陣屋の女将・宮崎知子さん。「旅館を憧れの職場に」すべく、ITを駆使した経営改革に邁進する

ニッポンには人を大切にする“ホワイト企業”がまだまだ残っている…。連載『こんな会社で働きたい!』第21回は、神奈川県秦野市にある老舗旅館『陣屋』だ。

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東京都心から車で90分ほどの場所に、明治時代から親しまれてきた温泉地・鶴巻温泉がある。箱根や熱海といった日本有数の温泉地に近接するが、社員旅行や接待といった企業の団体利用を取り込む首都圏の奥座敷として栄え、小田急線には『鶴巻温泉駅』もできた。

だが、バブル崩壊を経て今はかなり寂れている。ピーク時に20軒ほどあった宿泊施設は旅館とビジネスホテルを合わせて3、4軒に。そのほとんどがマンションに建て替えられ、温泉風情は消失し、駅前からの風景は郊外によくある街、といった様相だ。

その駅からマンション群を抜け、住宅街の坂道を数分歩くと目の前に突如、木々に囲まれた1万坪の庭園が広がる。創業100年の温泉旅館『陣屋』だ。広大な“森”の中に20の客室とレストラン、ブライダル会場を配した贅沢な設計で、皇族が利用したり、数々の将棋の名勝負の舞台になったりと由緒ある老舗として知られている。

だが、その『陣屋』もリーマンショック後に倒産寸前まで追い込まれた。売上げを支えた企業の団体利用は2000年以降、目に見えて減り、20室しかない客室の宿泊料を15000円、05年には13900円…と下げ、09年には9800円まで値下げした。それでも客足は戻らず、客室の稼働率は業界平均の37%を大きく下回る10%台まで急落。“薄利少売”の悪循環に陥る状態に追い打ちをかけるように先代社長が急逝し、妻の女将も体調を崩して入院することとなった。

ここまできて、“もう売るしかない”と決断すると、大手リゾートホテルなど複数社が視察に訪れたという。だが、どんぶり勘定の経営で積み上がった多額の借金に施設の老朽化も重なって「使い物にならない」との無情の判断。介護会社への売却まで検討したが、リーマンショックの最中に買い手が見つかるはずもなく、借金10億円だけが旅館に残った。

そんな中、09年9月に先代の長男・宮崎富夫氏(40歳)が勤め先の会社を辞めて跡を継ぎ、妻の知子氏(40歳)が女将になることを決める。といっても、富夫さんは大手自動車メーカーの元エンジニアで、知子さんはリース会社の元OL。旅館で働いた経験もないふたりに旅館を立て直せるはずもない…と120人もの従業員の多くがそう思った。

だが、それから9年を経て『陣屋』は劇的な回復を遂げている。

客室の稼働率は10%台から80%まで急伸して売上げは倍増。社員の平均年収は09年時点の288万円(高卒初任給18万円)から400万円(同25万円)に大幅アップ。離職率は33%から3%に減り、社員の平均年齢は45歳から33歳に若返った。

旅館業を継いだ“素人”夫婦が瀕死の旅館の救世主に――一体、何をやったのか?

“素人”だからこそできた旅館の経営改革

そこには様々な逆転の発想があった。1泊2食付きで9800円~という単価を35000円~に引き上げ、付加価値を高めるためになけなしの資金を投じて客室に化粧室を、ロビーにコンシェルジュデスクを設けるなど施設の改装を断行した。

また、食事処や個室で日帰り客に向けて提供する料理は2千円程度の“安かろう、悪かろう”のメニューを廃止し、高価格な会席料理を開発。10年に12000円、14年に25000円、16年に35000円のコースを取り入れ、段階的に単価を引き上げていった。

先代の頃から接客係を務めるベテラン社員は、この動きを不安な目で見ていたという。

「1泊2食で1万円程度の旅館ですよ? その安さに惹かれて来館されるお客様ばかりなのに25000円のコースだなんて、誰が食べるの?って。と言ってる間に今度は35000円ですから。無理があるんじゃないの?と思って見ていました(苦笑)」

富夫さんと女将はそんな目を背中で感じながら、さらなるスクラップ&ビルドを断行する。別館にある炭火焼レストラン『源氏館』をブライダル会場にリニューアルしたのだ。それはふたりが入社してまもなくの決断だった。前出の社員がこう続ける。

「これには驚きました。『源氏館』といえば、あそこだけは絶対になくさない!と代々守り続けてきた『陣屋』の“聖域”のような場所ですから…。そこで働く従業員にも誇りと愛着を持つ人は多かったですし。それを入ってきた途端にいきなり潰して結婚式場にするっていうんですから、当然、反発する人も少なくありませんでした」

だが、宮崎夫妻に迷いはなかった。女将の知子さんはこう話す。

「旅館を立て直さない限り、私たち家族は一家離散するかもしれないという状況でした。だから、私たちは赤字が続く旅館の出血を止め、一刻も早く借金を減らすという道しか選択肢がなかったんです。やらなきゃいけないことは明確だったので、それに賛同できない人が現れても仕方がないと思っていました」

