佐藤喬さとう・たかし
フリーランスの編集者・ライター・作家。著書は『エスケープ』(辰巳出版)、『1982』(宝島社)、『逃げ』(小学館)など。『週刊プレイボーイ』では主に研究者へのインタビューを担当。
かゆい所をかくのは気持ちいい。ただ、かけばかくほどかゆくなり、次第に皮膚が傷つき悪化する。このスパイラルに陥ると、脱するのはなかなか難しい。だが、皮膚を傷つけずにかゆみを緩和するデバイスが昨年製品化された。その謎だらけのメカニズムとは?
* * *
皮膚をかかずにかゆみを軽減する。そんな不思議なデバイス「サーモスクラッチ」が製品化された。開発元の大阪ヒートクール社は、役員全員が大学に籍を置く現役研究者たちだという。
大阪府箕面市のオフィスを訪ねると、試作機を含めたさまざまなサーモスクラッチがあった。どれもペンケースほどのサイズで軽い。かゆい場所に押し当ててスイッチを押すと、かゆみが緩和されるという。いったいどういう仕組みなの?
「人間の錯覚を利用するんです」と答えてくれたのは、同社代表取締役の伊庭野健造さん。
「かゆみって、痛みなどよりも『弱い』感覚ですよね。腕がかゆくても、そこをぶつけたりして痛みを感じると、かゆみが打ち消されます。あるいはかゆい所に氷を当てると、冷たさの感覚がかゆさを覆い隠しちゃいますよね。
それを利用して、やけどしそうな熱さの感覚を与えることでかゆみを緩和するのがサーモスクラッチです。熱さではなく痛みと感じる人も多いですね」
えっ、やけどするほどの熱さ!?
「もちろんそれは大丈夫。なぜなら、サーモスクラッチが与える熱さや痛みの感覚はあくまで錯覚で、皮膚はまったく傷つかないからです。試してみてください」
ビクビクしながらサーモスクラッチの先端にある金属部分を腕に当て、スイッチを押してみた。すると......痛っ! いや、熱い? 耐えられないほどではないが、氷に触れたときの感覚にも近い刺激が走る。だが、皮膚は無傷。なんとも不思議な体験だが、□が二重になったような金属部分に秘密がありそうだ。
「サーモスクラッチは『サーマルグリル錯覚』と呼ばれる錯覚を応用しています。これは体が温度を間違って感じてしまう錯覚です。
例えば15℃の物体と40℃の物体をごく近くに並べて手で触れると、やけどしそうな熱さを感じます。実際は40℃に過ぎないのに熱さを感じるのは、脳が『40℃と15℃の温度差』を『皮膚と物体との温度差』だと錯覚してしまうから。
体温が36℃だとすると、40℃~15℃の25℃を体温にプラスした61℃だと感じてしまうんですね。だから40℃とは思えない熱さを感じるんです」
サーモスクラッチの場合、二重の□の外側を40℃、内側を15℃にしてある。これらを同時に皮膚に当てると非常に熱く感じ、かゆみが覆い隠されるというわけだ。
「サーモスクラッチが与える感覚はあくまで錯覚で、人によっては冷たさや痛みだと感じたりもしますが、いずれにしても強く鋭い刺激でかゆみが緩和されます」
不思議なことに、一連の説明を受けた後に使っても、やはり熱く感じる。
かゆみが厄介なのは、かくこと自体は気持ちいいのだが、だからといってかきすぎると皮膚を傷つけてしまうこと。しかしサーモスクラッチを使えばその悪循環から抜け出せるわけだ。年内の商品化を目指しており、価格は1万円前後を想定しているという。
ちなみに、大阪ヒートクール社はサーモスクラッチ以外にも生理痛を疑似体験できるVR体験デバイス「ピリオノイド」などを開発している。これも医療などの分野で使われる筋電気刺激を応用したものだ。
「実は僕の専門は医療ではなく核融合で、ほかのメンバーの専門分野もバラバラ。そんな研究者たちが、さまざまな研究の知見を社会実装しようと立ち上げたのがこの会社です」
ところで、人間はどうしてかゆみを感じるのだろうか。かくと快感もあるかゆみは、痛みなどと比べると快と不快の間にある不思議な感覚だ。
「確かにかゆみは曖昧で不思議な感覚です。でも、私たちにかゆみという感覚が備わっているということは、進化の過程でかゆみを感じることにメリットがあったのでしょう」
そう言うのは、名古屋市立大学大学院医学研究科の森田明理教授だ。
「例えば私たちは、ケガをしたり病気になったりすると痛みを感じますよね。それは、痛みには『体に緊急事態が起こっているぞ』とシグナルを発する意味があり、それを知覚できるほうが生物として有利だったということです。
実際、痛みを感じられなくなる難病がありますが、その患者さんは大きなケガを繰り返してしまいます」
確かに痛みの役割はわかりやすいが、曖昧なかゆみにはなんの意味が?
