ぜんち共済の榎本重秋社長。「ともに助け、ともに生きる」を社是に掲げた ぜんち共済の榎本重秋社長。「ともに助け、ともに生きる」を社是に掲げた

ニッポンには人を大切にする“ホワイト企業”がまだまだ残っている…。連載『こんな会社で働きたい!』第22回は、障がい者向けに保険サービスを提供する、ぜんち共済株式会社(東京・千代田区)だ。

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明るい社長だーー。取材中、榎本重秋社長はよく笑うし、同席した社員との間でも爆笑が起こる。

5年前に中途入社した安齋正明さんは、面接試験で尋ねられた「酒は飲めますか?」との質問を今も忘れない。これは、接待を担う営業職に必要な項目としてではない。ただ単に、みんなで楽しく盛り上がりたいからだ。

ぜんち共済は、障がい者のための日本唯一の保険会社だ(社員数17人)。ほとんどすべての保険会社が引き受けをしない知的障がい者、発達障がい者、ダウン症者、てんかん者及びその家族のために個人賠償(対人・対物)、入院、死亡、弁護士費用など幅広くカバーする。契約件数は4万3千件を超え、年間約6千件の保険金(約6億円)を支払っている。

ベーシックプランでも年間保険料はわずか1万8500円。年齢・性別に関わらず保険料は一定。何かと出費の多い障がい者がいる家族にはなくてはならない会社だ。

その社内がめちゃくちゃに明るい。安齋さんは、ぜんち共済の前に働いていた投資会社では残業が当たり前で、自分の意見を表明することもなかったという。それが今、残業は少なく、自身の意見も反映され、社会貢献を果たし、何より風通しのいい社風で働いているのは「本当に幸運です」と語る。

だが、こうした会社に育つまでの道のりは平たんではなかった。

1965年生まれの榎本社長は元々、外資系損害保険会社A社の社員で、大学時代に会社訪問で見た「かっこいい社員がバリバリ働く」雰囲気に魅かれ、入社を決めたという。90年、25歳の時に配属されたのは新宿支店。ハードな毎日だった。入社して営業現場に出ると、深夜0時近くまで働くのは当たり前。

思ったことは口にする性格が疎(うと)んじられたのか、仕事はできても“ダメ社員”とのレッテルを貼られた。だが営業成績を確実に上げることで、93年に転勤した上野支店では全幅の信頼を置かれることになる。

この上野支店で、その後の人生を変える運命の出会いがあった。担当になった代理店のひとつに永田仁司(ひとし)さんが代表を務める「永田事務所」(現・株式会社永田事務所)があった。

永田さんは80年、50歳の時に保険業界に飛び込み、日本で最初に知的障がい者のための傷害保険を扱った人である。

A社の営業研修社員として飛び込み営業をしていた永田さんは、知的障がい者の権利擁護と福祉施策の提言を行なう障がい者の保護者でつくる「東京都精神薄弱者育成会」(現『東京都手をつなぐ育成会』。以下、育成会)を訪ねたところ、「自ら怪我をしやすく、また、つい他人にケガをさせたり、モノを壊してしまう」という障がい者特有の事故が少なくないことを知る。

ところが当時は「障がいがある」という理由だけで、どの保険会社も障がい者の加入を認めていなかった。

保険って社会に貢献できるんだ

知的障がい者の中には、パニックになるとつい器物損壊や他人を傷つける人がいる。しかし、いわゆる健常者がそれらの傷害や損壊を保険でカバーできるのに対し、障がい者の親御さんたちはひたすら頭を下げ、自腹を切って弁償していたのだ。

「なんとかしないといけない」

使命感を覚えた永田さんは、育成会や養護学校の校長会らと一緒にA社に日参しては「知的障がい者を引き受けられないか」と1年にわたり交渉を重ねた結果、A社は知的障がい者への傷害保険と賠償保険の引き受けを認めた。ただし、それを扱えるのは永田さんだけ…。たちまち全国の障がい者の親御さんから「うちに来てくれ!」との声が殺到した。

そうして、永田さんは独立を決める。当時のA社からふたりを引き抜き、A社代理店として障がい者の保険を扱った。だがその後、諸々の経緯で自ら作った会社を去り、「永田事務所」を設立して知的障がい者のために保険販売を続けた。榎本さんはA社上野支店でこの永田事務所の担当者になったのだ。27歳の時である。

当時、永田事務所はてんてこまいの状況だった。というのは、社員が永田さんと清水治弘さんだけで、ふたりとも書類の山に埋もれて仕事をこなしていた。

そこに事務職員として入社するのが今、ぜんち共済で営業統轄部主任を務める田平(たひら)恵美子さん。彼女は永田事務所での膨大な書類の数に驚くが、ファイリングと機械処理を進めるためにパソコンを導入し、徐々に事務作業を円滑化させた。

この書類の多さは、全国の障がい者の家族を相手にしているからこそ。榎本さんは担当者として永田さんに同行し、各地の障がい者の保護者らに会った当時のことをこう振り返る。

「永田さんと一緒にあちこちを歩いたのが僕の原点です。どこに行っても、障がい者のお母さんたちは、わが子の器物損壊や傷害への補償が保険でカバーできたことに『ありがとうございます。助かりました!』と涙するんです。僕はその姿に『ああ、保険っていいものなんだ。社会に貢献できるんだ』と初めて感銘を受けたんです」

