東京・千代田区に本社を構える協和は、ランドセル製造で国内2位のシェアを誇る老舗(しにせ)鞄メーカーとして、また、いわゆる“ホワイト企業”としても注目される会社である(前回記事参照)。
経営の舵(かじ)を取るのは若松秀夫専務(66歳)。創業者である若松種夫社長の長男だ。若松専務が実質的な経営者となって以降、数々の“働き方改革”を進め、2013年には社員や顧客や地域を幸せにする企業を表彰する「日本でいちばん大切にしたい会社大賞」で審査員特別賞を受賞した。
同賞を受賞する最低限の条件のひとつに「過去5年間でリストラゼロ」がある。協和・千葉工場(千葉県野田市)の小森規子工場長にこれを確認すると…、
「ゼロです。過去5年どころか1951年の創業以来、一度もありません。社長の口癖は『社員をクビにするくらいなら会社をなくす』なんです。リストラどころか、望めば何歳までも働けます。定年退職は60歳で、その時点で退職金の精算をさせていただきますが、それ以降も1年契約を何度でも更新できます。実際、今も70代で働いている人もいますから」
70歳超の社員は3人いるというが、さらに驚いたのは70歳を目前にして退職ではなく入社した社員もいることだった。しかも正社員として。その社員、西山國夫さんは耳と口が不自由な障がい者である。記者が初めて会ったのは2014年。当時、69歳だった。
西山さんは聾唖(ろうあ)に加え、様々な事情で就学の機会に恵まれず、文字を使えない。ただひとつ判るのが数字である。
障がい者は大抵の場合、本人が望む望まないに関わりなく、その就労が一般社会と接点の少ない場所に限られることが多い。それを繰り返していた西山さんは67歳にして「社会人として生きたい」との願いを叶えるべく、野田市役所を訪れ、一般企業での就職について相談をした。
そこで野田市役所は「協和なら」と協和千葉工場に電話を入れ、後日、面接を担当したのが前出の工場長・小森さんだった。そして「どうしても社会人として働きたい」という西山さんの意思を汲み入れたのだ。
入社後、西山さんには革の裁断という仕事が割り当てられたが、数量に誤りなく作業を進められるように裁断機の近くに必要な裁断回数を記したボードが置かれた。その数字と、裁断のたびに数が増える電子カウンターの数字が同じになったところで作業は完了となる。今では西山さんはそれを理解し、当初、同行していた手話通訳者も不要になった。
3年後の今年7月、西山さんはますます活き活きと働いていた。私の「写真撮影してもいいですか?」とのジェスチャーにもにこやかな顔で「どうぞ」と応えてくれた。
協和には、他にも障がいを持った社員が6人いる。3人が知的障がい、ひとりが聾唖、ふたりが肢体不自由者である。障がいをもった人の就労を特別視しないが、ひとたび仕事に入ったらその途切れない集中力に驚かされると小森工場長は言う。
タイムカードにも表れる“社員ファースト”
知的障がいを持つ社員のひとりは黙々と封筒に糊付けをしてきれいに積み上げている。協和の封筒に宛先を押印する社員もいる。
まず封筒サイズの溝のある木枠に封筒をセットし、その上に印鑑サイズの窓が開いている蓋をかぶせる。こうすれば失敗なく、決められた場所にきれいに押印できる。この木枠は周りの社員たちの手作りだ。障がい者だからできないのではなく、工夫さえすればできるようになる。しかも健常者以上の集中力を発揮する。
集中力がすぐに切れるという知的障がい者の男性社員には、健常者の社員が付いて彼が飽きないように次々と違う部品の搬出を指示していた。
「皆、普通に働いているでしょ。本人に働く意思があるかどうかが採用基準です。仕事を覚えるまでには時間がかかりますが、皆が支えれば一人前になれるんです」(小森工場長)
「日本でいちばん大切にしたい会社大賞」では「月の残業10時間以内」も審査対象となる。これもまた協和では実現している。
