あの国民的バラエティ番組のスピリットを引き継ぎ“友達の輪”を!とスタートした『語っていいとも!』。
前回の三田寛子さんからご紹介いただいた第11回ゲストは、歌手・俳優のさとう宗幸さん。
地元・仙台を歌った『青葉城恋唄』が1978年に大ヒット。81年には金八先生シリーズを継ぐ『2年B組仙八先生』に主演し、95年からはミヤギテレビの夕方ワイド番組『OH!バンデス』の司会を務め、いまだ続く、まさに“仙台の顔”だ。
先週の前編では、その仙八先生でデビュー時の三田さんやシブがき隊の3人と共演した思い出や『青葉城恋唄』で大ブレイクした背景を伺ったが…。(聞き手/週プレNEWS編集長・貝山弘一)
―ドラマの主演にいきなり大抜擢で、やはり求められたのは役者ずれしてない、染まってない感じでしょうか。
さとう かなあ。で、一番最初に1回目の台本が寄越されて、じゃあ読み合わせしましょうと。あのドラマは5人くらい監督がいらっしゃって、僕の前で彼らが仙八先生以外のところを喋るわけですよ。それで終わって、じゃあお疲れ様って僕が行ってから5人が5人とも「今回はミスキャストだったかもしれないな」と。
―え(笑)、さすがに目の前でではないですよね?
さとう 僕には言わないですよ(笑)。後日談で言われたんで。でも僕にしてみれば、やっぱりそうでしょうと。棒読みってわけじゃないけど、要するに声が全く出てなかったし。まあまあ、そんな始まりで僕にしてみれば1ヵ月くらい顔面麻痺ってか、もう目がピクピクして緊張でね…。
―ストレスですか?
さとう ストレスですよ! それで9月で終わる話だから、貯め撮りして7月の後半から8月のあたりで最後の台本なんか上がってくるわけです。もうそれが楽しみでしょうがなかった。あと3本くらいだよな、あと2本だよなって思いながら。
して、ある時のロケでADが飛んできて「仙八先生、喜んでください、あと2クール延びました!」って言われて。ああ!そう…って言いながら、ええー…ああー…(苦笑)。
―でも視聴率の手応えとか周りの反響で悪くないなとかあったのでは?
さとう あんまりそれは考えなかったな。もういっぱいいっぱいでした。ただ、TBSに行けば視聴率張り出されてますから。(武田)鉄矢さんの時からは落ちてるのがわかったけども、当時のドラマにしてみたらそれなりの数字は保ってたからね。
―そういう金八先生の視聴率や社会的ブームとかも当然比較されて、プレッシャーはあったはずだと思いますが。
さとう いや、もう鉄矢さんの後のプレッシャーを意識したらやれないですよ。その後もね、ドラマとか映画の仕事はそれなりにいただいたけど、自分の中で決めたのは、さとう宗幸っていう、このキャラクターを理解してくださる監督なりディレクターの話なら断る必要もなかろうと。
―相手に求められるがままにするだけでいいと?
さとう そうね。ただ、その髭剃ってくれないかなとか、髪をこうしてくれないかって言われたら俺、断ると思うけどね(笑)。そこまでは演じられない。
―アイデンティティというかキャラクターを変えてまでやる必要はない。そこは自分の領域じゃないというか。
さとう そうそう。だから生意気かもしれないけど、鉄矢さんは鉄矢さん、岸田くん(※)は岸田くん、仙八先生は仙八先生なりの、まあ色があってよかったと思いますよ。それだけはせめてものね。 ※『きみの朝』の大ヒットで前年の『1年B組新八先生』に起用された岸田智史(さとし、現・敏志)
「シブがき隊の3人が教室でふざけ回って…」
―実際、当時のそのまま素で飛び込んでいったような、生徒たちと一生懸命体当たりでぶつかってる感じが新人のコたちも多い中でよかったんでしょうね。
さとう おっしゃる通りだと思います。僕はもうあれ以上のことはできなかったし。かといって、あれ以下のこともしたくなかったしっていう。
―やっぱり感情移入というか自然と先生になってました?
