てきました。ちなみに、そこには日本の月周回衛星『かぐや』も貢献しています。
月面で水が手に入ると水素と酸素に電気分解してロケットの燃料を作れますから、宇宙開発が一気に進歩します」
ただし、水は月面のどこにでもあるわけではない。強烈な太陽光にさらされると蒸発してしまうためだ。
「ですから太陽の光が届かない『永久影』の中にのみ、水が多くあると考えられています。ところが永久影は月面の南極と北極のクレーターの底に位置しますから、平坦(へいたん)な場所に着陸すると移動が大変。そこで傾斜地にも降りられる2段階着陸方式が生きるというわけです」
佐々木さんによると、SLIMの技術は月面に探査機やロボットをピンポイントで降ろすことに応用したり、ほかの惑星の開発にも使えるという。
「天体には、重力のある天体とそうではない小惑星などがあり、前者のほうがかなり着陸の難度が高い。ですから、今回のSLIMが重力天体である月にピンポイント着陸を成功させたことは、今後の可能性を大きく広げるでしょう。この技術を使い、火星などでも探査ができるかもしれません」
SLIMが月面開発の可能性を大いに広げたとして、今後はどんな展開がありえるだろうか? 『宇宙ベンチャーの時代』(光文社新書)の共著者で、宇宙開発の実情に詳しいベンチャーキャピタリストの小松伸多佳(のぶたか)さんに詳しく聞いた。
「月面開発については、人類の月面移住までを見越した構想がいくつかあります。まずは水に代表される資源探しですが、その次は精製プラントの建設、そして宇宙飛行士が長期滞在できる施設造りです。
建物の材料を地球から持っていくのは非効率的なので、月面にあるレゴリスという砂を固めてブロックにし、それで建築物を造る研究がされています。また、水以外にも鉄やチタン、アルミといった資源があることもわかっています。
ある程度の人数が継続的に月面に滞在するようになると、街が生まれます。宇宙ベンチャーのispaceは1000人規模の街をつくる『ムーンバレー構想』を掲げていますが、似たようなアイデアはほかにもありますね」
小松さんによると、月に限らず、民間企業の参入によって宇宙開発はどんどん加速しているという。月に人が住む日は、意外と早くやって来るかもしれないのだ。
「『民間』と『官』とに分けると、宇宙ビジネスはまだまだ国や国家機関などの官が主体です。しかし、例えば宇宙への物資輸送はすでに民間が担うようになっています。
まあ、それもNASAが民間の宇宙会社に輸送費を支払うような形で顧客は官なのですが、いずれ民間同士のビジネスも出てくるでしょう。かなり先ですが、月を舞台に民間の会社同士がビジネスをする日が来ると思います」
小松さんは、そもそも人類は経済的な必要から宇宙に出ていかざるをえなくなるだろうと考えている。
「資源不足にエネルギー問題、環境変動などと、地球には問題が山積みです。それらを解決するためには生活水準を落とすしかありませんが、人々がそれを受け入れるとは思えない。
となると、無限に資源やエネルギーがある宇宙に出るしかないんです。そもそも資源や環境を巡る問題が生じるのは、地球を閉じた閉鎖系としてとらえるから。宇宙とつながった半開放系としてとらえれば、見方は大きく変わるでしょう。
今後の宇宙開発は、『人類と経済の持続的発展』という文脈の中に位置づけられるべきで、経済的な必然性が出てくれば、月面開発も空想ではない現実的な政策になるはず。
すると、今はJAXAやNASA、民間企業がバラバラに開発している技術がひとつにまとまり、実現に向かって動き始めると考えています。それが、今後50年ほどかけて起こるのではないでしょうか」
ロマンのためではなく、人類の生存のための宇宙開発にSLIMの技術が貢献する日も遠くはないのかもしれない。
フリーランスの編集者・ライター・作家。著書は『エスケープ』(辰巳出版)、『1982』(宝島社)、『逃げ』(小学館)など。『週刊プレイボーイ』では主に研究者へのインタビューを担当。