試しにタイムカードを見せてほしいと頼むと、小森工場長は社員出入口にあるタイムカードから適当に何枚かをサッサッと引き抜いた。千葉工場での作業終了は17時15分だが、タイムカードに打刻された退勤時刻はすべてそのわずか数分後だった。
この残業の少なさはランドセル製造が手作業であるからだ。太い針でのミシン縫いはすべて人が電動ミシンを駆使して行なう。ミシン作業は足踏みの力加減とタイミングと手の細かな動作を合わせる高等技術。強い圧力が必要なランドセルへの鋲打ちも、気を抜けば怪我につながる。集中力が必要な手作業において必要以上の残業は疲労を生み、事故に繋がる。だから、させない。はたして、労災事故はゼロである。
工場を案内されている間、何人かの社員に同じ質問をしてみた。会社のどこがいいのかと。すべて同じ答えが返ってきた。職場が和気あいあいとしていること。残業がないこと。
実は、小森工場長は社長の娘であり若松専務の妹である。つまり、協和は家族経営なのだが、若松さんは今ここも改革しようとしている。なぜなら、会社を継続させるのに必要なのは「血」ではなく「理念」だからだ。
一時期、若松さんの長男も会社に在籍していたことがある。だが、初めから長男を跡取りにとは考えていなかったとのことで要職にもつけなかった。長男もそのつもりはなく、実際、今は自分の道を見つけて違う仕事に就いている。
「中小企業では、多くは自分の家族に仕事や株、財産を継がせるのがほとんどです。でも、その人たちだって、きっと『はたしてそれでいいのか』と考えているはずです。ただ息子だからとの理由で、権限、財産を受け継ぐのを当たり前と考えてはいけません。誰が経営者になるのであれ、『企業とは何か』をきちんと考える人がなるべきです。だって、会社は社員のものですから」
この会社が100年続く条件
社員の会社にする――。そのために取り組んでいるひとつが社員の持ち株を増やすことだ。
3年前、協和では社員の持ち株制度を開始した。一族が「オレの会社」とするのではなく、社員に「自分たちの会社」との意識を持ってもらうためだ。3年間で持ち株は全体の30%にまで増えた。さらに増やすため、若松さんは株を保有したままにしている第三者に頭を下げ、高い金を払って株を買い戻した。額面でいえば全体の10%に当たる。
「公認会計士や弁護士はこれを『危険だ』と言います。でも、私は社員を信用している。もし、役員会で社員から動議をかけられたら、その時点で会社はアウトですが、信用しているからやるんです」
株の配当は最低、年10%を約束している(昨年度は20%)。つまり、福利厚生の一環としても実践しているのだ。
今、66歳の若松さんは、次の後継者を意識している。誰か目星をつけているのですか?と尋ねると「今、12人ほど選んで育成しているところです」との答えが返ってきた。
実際、この取材の2日後にその12人とともに静岡県御殿場市で1泊2日の合宿を行なうのだという。経営者として最低限必要なスキル、決算書の見方、経営理念の継承などを叩き込むためである。
「協和の理念を理解し、実践できる人が社長になるべき。それが今後、この会社が100年続く条件になると思います」
2011年からは東日本大震災の被災地の子どもへのランドセル寄贈を続けている。災害孤児や生活保護家庭の新入学児童には新品のランドセルを、震災でランドセルが破損した場合は再生ランドセルを寄贈するというものだ。
今年、嬉しいことがあった。宮城県多賀城中学校の修学旅行生が協和本社を訪ねてくれたのだ。
東日本大震災の後、若松さんは直接被災地に赴き、多賀城小学校にランドセルを寄贈した。その時の小学生たちが6年後の今年、修学旅行で東京ディズニーランドを訪れた後、東京本社で若松専務の課外授業を聞きたいと依頼して実現した。
若松さんはしみじみと語る。
「私たちは大企業ではないから大きなことはできない。だけど、小さくてもできることはたくさんある。今後もそれを着実にやっていきたい」
(取材・文・撮影/樫田秀樹)