佐野弘宗さの・ひろむね
自動車ライター。自動車専門誌の編集者を務めた後、独立。国内外の自動車エンジニアや商品企画担当者、メーカー幹部へのインタビュー経験の豊富さには定評があり、クルマそのものだけでなく、それをつくる人間にも焦点を当てるのがモットー。日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員
世界で初めてのガソリン自動車が生まれてすでに140年以上。その長い自動車史のなかには、ほんの一瞬だけ現れては、短い間で消えていった悲運のクルマたちも多い。
自動車ジャーナリスト・佐野弘宗氏の連載「迷車のツボ」では、そんな一部のモノ好き(?)だけが知る愛すべき"迷車"たちをご紹介したい。
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というわけで、今回取り上げるのは、1992年6月に発売された「日産レパードJ.フェリー」だ。
1992年といえば経済史的には日本のバブル経済はすでに崩壊して、景気は後退局面に入っていたとされる。しかし、クルマ業界はまだまだイケイケドンドン。バブル特有の「世界でいちばん幸せな国はニッポン! 未来はメチャ明るい!!」という能天気な空気感のなかで開発された新型車が、どんどんカタチになって、次から次へと発売されていた時代である。今回のレパードJ.フェリーも、そんなバブル真っただ中に産み落とされた1台だ。
ただ、当時のクルマ専門誌を振り返ると、このクルマは3代目レパードというより、まずは日産が北米で展開していた高級車専門ブランド「インフィニティ」のミドルクラス「J30」として企画されたようだ。日本にはインフィニティ販売網はないので、車格的に近いレパードの名が与えられたらしい。
そもそも、バブル時代にはとにかく新しいものが持てはやされて、老舗的なブランド名はことごとく"オジンくさい"などと敬遠されていた。このクルマがレパードとJ.フェリーのダブルネームだったのも、市場の反応を見ながらレパードの冠を外して、J.フェリーという"ナウい"車名に自然移行させようしたフシがうかがえる。実際、広告などでの表記も、レパードのフォントは小さく、J.フェリーのそれを大きくするのがお約束だった。
当時の公式プレスリリースには、J.フェリー(J.FERIE)は「フランス語で祝日を意味する"jour ferie"という言葉を、人の名前を思わせるようなサイン感覚で英語的に表現した造語」と、非常にややこしい説明がなされている。そして、本カタログの表紙をめくると、そこにはスーツ姿のイケメン西洋人と、その配偶者と思しき美しい西洋女性が、マントルピースの前でならぶ肖像写真が目に飛び込んでくる。その横にデカデカと掲げられているJ.フェリーのキャッチコピーは『美しい妻と一緒です。』である。
欧米崇拝、性差別、外見至上主義......と、今だと炎上しそうな気配ぷんぷんだが、当時はこれが最先端のマーケティングだったのだ。
こうしたマーケティングからも、J.フェリーが"DINKs"をメインターゲットとしていたことは明らか。DINKs(ディンクス)とは英語の"Double Income No Kids(ダブルインカム・ノーキッズ)"の略で、あえて子供をつくらず、共働きによる高世帯収入で裕福な生活を楽しむ夫婦を指す。今風にいえば"パワーカップル"といったところか。
そんなJ.フェリー最大のツボは、豊かな曲線による流麗なスタイリングだろう。当時の高級サルーンは水平基調が主流で、ちょっとスポーティな雰囲気を醸し出すときには、前のめりのウェッジシェイプとするのが定石だった。しかし、J.フェリーはあえてその逆を張って、往年のロールスロイスやベントレー、ジャガーなどを思わせるやクラシカルな"垂れ尻"プロポーションを、全身とろけるような曲面で包んで見せたのだ。
前記のように、このクルマはもともとインフィニティ版のJ30だったから、そのデザインも米カリフォルニア州にある「日産デザインインターナショナル(NDI)」が担当した。同時代にNDI(現在はNDA)が手がけて日本でも販売された日産車には、ほかに9代目ブルーバードSSSセダンやNXクーペなどがあるが、失礼ながら、どれも日本でヒットしたとはいいがたい。はっきりいって、当時のNDI作品は日本での一般ウケはよくなかった。
ただ、J.フェリーも当時の専門家筋では高評価だった。なるほど日本人の一般的なツボをはずしたデザインも、すこぶる個性的で存在感はあり、プロの目からは高い造形レベルと評された。
さらに、いかにもバブル期の開発らしく、各部の設計も贅沢そのものだった。ダッシュボードには全車ウォールナットの本木目パネルがあしらわれて、内装の大半には丁寧に合皮が張り込まれていた。しかも、当時世界最上級の伊ポルトローナ・フラウ社製の本革シートまで、オプションで用意されていたのだ。
メカニズムもしかり。エンジンは売れ筋のV6以外に、国産屈指に贅沢な4.1リッターV8もあった。シャシーはセドリック/グロリアと共通部分が多かったが、当時の日産といえば、1980年代から推進してきた「901運動(1990年代までに技術世界一を目指す)」の成果がどんどん世に出ていた時代。J.フェリーにも、リアマルチリンクサスペンションや後輪操舵装置のスーパーハイキャスなど、あのR32スカイラインGT-Rにも通じる最新技術が投入されていた。実際、その静かで滑らかなエンジンと、優雅なスタイルにシンクロしたソフトな乗り心地は、当時某自動車雑誌の新人編集者だった筆者も印象深くを覚えている。
ただ、どんなによくできたクルマでも、デザインが一般ウケしないとヒット商品にならないのが世の常。月販目標3000台でスタートしたJ.フェリーも、3年9ヵ月という短い販売期間で総販売台数は約7300台にとどまった。単純計算による月販平均は200台に満たない。逆にアメリカ版のインフィニティJ30は当初の月販目標1600台ながら、実際は月販で平均3000台以上を売り上げて、日本より長い5年以上のモデルライフをまっとうした。日本のJ.フェリーはビジネス的に失敗だったが、クルマ自体はけっして失敗作ではなかった。
そして、J.フェリーの後を受けた4代目レパードは、同世代のセドリック/グロリアの外観デザインを変えただけのお手軽商品になってしまった。4代目レパードが発売された1996年3月当時の日産は、倒産寸前の経営不振に陥っており、J.フェリーみたいなハイリスク(だけどホームランにもなりうる挑戦的な)商品を手がける余裕はなくなっていた。実際、そのちょうど3年後の1999年3月に、日産と仏ルノーの資本提携(実質的にはルノーによる日産救済)が発表される......。
今は日産の経営も安定しているが、かといってJ.フェリーみたいに思わず笑ってしまうような挑戦的なクルマが出てくる気配があまり感じられないのは残念。迷車と名車は、ほんのちょっとツボがずれただけの紙一重だ。
【スペック】
日産レパードJ.フェリー・タイプX 1992年
全長×全幅×全高:4880×1770×1390mm
ホイールベース:2760mm
車両重量:1650kg
エンジン:水冷V型8気筒DOHC・4130cc
変速機:4AT
最高出力:270ps/6000rpm
最大トルク:37.8kgm/4400rpm
燃費(10・15モード):7.6km/L
乗車定員:5名
車両本体価格(1992年6月発売時)469万円
自動車ライター。自動車専門誌の編集者を務めた後、独立。国内外の自動車エンジニアや商品企画担当者、メーカー幹部へのインタビュー経験の豊富さには定評があり、クルマそのものだけでなく、それをつくる人間にも焦点を当てるのがモットー。日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員