北洋建設の小澤社長と、母親の静江会長

鳶(とび)、土工、解体工事を請け負う北洋建設(本社・札幌市)は全国でも数少ない、元受刑者を積極採用する会社として知られている。

約60人の社員のうち、元受刑者は17人。殺人未遂の前科を持つ社員の山村強さん(50代、仮名)は「罪を背負って生きている私をわだかまりなく受け入れてくれたこの会社には本当に感謝しています」と話す(前編記事「罪を犯した者ほど真剣に働く」参照)。

現在、日本の出所者の再犯率は実に48%(平成28年版『犯罪白書』)。約半数が出所後に再び犯罪に手を染める。それはなぜか。

刑務所では、一日作業をしても手元に入るのは50円に過ぎない。大抵の受刑者は出所時には数万円の現金を持つだけだ。当然、いざ出所しても、数日分の飲食費と宿泊費とでカネはあっという間になくなる。その短期間で住所も持たないのに仕事も決まるはずがない。

特に出所時が寒い冬ならば野宿できるものではない。冷暖房のある宿と食事や風呂が欲しい出所者の中には、それがある刑務所に戻るため、敢えて再び罪を犯す者もいる。

だからこそ、北洋建設の小澤輝真(てるまさ)社長は徹底して、やる気のある出所者に仕事を与えることを肝に銘じている。「仕事さえあれば、人は再犯をしない」。それが小澤社長の信念だ。

現在、寮の定員の約半数を出所者が占めるが、寮長を務める南原幸一さん(40代、仮名)にも窃盗・詐欺という前歴がある。

元々は大手飲食店の店長だったが、その後、引き抜かれた他の飲食店では何ヵ月も給料を払ってくれなかった。家賃も払えなくなり、やむを得ず、出前の集金で集めたお金で家賃を払ったら逮捕された。

執行猶予がついたため刑務所には行かなかったが、職は失った。判決後は更生保護施設に紹介された短期の清掃などの仕事を繰り返していたが、施設の教員の勧めで北洋建設に入職した。

南原さんは今、飲食店で磨いた料理の腕前を生かして1日3食を作り、同時に寮の生活を管理する。

誰もが不安を抱えて北洋建設に入社する。だが1年も経てば、体つきも頑丈になり、仕事にも精進する。その再起の様子を目の当たりにする南原さんは「この仕事は面白い。人間が再起できることを証明してくれますから」と声を弾ませた。

小澤社長もこう断言する。「彼らはいい人ばかりです。社会的に犯罪を起こさざるを得なかったが、でもみんな立ち直りたいと思っている。ここで一所懸命働けば、絶対に再犯はありません」

会長の涙が非行少年を更生させた

法務省に「協力雇用主」という制度がある。これは出所者の就労支援をする企業に対して様々な奨励金を用意する制度だ。大雑把に書けば、出所者を雇用すれば最大で72万円を支払うというものだ。

現在、協力雇用主に登録しているのは約1万2600社。だが実際に雇用するのはそのうちの約500社に過ぎない。さらに、雇用「し続ける」のは、北洋建設を含めほんのひと握りでしかない。

「500社の中には奨励金欲しさに協力雇用主になっているだけのところもあります。出所者を雇用しても『働け、働け』といった高圧的な態度で、ちょっとでも休んだらすぐクビにするのが実態のようです」(小澤社長)

小澤社長の母親で前社長の静江さんがこう付け加える。「出所者のために住まいや食事を用意するのは必要だけど、それだけでは足りない。絶対に必要なのは愛情なんです」

静江さんは04年から、北洋建設の実績を評価してくれた札幌家庭裁判所の依頼で「補導委託」を引き受けている。家裁が非行少年に判決を出す前に、企業などに少年を預けて生活指導をする制度だ。つまり、補導委託しないと少年たちは少年院に直行するしかない。

これまで30人以上の少年を引き受け、およそ半年、北洋建設の現場で働いてもらう。3、4人を除き全員が立ち直ったそうだが、印象深い少年は?と尋ねると...。

「ウチの建設現場で一所懸命働いて、3ヵ月経った頃には『もう立ち直るな』と思ったコが漫画本を万引きしたんです。私、すぐに警察署に行って『どうして?』と尋ねたら『小遣いが欲しかった』って言うんです。私、怒ってね。『あんた、少年院に行きたいの! こんなことしたら、親にも裁判官にも申し訳がないよ』って」