さとう なるもんですよ。シブがき隊の3人が1回、まあ有頂天というわけじゃないだろうけど、収録に慣れてきて結構、教室でふざけ回ってた時があってね。カメラのチーフが烈火のごとく顔を真っ赤にして叫んで「何やってんだー、撮らないもう!」って放棄したんですよ。
したら、もうスタジオ中、しーーーんとなって。彼が動かないことには誰も動かないから、いや困ったよなーって時に、ADが飛んできて「すいません、仙八先生からひとつ言ってやってください」って…はっと気づかされたの。俺が言わなきゃいけないよなって、みんな座らせてね。
怒られた3人も確かに悪いけども、彼らだけじゃない。みんながこういう雰囲気を作ってしまったんだからって、そのカメラマンさんに謝らして。ああいう空気があると、ああ、ひとつのクラスなんだよなって生まれてくるね。
―カメラ回ってからのオンじゃなくオフの部分で場を共有して成長していくような。
さとう それと、ひとみ(三田寛子)は言わなかったかもしれないけど、やっぱあれだけ30数名いると、それなりにイジメみたいなものもあるもんなんですよ。ずっと完全にターゲットにされてるコがひとりいてね。なるべくそのコに気持ち寄り添って。あんまりなんだかんだ特別になると言われることもあるだろうから、さりげなく。
―三田さんも言ってました。トイレに連れて行かれて、今となっては仲良くなってるコだけど、京都弁使ってブリッコしてるって頬っぺたつねられたとか…。
さとう ひとみが? あ、そう。
―でも、それこそどの時代にもね。金八先生の“腐ったミカンの方程式”も反響を呼びましたけど、ちょうど僕が大阪から仙台戻って、中学はだいぶ校内暴力とか荒れたとこだったんですよ。不良はボンタン履いて長ラン短ランみたいな(笑)。だからドラマがものすごくリアルだったんですけど、やんちゃも含めていろんな個性がいましたよね。手に負えなかったりするけど、今となれば面白かったなと。
さとう それが学校っていう社会だよね。俺達の頃だってそうだもん。イジメはあったし。
―先ほどの話だと、やはりシブがき隊の3人もかなりアクが強かったんですかね。
さとう 薬丸(裕英)なんていうのはなんだかんだ言いながら、あのクラスをまとめてたコだと思うよ。どこの教育現場もそうだと思うけど、頭の良いコっていうんじゃなくて、必ずリーダーっているじゃないですか。あいつが××するぞ!って言えば、なんとなくわーっとまとまるような存在でいてくれたね。
―やっぱり大人なのはモックン(本木雅弘)とか?
さとう 彼はあの頃からね、一匹狼じゃないけど、ひとりちょっと離れてたね。もうひとりのフックン(布川敏和)は誰とでもなじめる本当に性格の良いコだった。
「梨園の三田寛子じゃない、ひとみになる」
―あの当時、先生も体当たりでやってくれる熱血とそうじゃない冷めた感じとあって、だから金八的な教師像が求められ、熱望されたんでしょうね。
さとう いきなり鉄矢さんの一発目、金八先生はセンセーショナルだったでしょ?
―それでいうと、仙八先生はスマートで優しくてっていう感じもあり。でもやっぱり怒る時は熱いみたいな。ご自分にも通じる部分がありました?