実は、知子さんが女将になったのは第2子の出産2ヵ月後のこと。新生児と2歳の長男を抱える身で、富夫さんと話し合って『陣屋』を継ぐと決めたのだ。これにはワケがある。

元々、先代社長もその妻の女将も長男の富夫さんに旅館を継がせる気はなかったそうだ。そのため、09年に先代が亡くなって社長になった女将は経営が行き詰まる中、「『もうここで幕を引こうかな』くらいに思っていた」(知子さん)という。だがその後、体調を崩して入院することになり、経営者不在となった『陣屋』にリーマンショックが襲った。

その時点で残った借金は10億円。「バブル崩壊後、祖母や伯母の代からの積もった赤字がリーマンショックによってキャッシュアウトが苦しい状況を生んでしまった」のだという。返済できなければ、借金の影響は義母の長男である夫(富夫さん)にも降りかかってくる…。知子さんが陣屋を立て直そうと決心したのは「とにかく子どもには負債を残したくない、巻き込みたくない」という母親としての思いからだった。

夫の富夫さんは当時、大手自動車メーカー・ホンダの研究者だった。巨額な借金を抱えるリスクを背負いながら、知子さんは「絶望的な気持ちにはならなかった」という。

「その当時、義母も私も共に別々の病院に入院し、義母は外出許可をとって会いに来てくれました。そこで10億円の借金があることを告げられ、私はすぐに主人に電話をしました。すると、主人が電話口で『ホンダの生涯賃金を超えてるんだけど!』と言ったんです。第一声がそれ?って思ったら、なんだか笑いがこみあげてきちゃって。『計算早いね、すごいね』って言ったら、『パッと考えたらわかるだろ!』って叱られました(笑)。

“お先真っ暗”な現実を突きつけられても、いつも通りの冷静さを失っていない主人が頼もしく思えて『この人なら大丈夫かも』って思えたんです。実家の母親にも『人生の中で一度は踏ん張らなきゃいけない局面は誰にでもくるの。それが今なんじゃない?』と背中を押され、私もやってやるぞ!って気持ちになりました」

代々守り続けた旅館の“聖域”を壊したワケ

09年以前はレストランだった『陣屋』のブライダル施設、『源氏館』。

実際、この崖っぷちの状況に「内心ワクワク感があったかもしれません」と話す富夫さんは当時、燃料電池開発のプロジェクトに携わっていたそうが、数日後に辞表を提出。上司に引きとめられたが、「ホンダには1千人の技術者がいるからいいじゃないですか。『陣屋』には自分しかいないんです!」と押し切り、会社を去ったという。

この肝っ玉のデカさで『陣屋』を継いだ富夫さんと知子さんだが、瀕死の旅館を具体的にどう立て直そうとしたのか?

「資金がショートするまで“あと半年”というカウントダウンが始まっているのはわかっていたので、やるべきことは明確でした。とにかく売上げを上げて経費を下げることです」

ふたりには会社経営の経験も知識もないが、当時の『陣屋』で何が問題なのかは明らかだったという。

「入社して1ヵ月くらいは何も手出しできなかったのでスタッフの動きをじっと見ていたのですが、コミュニケーションの希薄さと人の多さが問題だと感じました。特に本館と別館の2ヵ所にあるレストラン。それぞれに接客チームがついていて、人員的にも余裕があるのにどちらかが忙しくてもフォローし合う関係になっていない。連携不足というより、お互いに関心がないといった印象で、これをひとつにまとめなきゃと考えたんです」

そこで先述した陣屋の“聖域”である炭火焼レストラン『源氏館』をなくす決断をした。

「『源氏館』は採算が厳しい状況にあり、もちろんここをなくすことに従業員から反感があることは想定できたので、主人と2年間分の台帳を自宅に持ち帰り、予約の稼働率を算出したんです。結果は2割にも届いていない状況で『だから閉めざるをえないんです』と数字を見せながら説得して回りました」

その後、『源氏館』はブライダル会場となり、今では年間1億を売り上げる『陣屋』の主力事業に育っている。

また、客を出迎える係、部屋に案内する係、夕食を出す係、布団を用意する係と専任が多く、20室の宿にあって従業員数は120人に膨れ上がっていた。そこで、単体タスクではなくマルチタスクで働いてもらおうと、知子さんは「ひとりですべての接客業務をできるようにしませんか?」と説得して回った。

これをいきなり20部屋でやるのも酷(こく)だから、その“練習場”として将棋や囲碁の対局と接待にしか使っていなかった個室『松風の間』を宿泊室に変更。接客係をつけ、客の出迎えから部屋への案内、夕食、布団の準備、朝食、見送りまでオールラウンドでこなせる技量を身につけてもらう。すると、ひとり、またひとりとマルチタスクで働ける人材が増え、「接客スタッフのボトムアップにつながった」という。