その場で泣きながら少年に平手打ちした静江さんは警官に「私は暴力を使いました。現行犯で逮捕して、ひと晩、留置所に置いてください!」と両手を差し出した。その瞬間、少年がボロボロと泣き出し訴えた。

「やめてください。僕が悪いんです! 社長さんを逮捕しないでください!」

こういう少年の中には、親から蹴られたりタバコを身体に押し付けられたりと、暴行を受けた経験を持つ例が多く、「他人に泣きながら訴えられたのは初めて」という者が少なくないという。そして、この少年は立ち直った。そんな経験を何十回もしているから、静江さんも小澤社長も「必要なのは愛情」と断言できるのだ。

引き受けた少年の中には、今では自分の会社を持ち、社長になった人もいる。子どもを連れてくる人もいる。そうした少年や前科のある元社員から毎年5月、母の日にはたくさんの花束が静江さんの元に届く。

やはり前科のある社員はこう言った。「他の会社ではできない。ここまでフトコロがでかい会社はないです」

だが、この言葉にはもうひとつの説明が必要だ。北洋建設ではこれまで500人以上の出所者を採用してきたと書いたが、そもそも現在の社員数は60人で、そのうち出所者は17人しかいない。入社した多くの出所者たちはどこに行ったのか?

小澤社長を襲った"不治の病"

小澤社長のスタンスは、ここを修業の場と思って、やりたい仕事があればどんどんよそに移ってもいいというものだ。実際、自分の道を見つけて発展的に退職したり、土木技術を身に付けて故郷に帰る社員はいる。だが実は、その多くが途中でいなくなるという。

「中には、仕事途中でコンビニのトイレに行くと言って、そのままいなくなる社員もいます。そうなると、車両の運転者がいなくなるので、その日の仕事が困る...というケースも多々ありました」

1年以上も出所前にやりとりをして会社に迎え入れる段取りをしていたのに、出所当日、ひと言もなくドタキャンする人も。信用したからこそ採用したのに、そんなことを何度も繰り返されれば、普通の会社なら「もう引き受けるのはやめよう」とやる気をなくすのもわかる。だが北洋建設では、それでも出所者の受け入れを止めない。

「数少なくても、育ってくれる社員を見るのは嬉しいんです」(小澤社長)

2014年、静江さんは輝真さんに社長の座を譲り、会長職に退いた。その前年、小澤社長は体調に異変を覚える。ろれつが回らなくなったのだ。神経内科を受診すると、"不治の病"とされる「脊髄小脳変性症」と診断された。すでに他界している父と同じ病気だ。遺伝病でもあるため、いつかはと覚悟をしていた病気だった。

小脳が委縮するため、言語障害や体の機能障害が現れる。昨年まで杖で歩けた小澤社長も今では車いすか、両脇を支えてもらっての移動を強いられている。だが、前向きな態度は変えなかった。その体で今でも全国の刑務所を飛び回り、受刑者の面接に応じている。

そこにあるのは、社長に就任してわかった"出所者を採用する"という当たり前のことが世間では当たり前ではなかったという現実だ。

「ここまで頑張って出所者を採用するのはウチを含め、わずかだったんですね。僕はできるだけ多くの会社が出所者を雇うようになるためにも頑張りたいんです」(小澤社長)

その活動は時折、北海道のローカル番組や全国放送で報道されることがある。数年前、刑務所内で地元のTV局の報道番組を見ていたのが、小澤社長と20年来の友人である秋元洋一さん(仮名)だ。秋元さんは「え、これ、テル?」と驚いた。そこには、病に侵されても頑張っている友の姿があった。北洋建設の活動も初めて知り、感銘を受けた。

自身は大麻使用で収監されていたが、今年、釈放された。今は依存症の治療を受けているが、時間があれば北洋建設にフラリと立ち寄る毎日だ。

「僕は治療が終わったら、この会社で働くつもりです。ここしかないんです。今日は用もなく来ていますが(笑)」

小澤社長は静かに笑っている。余命数年――病気は進行している。数ヵ月前まで、わずか1歩か2歩だけでも動かせた足も今は全く動かせない。時折、咳が止まらなくなり、体の至るところが攣(つ)る。指が震えるため、文字を書くこともできない。

この事実に今年、息子の涼さん(20歳)が大学を中退、急きょ北洋建設に入社した。小澤社長は自分の持てるすべてを4、5年かけて伝えるつもりだ。一番伝えたいことは?

「人間は絶対に立ち直るとの信念です。それがなければこの仕事はできません」

(取材・文・撮影/樫田秀樹)

小澤社長と息子の涼さん