さとう うん。だから仙八を含めて皆おっしゃるような熱血教師だったけど、それぞれのトーンはあったんだろうね。
―それにしても最初の還暦のエピソードもですが、原点として同じ感覚で先生と生徒に戻れるんですね。
さとう ほんとにそうだね。特に、ひとみとかのグループっていうのは男のコもいれて10人いるかいないか、年に何回か集まってるみたいで。その都度、連絡はくれるんですよ。
あの頃からね、可愛いコだったけど、いろんなバラエティなんかも出て、あれだけネームバリューのあるコで、(中村)橋之助さんと結婚して梨園の奥さんになって。それでも同窓会になると、やっぱ梨園の三田寛子じゃない、ひとみになるから他の生徒にとっても嬉しいところだろうな。
―また私事ですが、僕の中3時にたった1年通った塾も学年15人くらいの個人塾で。いまだに集まるんですよ。用事で先生が来ると世代を超えてみんなで東京のOB会とか集まったり。その話を周りにすると「何それ? 30年以上経って塾の集まりとか意味わからん」と不思議がられますけど(笑)。でもやっぱ元に戻る感じというか、同じですね。
さとう へー。それも珍しいね。指導するのは今北先生だけ?(実は取材前の撮影時、雑談で面識があることが判明していた!)
―ええ、それと奥さん先生もいまして。夏の講習だけ教えるとか。それでもう35年やられてるわけです。若い頃はそれこそ体当たりで不良がかったのと殴り合いしてました(笑)。
さとう あー、そうなの、へーー(笑)。
―鉄拳で揉みあってましたから。今でもその話で盛り上がります(笑)。…それで、宗幸さんは全国区で役者までされて、NHK大河ドラマ『独眼竜正宗』の支倉常長役まで。それが90年代になって拠点を完璧に仙台に戻されたんですよね。
さとう 本当に東京に住んだのは仙八先生の1年間だけ。あれは不可抗力ですね。向こうで週のうち5日間の収録だから。ワンルームのマンション借りてね。だけど収録終われば夜中だろうと仙台帰ってましたから。
―ご自分の中でずっと居場所はこっちなんだと…仙台を中心にやっていくことがはっきりしてて、ぶれがなかった?
さとう それはもう完璧でしたね。女房がいて、家族がいたっていう絶対的な条件もあったけど。東京に移るなんていうのはさらさらなかったし。夜中の収録が終わって、当時運転してくれるコがいたから、もう明け方に仙台に着くとかね。そうしてまでやっぱり帰ってきたかったね。
「三木谷さん本人にじゃないけど言った」
―人気が出てメジャーになったんだから、もっといろんな仕事をとか欲はなかったんですかね。
さとう なかったなかった。欲なんか考える暇がないくらいいっぱいいっぱいだったし。そうねえ、もう自分から積極的にやっていこうっていうのは…音楽的には、やっぱりシンガーとしてそのやるべき今以上のことを求めてたりするけど、それ以外のことは何もなかった。
―それも自分の必要とされてる役割に従っただけみたいな?
さとう だから自分のモットーじゃないけど、陳腐な自然体って言葉と、まあ等身大っていうことはもうずっとその思いでやってきてますね。今もそうですし。自分をこれ以上大きいものに見せようなんて全く思わない。シンガーとしても役者としても、今やってる『OH!バンデス』も、あの中でキャスターとしてニュース原稿を読もうなんてさらさら考えたこともないし。
―そのキャスターも今となっては20年務められて。例えば、楽天イーグルスの日本シリーズで国歌斉唱されるとか、ベガルタ仙台でも後援会長的なことをされたり、要職というか、仙台の顔としていろんな立場で活動されてますよね。
さとう 要職っていうかね、意識したらもうおそらく、そんな自分を押さえつけるような大きな重さのあるものなんてやっていけないと思う。だから引き受ける時は、やる時は精一杯やるけど、やれない時はごめんねっていう条件付きですよね、いつも。
―それもあるからおもねらない? 楽天の1年目も田尾(安志)監督が解任させられて、たった1年でという憤懣(ふんまん)の意味もあって名誉ファンクラブ会員をやめられて。三木谷(浩史)オーナーに抗議したっていう話もあります。
さとう まあそうです、仰る通り。三木谷さん本人にじゃないけども。オフィシャルには言った(笑)。
―自分の中での激しい部分っていうか、これは許せないって激するのも仙八に通じますが(笑)。権威に対してのそういうスタンスもずっと通してきた自由さなんですかね。
さとう とりわけ地方にいればじゃないですかね?