富夫さんも知子さんも「リストラはしない」と決めていたが、高齢の従業員を中心に改革についていけない人は辞めていった。一方、パートの採用は抑え、20~30代の人材は細々と採り続けた。「当時、主人と私が最年少の31歳で、上の世代とは10歳ほどの開きがありました。組織上、年代が万遍なく在籍していないとバランスが悪い」と感じていたためだ。その結果、社員の平均年齢は09年の45歳から現在の33歳まで若返り、50%にも達していた人件費比率は23%まで下がった。

さらに、復活に欠かせなかったのが『陣屋コネクト』の存在だ。これは予約から経理まで一元管理できるシステムで、富夫さんと新しく雇い入れたシステムエンジニアの社員を中心に自社で開発。外資系の大手IT企業・セールスフォース・ドットコム社のプラットフォームを活用してのものだったが、その初期投資は同社へのライセンス料1万5千円と、新たに購入したパソコン1台分を合わせて10万円程度で済んだという。

『陣屋』を変えたIT化の取り組み

iPadを使い、『陣屋コネクト』上で顧客情報をチェックする白野さん

10年1月に運用が始まると、従業員40人全員にiPadを支給。これを陣屋コネクトに連携させることで、接客業務は劇的に変わった。「おかげで、仕事が楽しくなりました」――敷地内の駐車場で来館客を出迎えるゲストリレーション係の白野(はくの)昇さんはそう言ってiPadを取り出した。片耳にはイヤホン、胸元にはマイクが装着されている。

「駐車場の入口2ヵ所にセンサー付きのカメラが設置されてあって、車が入場すると瞬時にプレートのナンバーを自動認識し、システムに登録されている顧客管理情報と照合。以前、お越しになられたお客様の場合には『○○様が到着されました』という自動音声がイヤホンに流れてきます。なので、そのお客様が車からお出になられた時点で『○○様、ようこそいらっしゃいました』とお声掛けできるというわけです」

さらに、その自動音声の内容はiPadの画面上で活字化され、予約名で検索を掛けると、これまでの来館履歴や同行者の氏名、車種、年齢など、詳細な顧客情報が表示される。

「そうした情報は、お客様を駐車場から玄関までご案内する間に会話する糸口になります。といっても、中にはお忍びのお客様もいらっしゃいますので、その場の雰囲気を見ながら接客しなければなりませんが(苦笑)」

白野さんが予約客を案内した玄関先には接客係が待っている。到着を知らせる音声はイヤホンを通じて全従業員に共有されるのだ。接客係の江畑真理子さんがこう話す。

「iPad上には、お客様の基本情報の他に好物の料理や苦手な料理、食べ物のアレルギー情報なども閲覧できます。例えば、あるお客様の場合、来館された日には必ず、その方が大好きなヤクルトを2本、お部屋に用意しておくのですが、そうした情報も最初に応対したスタッフが特記事項として書き込み、全員で共有できる状態にしておくのです。

また、お酒を飲むお客様については過去の注文履歴から好みの日本酒の銘柄をオススメすることができますし、ファミリーでお越しのお客様の場合には前回来館時の年齢や浴衣のサイズまで記録があるので、久々に再会してお子様が成長された姿を見ると、つい親戚のおばさんのように嬉しくなるんです」

さらに、大浴場の入口に取り付けられたセンサーが客の入退場を感知し、入浴客が一定の数を越えた場合には自動音声が流れるようになっている。これにより、清掃員が何度も風呂場へ確認にいかずとも、浴室の掃除やタオル補充のタイミングがわかるようになった。客の夕食時やチェックアウト時も同様で、音声や通知を合図に布団の用意や客室の清掃に駆けつけることができるというわけだ。

『陣屋コネクト』導入により作業のムダが徹底的に省かれ、「勤務中、館内を移動する距離が短くなり、廊下を走り回るようなこともなくなった」という。さらに、作業のムダが省かれたおかげで「お客様へのおもてなしに集中できるようになり、単純に仕事が楽しくなった」と江畑さんにとっても働く喜びが増している。

従業員の意識が変わった。これも『陣屋コネクト』のおかげだと女将の知子さん。

「一律に情報を公開することで、こちらが指示を出さずともスタッフそれぞれが自分に関わる情報を得て、先手先手で動いてくれるようになりました。なので、この旅館に“指示待ち人間”はほとんどいません」

富夫さんは「まだまだ道半ば」というが、『陣屋』のIT化に成功したふたりは、今度は“働き方改革”に乗り出すことになる。それは年中無休がスタンダードな業界の常識を覆す、“週休3日制”への挑戦でもあった。

★続編⇒倒産寸前の老舗有名旅館が一家離散の危機から脱し、業界の革新的システム『陣屋コネクト』を実現した苦難のドラマ

(取材・文/興山英雄)