日本レースプロモーション(JRP)会長に就任した近藤真彦氏。「KONDO RACINGチーム」を率いてスーパーフォーミュラ、スーパーGTに参戦中だ 日本レースプロモーション(JRP)会長に就任した近藤真彦氏。「KONDO RACINGチーム」を率いてスーパーフォーミュラ、スーパーGTに参戦中だ

"マッチ"こと近藤真彦氏が日本初のレギュラーF1ドライバーとして活躍した中嶋 悟(さとる)氏の後を継いで、日本最高峰のフォーミュラカーレースシリーズ、全日本スーパーフォーミュラ(SF)選手権の運営団体、日本レースプロモーション(JRP)の取締役会長に就任した。

だが、かつて数々のF1ドライバーを輩出した日本のトップフォーミュラは近年、人気低迷に喘いでいる。近藤氏はJRPの会長として日本のモータースポーツをどう変えてくれるのか? 前編・後編の2回にわたってインタビューをお届けする!

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■「お前、そういう話が来たら断るなよ」

――今、日本のトップカテゴリーで最もかじ取りが難しいのがSFだと思います。スーパーGTは国内外にたくさんのファンがいますし、市販車を改造したマシンで競われるスーパー耐久はトヨタが水素エンジン車を、マツダはバイオ燃料を使用したマシンを投入するなど、メーカーが環境技術を競い合うレースとして注目されています。しかし日本のトップフォーミュラのSFは最近、人気が低迷しています。

近藤 SFは確かに一番難しいカテゴリーですが、大きな可能性はあると思っています。市販車をベースにしたスーパーGTやスーパー耐久にはできない、何か違ったビジネスチャンスがあると思って、これまで僕も「KONDO RACINGチーム」のオーナーとして参戦しましたが、今回はJRP会長という違う意味での役割が来ました。でも、この話は急に来たわけじゃないんです。

――いつぐらいから会長に、という話があったんですか?

近藤 まあ、少しずつそういうニュアンスになってきて、半年ぐらい前から僕をJRPの会長にしようという臭いがプンプンしていました(笑)。SFに参戦する各メーカーさんの意志を聞いたり、JRPの上野(禎久)社長や取締役の方たちが動いたりしているのも知っていました。それに、いろんな方から水面下で「お前、そういう話が来たら断るなよ」とも言われていました。

――周りから徐々に固められていったんですね。

近藤 そうですね。僕はレース界の中にいる人間ですから、何となく雰囲気はわかっていました。もしそういう話があったときにどうしようか、本当にお断りするのか、それともここはもう腹を括ってSFをみんなで盛り上げるリーダーになるのかと、すごく悩みました。

「KONDO RACINGチーム」はSFだけでなく、スーパーGTでGT300とGT500の両クラスに参戦していますし、僕は芸能活動もやりながらですから。この1年半でコンサートは60公演も行なっています。だから、すごく悩んだ末、最終的にはできないことはないんだと思い、大役を引き受けました。

■エレガントさがなければ、フォーミュラのカッコよさを保てない

――日本のトップフォーミュラの歴史は1973年に始まり、今年で50周年を迎えます。その節目の年にSFを運営するJRPの会長に就任したわけですが、SFをどのように変えていきたいと思っているのですか?

近藤 スーパーGTやスーパー耐久を下に見ているわけではないですが、フォーミュラカーレースはモータースポーツの本場ヨーロッパのレース文化の中でもステータスが高いですよね。前会長の中嶋(悟)さんたちが築いてきたSFならではのステータスは、これからも守っていかなければならないと思っています。

僕が会長になったからといって、いろんなことに手を出して、なんか一発、花火が打ち上がって人気が出たなというのは、理想的な形ではありません。やっぱりどっしり構えて、SFの品位を保ちながら、じわじわと盛り上がっていけるようにしたい。

ちょっといやらしく聞こえるかもしれないですが、フォーミュラカーレースは全体的に"エレガント"でなければならないと思っています。

人気低迷に喘ぐ、日本のスーパーフォーミュラ。富士スピードウェイで開幕戦と第2ラウンドが開催された 人気低迷に喘ぐ、日本のスーパーフォーミュラ。富士スピードウェイで開幕戦と第2ラウンドが開催された

――世界のトップフォーミュラのF1はまさにそうですよね。コース上のバトルは激しいですが、パドックの雰囲気はエレガントで、各界のセレブが集まります。

近藤 そうですよね。もちろんスピードやガソリンの臭いとか、そういうワイルドなところも魅力ですが、全体的にショーアップされ、エレガントさがなければ、フォーミュラのカッコよさを保てないと思っています。

今のSFは競技レベルが高いですし、マシンは本当に速いんです。鈴鹿(サーキット)のストレートやコーナーの立ち上がりはF1にはかなわないですが、2コーナーからS字にかけてはF1よりも速いと関係者のみんなが話しているぐらいですから。

■「アジアのF1」を目指していきたい

――具体的には将来、SFをどういうレースにしていきたいというイメージはあるのですか?