―地方でやり続けてる矜持(きょうじ)というか? 東京でもいろんなしがらみとか欲得とか経験されてるでしょうし…。
さとう かもしれないね。そうですね、そんな気がする。
「お偉いさんも東北の復興からみたいなことを言って…」
―そこで仙台や東北も震災以後、またいろんなことが問題山積ですが。政治家にならないか?なんて誘いもあったのでは…。
さとう それはここだけの話いっぱいありましたよ。市長選、知事選、赤絨毯も。もう50代はそういうのは機会があるたびにいろんなところから聞こえてきたし。直接打診あったのもいくつかあるしね。
―でも、それはさすがに求められればってわけには?
さとう いかない。政治には関心あるけど、政治家にはまったく興味ない。
―そういうスタンスでやるのは自分じゃないと。でも僕も震災後、たまにしか来れないですが、友人が亡くなった石巻から三陸のほうを車でずっと行ったりとか、いろいろ見てますけど。いまだに復興は遅々として、福島も現在進行形で深刻な問題のはずなのに世間は東京オリンピックだなんだと温度差があって…。
さとう これが具体的になってきて、新国立も作り始めたら人は取られていくだろうし。それにいつなのかは不確定だけど、東京とかあっちに大きな災害が起きようもんなら、もう東北は完全無視になっちゃうよね。
―ですよね。まさかこんなに早いとは。ある意味、東北以外では風化している現実に暗澹(たん)たる気持ちです。
さとう おっしゃったように、4年半経ってまだこんなもんかって感じですよ。あれだけ日本のお偉いさんとかも東北の復興からみたいなことを言っておきながらね。
―僕も何かにつけできることは?と考えるんですけど。離れていると特に東北に関係ない人間はのど元を過ぎ、どんどん忘れていって…。そこで地元にいる宗幸さんなんか、いろいろ役割みたいなことを考えられるのかなと思いますが。難しいですね。
さとう でもやっぱりこういう仕事でこういう立場にいるものだから、それを律してやれることといったら、やはり現実もそうだけど、現実以上に真実をね、伝える役割を担ってるのかなと思います。中央含めて県外に行って、こういう話をするチャンスがあれば、それは伝えなきゃいけないと常日頃思っているよね。
―今そこで生きてる人をちゃんと扱うとか、声を聞くとか。忘れてないよっていうのを示していくのもあるでしょうし。
さとう そうね。被災地に住んでると余計、それは自分でも失ってはいけないと思ってる。
―もう今日の生放送の本番前ということで、そろそろ時間が…。今回こういう機会にお話できたというのも何かの巡り合わせというか、ほんと縁だなと。お忙しいところありがとうございました。
さとう いや、こちらこそわざわざ来ていただいて。ありがとうございました。
●第12回のゲストは声優の山寺宏一さん→「イイ声って言われたこと、本当に1回もないです!」
●さとう宗幸 1949年生まれ、岐阜県出身、宮城県育ち。現在は仙台市在住。東北学院大学在学中にうたごえ喫茶「若人」で歌い始める。1978年にメジャーデビュー曲として発売した『青葉城恋唄』が全国的に大ヒット。紅白歌合戦出場を果たす。1981年に『2年B組仙八先生』で伊達仙八郎役に選ばれ、主演を務めることに。また、1987年には、NHK大河ドラマ『独眼竜正宗』で支倉常長役に抜擢。1995年からはミヤギテレビの夕方ワイド番組『OH! バンデス』で司会を20年務めるなど仙台の顔として活躍中。10月21日には7年ぶりのシングルCD『あ・り・が・と・う・の歌』がキングレコードより発売
(撮影/貝山弘一)