「いくつか考えられます。ひとつは、痛みを生じさせるほど緊急度が高くない異物を知らせるシグナルとしての意味。わかりやすい例だと、皮膚の表面に虫が這うとむずがゆくなりますよね。それは、感染症などのリスクがある虫の存在を知らせるためではないでしょうか。
ハチに刺されると痛いのに蚊に刺されるとかゆくなるのも、危険度の違いに対応しているのでしょう。毒を持つハチに刺されると極めて危険なので痛みが知覚されます。蚊もウイルスを運んだりと危険な場合はありますが、毒ほどではないのでかゆみとして知覚するのだと思います」
また、かくことには免疫を活性化させる意味もあると森田教授は言う。
「皮膚の一番外側にある表皮の中に免疫をつかさどるランゲルハンス細胞(樹状細胞)がたくさんあるのですが、皮膚をかいて角質の表面が削られるとランゲルハンス細胞が樹枝状の突起を伸ばし、外部の物質を取り込みやすくします。
するとその物質に対する防御システムが作られますが、これが皮膚における免疫です。つまり、皮膚をかくことは免疫の強化につながるんですね」
ところで、かくことが強烈に気持ちいいのはどうして?
「簡単に言うと、かゆみには〝麻薬〟が関わっていることがあるから。体内で、鎮痛・陶酔作用がある『オピオイド』と呼ばれる物質が作られることがあります。このオピオイドは麻薬にも含まれるのですが、体内で生まれると強烈なかゆみを伴うことがあるんですね。
透析を受けていたり、内臓に病気を持っていたりする方の一部が強いかゆみに襲われるのも体がオピオイドを出すせいですし。麻薬のような物質がかゆみを生んでいるわけですから、夢中になってかいてしまうのも無理がありません。アトピー性皮膚炎のかゆみもオピオイドが引き起こしているという説があります」
基本的に不快だが、時には快感も伴うかゆみ。なぜふたつの顔があるのか?
「体にとって明確に『良い』とか『悪い』とか言いきれないかゆみの役割を反映しているのではないでしょうか。異物など有害なものを知らせる、痛みに似た役割を果たすことがある一方で、かくことで免疫を強化できるなど、体にプラスとなることもある。かゆみには二面性があるんです」
なお、痛みとかゆみとでは体内のメカニズムは大きく異なる。
「一昔前まではかゆみは痛みの一種であり、非常に弱い痛みだと考えられていましたが、今では否定されています。かゆみと痛みには共通点もありますが、伝達される神経線維も、原因となる化学物質も違います。
例えば、痛みにはじわじわと時間をかけて感じられるものもあれば、『痛っ!』と瞬時に感じられるものもありますが、瞬時に感じるかゆみはありませんよね。それは痛みが伝わる神経線維が複数あるのに対して、かゆみを伝えるのは伝達速度の遅い『C線維』に限られるからです」
かゆみは近年研究が加速し、どんどん成果を上げてきた。とすると、かゆみ治療も進歩しているのだろうか。
「ええ。かゆみに対する医療には近年、目覚ましい発展がありました。皮膚の研究が進み、『サイトカイン』と呼ばれる、免疫に関係ある情報伝達物質がかゆみを引き起こすことがわかってきたのです。
そこでサイトカインやその経路を妨害する薬が登場し、注目を集めています。サーモスクラッチのような新技術の登場もあり、かゆみは科学によって制圧されつつあるといっていいでしょう」
最後に、かゆみとの上手な付き合い方について一言お願いします。
「かゆみがやまないときはぜひ病院へ。ちなみに患部をかかずに叩いたり、熱いシャワーを当ててかゆみを緩和しようとする人もいますが、これもNG。結局皮膚がダメージを受けますからね。
と、つい悪者扱いしたくなりますが、ちょっとしたかゆみは人体にとって必要なものです。少しかゆいくらいなら、むしろ健康な証拠だと思ってくださって大丈夫ですよ」
かゆみのメカニズムに思いをはせれば、今後は少しはかゆく感じなくなるかも?
フリーランスの編集者・ライター・作家。著書は『エスケープ』(辰巳出版)、『1982』(宝島社)、『逃げ』(小学館)など。『週刊プレイボーイ』では主に研究者へのインタビューを担当。