近藤 個人的には「アジアのF1」を目指していこうと思っています。要は、埋もれているアジア系のドライバーやチーム、スポンサーをどんどん日本に取り入れて、アジアのサーキットに出かけていってレースを開催するというのが当面の夢です。今、アジアのいろんな窓口を探したりとかしていますが、僕が急に会長になったからといって、すぐにアジアのサーキットに出かけていくってことではありません。

中途半端な形で海外に出ていって失敗してボコボコにされて帰ってくるわけにはいきませんから。慌ててやるのではなく、まずは日本のファンを増やして、しっかりと地固めをしていきたいと考えています。

――日本のファンを増やすために、具体的にどんな手を打っていこうと考えているのですか?

近藤 中嶋前会長はF1でも活躍した超一流ドライバーで、戦いの中で生きてきた人ですから、SFの威厳を保つためには必要な人でした。それは中嶋さんにしかできなかったこと。心から感謝していますし、そこは崩すわけにはいかないと思っています。

その威厳を保ちながら、SFをショービジネスとしてグレードアップさせることが必要だと感じています。そのために僕の得意なジャンル、ファンやメディアとのコミュニケーションを取り持って、SFの注目度を上げてスポンサーを惹きつけるのが、今後の自分の役目だと思っています。

現場で動いてくれるのはJRPの上野社長や取締役の方たちですが、いろんな方との仲人的な行動もできるし、SFのプロモーションにも積極的に参加するつもりでいます。JRPには僕をもっともっと利用してほしいと思っています。

左から、JRP前会長の中嶋悟氏、新会長に就任した近藤氏、星野一義氏、JRP社長の上野禎久氏 左から、JRP前会長の中嶋悟氏、新会長に就任した近藤氏、星野一義氏、JRP社長の上野禎久氏

――すでに積極的にプロモーションに参加していますね。先日も自由民主党モータースポーツ振興議員連盟総会に出席されていました。

近藤 そうですね。今年は会長就任初年度なので、SFが開催される地方の自治体、例えばSUGOのある仙台市や、オートポリス周辺の大分や熊本などの各自治体のトップにお会いして、ご挨拶を兼ねてSFを盛り上げてもらえませんかというお願いをしてくるつもりです。あとは地方でSFに興味のあるテレビ局に顔を出して、SFの宣伝させてもらえればいいなと思っています。

JPRの会長というよりは、"マッチが来ます"と。僕はそれでいいと思っています。地方のテレビ局の方が、マッチがレースの宣伝に来てくれるみたいだから、夕方のこの時間帯で尺を取るので出演してくださいと言ってくれたら、もう喜んでいきますよ。

そこで僕のキーワード、「アジアのF1」がこれから流行るよというスタンスで話そうと思っています。レースのことを知らない人への説明は、日本の最高峰カテゴリーのSFじゃなくてもいいと思っています。誰でもわかるように「アジアのF1です」とアピールするつもりです。

■SFを国際色豊かなレースにしたい

――実際にF1でも日本人の角田裕毅(つのだ・ゆうき)選手だけでなく、中国人の周冠宇(チョウ・グアンユー)やタイ人のアレックス・アルボンなど、アジア系のドライバーが活躍しています。

近藤 これからアジアからはどんどんドライバーが出てくると思います。ただ、それでも日本人のレーシングドライバーのレベルは高いし、速いんです。ヨーロッパのF1予備軍だったらSFで勝負できるかもしれませんが、アジアのドライバーがパッとSFに来てもすぐには通用しません。

「SFをどんどん国際色豊かなレースにしたい」と語る近藤氏 「SFをどんどん国際色豊かなレースにしたい」と語る近藤氏

そういうハードルはありますが、アジア人でとにかく上にステップアップしたいと鼻息の荒いドライバーはいます。彼らをスポンサー共々どうぞいらっしゃい、というスタンスで受け入れようと思っています。

海外のドライバーをいろんなチームに振り分けて、SFをどんどん国際色豊かなレースにしたい。ここ数年間は、新型コロナで海外からドライバーが来るという動きが収まっていましたが、コロナもようやく解除ですから、これからチャンスです。勝機は十分にあります。

*後編の「近藤真彦が日本のトップフォーミュラ再興にかける熱い思い」はこちらから

近藤真彦(こんどう・まさひこ)
1964年7月19日生まれ。79年にTVドラマ『3年B組金八先生』で芸能界デビューし、以降は俳優・歌手として大活躍する。レーサーとしては84年に富士のフレッシュマンレースでデビュー。その後は全日本F3選手権シリーズに参戦し、トップカテゴリーの全日本GT選手権やスーパーフォーミュラ(SF)の前身、全日本F3000やフォーミュラ・ニッポンにも参戦。94年には全日本GT選手権でポール・トゥ・ウィンを達成する。また世界3大レースのひとつ、フランスのル・マン24時間耐久レースにも出場。2000年にレーシングチーム「KONDO RACINGチーム」を設立。現在はチームオーナー兼監督として国内最高峰のSFとスーパーGTに参戦。スーパーGTではGT300とGT500の両クラスにエントリーする。この4月にはSFを運営する日本レースプロモーションの会長に就任した。