この頃、榎本さんは業績主義の保険業界に多少の違和感を覚えていた。そんな時に出会った永田さんのハートのこもった仕事。もっとも、これが今の「ぜんち共済」へと繋がるのはもう少し先のことになる。

上野支店で好成績をあげた榎本さんは30代にして町田支店に支店長として転勤。その後、わずか1年で社内の最優秀支店に育て上げるが、この時に実感したのは「経営者は面白い」ということだった。

さらに数年後には、支店の立て直しのために大阪へ赴任。その1年後には保険会社B社に転職することになる。

 榎本さんの“師匠”でもある永田仁司さん(左)※写真提供/ぜんち共済 榎本さんの“師匠”でもある永田仁司さん(左)※写真提供/ぜんち共済

「全国知的障害者共済会」設立の使命感

ところが、榎本さんが東京に戻ってくるのを待っていたかのように、永田事務所の清水さんが「困っている」と助けを求めてきた。永田事務所が扱っているのは知的障がい者への傷害保険と賠償保険だが、かつて永田さんと働いていた人たちが運営する会社が、それに加えて病気入院保険を画策しているというのだ。

「永田事務所としても、それに対抗する保険商品を作らなければならない。力を貸してもらえませんか」

清水さんだけではない。育成会からも「病気も補償する制度を作ってほしい」との希求の願いが寄せられた。

健常者ならちょっとした体調の異変を自分の言葉で伝えることで早期治療が可能でも、障がい者はそれができず、重篤化してからやっと周囲が病気と気づく場合もある。そこでいざ入院となっても、その奇声や多動で個室に入らざるを得ないケースが多く、そうなると個室ベッド代が発生し、保護者は多額の負担を強いられてしまうのだ。

これらの要請に榎本さんは「わかりました」と回答し、00年1月に入社したばかりのB社社内で意見を求めた。この時、会社が示した案が「『共済会』を作り、そこで補償する仕組みならできる」ということだった。

榎本さんは動いた。まず、B社が任意団体「全国知的障害者共済会」(以下、共済会)をつくり、永田さんがパイプを持っている障がい者団体の幹部が理事や総代に就任する。

「僕が本当の意味で障がい者に関わり始めたのはその時からで、すぐにその使命感にはまり始めたんです」(榎本社長)

00年7月に共済会をつくってから、まず始めたのが、それまでA社の障がい者保険に入っていた人たちに「共済会に切り替えて」と呼びかけたことだった。これにはメリットがある。共済会が扱う保険には、それまでなかった病気入院と病気死亡の補償がついたことだ。

補償は同年10月にスタート。果たして共済会への加入は順調に増え、数年後には社員も5人ほどに増えた。ところが、この時に耳を疑う情報が飛び込んでくる。B社が日本から撤退するというのだ。

「『おい、この制度、一体どうすんだよ』と驚きました。一方で、僕はサラリーマンがうまくできない本領を発揮してですね(笑)、職場の上司の指示よりも共済の仕事ばかりやっていたので、そりが合わなくなっていたんです」

当時、榎本さんへの会社の評価は低いもので、だったらここにいてもしょうがないと、この撤退情報を機に退職。そして、永田さんや清水さんに「役員として僕を入れてくれませんか」と頼んだところ、ふたりともふたつ返事で受け入れてくれた。

以後、事務代行会社では清水社長の下の取締役として、共済会では清水事務局長の下の事務局次長として活躍することになる。

そこから共済会は順調に成長し、07年には保険契約数が2万件を突破。ところが、ここでまた想定外の事態が…。この頃、金融庁は保険業法の改正を目論んでいた。

衝撃となった「オレンジ共済組合事件」余波

その背景のひとつに「オレンジ共済組合事件」がある。オレンジ共済組合が約93億円もの資金を集めながら、それが私的流用されるなどして組合員は多大な被害を受け、96年に倒産した事件だ。この他にも怪しい組合はいくかあり、全国の消費生活センターに苦情が殺到したことで、国は全国の共済団体への一斉調査に入ったのだ。

その結果、金融庁は「1千人超の共済団体」を対象に『生命保険会社か損害保険会社になる』『少額短期保険業者になる』『事業をやめる』との3つの選択肢を示す法改正に踏み切った(2006年4月1日施行)。

これには榎本社長も「B社の撤退情報とは比較にならないほど驚いた」という。

「本当にインパクトが大きすぎました。どうするんだと。理事や総代からも、そもそも保険会社が障がい者を引き受けなかったから、我々が共済会をつくって2万人の会員まで増やしてきたのに、これがなくなるとまた保険がない不遇の時代に戻る。絶対にこの制度は維持しなければいけないとの声が寄せられましたね」

そこでの選択肢は『少額短期保険業者になる』ことしかなかった。少額短期保険とは、一定の事業規模の範囲内において保険金額が少額で、保険期間が2年以内の保険をいう。

保険会社をつくろうーー。

共済会において、保険会社出身者は榎本さんだけなので、榎本さんが社長になるということで早速、奔走が始まる。だが、今の明るさからは想像もできないほど、そこからの準備は榎本社長に自殺を意識させるほど苦しいものだった――。

★続編⇒社長が飛び込み自殺寸前まで追い詰められた――日本で唯一、障がい者のための保険会社はなぜ変われたのか?

(取材・文/樫田秀樹)