あの国民的バラエティ番組のスピリットを引き継ぎ“友達の輪”を!とスタートした『語っていいとも!』。
前回、元Jリーガー・日本代表の武田修宏さんからご紹介いただいた第22回ゲストは元ヴェルディ監督でサッカー解説者の松木安太郎さん。
Jリーグ創設時に35歳の若さで初代ヴェルディ監督就任。現在は試合解説での“松木節”もすっかり定着したが、前編では幼少時の頃から読売クラブ(現東京ヴェルディ)に所属するまで、その熱いキャラのルーツを語っていただいたがーー。(聞き手/週プレNEWS編集長・貝山弘一)
―やはり当時の読売クラブは野武士的な人たちの集まりみたいな気質、カラーがすでに?
松木 そうですね。ただ元々、(オーナーの)正力松太郎さんが「世界のスポーツを考えたら、野球はどこかでブレーキがかかる可能性があるから、サッカーに目を向けよう」というのが最初らしいんですよ。
ヨーロッパとか海外の方々との交流もされて、たくさん会われた中でやはりそういった話題が出ていたんじゃないかと思います。いくら大会社のトップとはいえ、いろんな世界をご存知じゃないと、当時なかなかサッカーに力を入れるという発想には行き着かないですよね。
―読売新聞の社主であり、巨人軍のオーナーだった正力さんだけに、さすが先見というか目の付けどころが。そういう経緯で日テレが80年代からTOYOTAカップを招致した流れもあるんですかね。
松木 まぁ、そうかもしれませんね。しかも、当時から読売クラブはヨーロッパとかのクラブチームを目指すという主旨でやっていましたから。私が小学校の時は、もう中学高校の選手と一緒にやっていたし、上を目指すにはすごくいい環境なんですよ。上手くなるんです。もちろん、きつい時もありましたけどね(笑)。
―昔は本当そういうのも軍隊的な名残(なごり)もあって。鍛えられる部分もありましたしね。
松木 そうですね。そうやって鍛えられることが、自分にとって強さになるんだと思いますけど。いやー、それはもう鉄拳制裁どころじゃなかったですよ。ただ、監督から殴られたりすることはなかったですけどね。私の場合の鉄拳制裁は全部、父親でしたからね(笑)。
―父親の怖さに比べれば、なんてことないしっていう打たれ強さも?
松木 そうですね。だからこそ一歩間違えれば本当に道を外していたかもしれません(笑)。
―そうならずに済んだのもサッカーで発散できたからと(笑)。で、そもそも創立当初はヨーロッパのサッカーをモデルに目指した読売クラブが、ブラジル、南米のイメージになったのは与那城(ジョージ)さん、ラモス(瑠偉)さんからですか。
松木 ブラジルの選手が来て、そういう傾向になりましたね。ジョージが呼ばれて、ラモスも来て。ふたりとも当時のブラジルのクラブではプロで活躍しているというよりも、その予備軍だったんですよね。彼らをベースにして、南米のスタイルを確立していきました。
でもまぁ、私にとってはヨーロッパでも南米でも同じなんです。(ヴェルディの)監督の時にもいろいろ言われましたが、ヨーロッパ型とか南米型とか、型にこだわる必要はないと思ってましたから。今、何十年も経ってね、例えばバルサにしても、もうそんなの一切ないですよ。
逆に南米がヨーロッパのいいところを吸収しようと考える時代になってきて、それが理想なんですよ。私は当時からそういう考えでしたから。
「あの歳だから若さで逆境を乗り切りましたね」
―確かに組織としてのチーム作りがいわれても、結局は個の技術や強さがベースにあってという。現代サッカーをどちらかだけで語るのは時代遅れですもんね。
松木 そうです。結局、今はどこの国、クラブでもそれが求められていますよね。
―そのJリーグ元年にヴェルディ初代監督をやられた時は、オランダのマイヤー選手を起用したり、だいぶ批判だったり、チーム内での軋轢(あつれき)も取り沙汰されましたが。そういうヨーロッパ的なものとの融合も理想としてすでにあったんですね。
松木 それもありましたし、いろいろとチーム事情もありましたけれど(笑)。だけど、やっぱりそういう融合が日本のスタイルとなるのが理想だと思ってますし。どこかのスタイルをまねるのではなく、日本のサッカーというものを追求していくのがJリーグのひとつの主旨でしたから。
―それこそ歴史の浅い中での日本的なスタイルっていうのを模索し続けている20年ですが、なかなか道半ばというか…。
松木 結局、未だに自分たちの的確な良さ、こういうサッカーだという確固たるものが見えてきていないですよね。だから、代表の監督にしてもいろんな国の方が来てますから。まぁ日本サッカーの歴史の中でまだそういう時期なのかもしれないですね。
―ちなみに、戦術的な部分で求められるのは当然あるにせよ、松木さんはキャプテン時代からリーダーシップを求められて、個性を束ねる、統率するのに相当苦労されたと思うんですけど。
松木 逆に、あの歳だからできたというのもあったのかもしれませんよ。若さで逆境を乗り切りましたね(笑)。
―それもがむしゃらにというか、勢いで? 初代就任時がまだ35歳くらい、監督というより兄貴的なアプローチの仕方だったんですかね。
松木 そうですね。だから、酸いも甘いも経験した今の私にあのオファーがきていたら考えますよ、それは(笑)。何も考えず飛び込めない感じはありますよね。だから若さはいいんですよ。チャレンジできるのは若い時が一番。多少失敗しても取り返しがつきますから。
―(笑)。でも武田さんともそういう話になりましたが、日本リーグでもいい時代というか、読売クラブからヴェルディまでやはり自分の気質にも合ってたんでしょうね。
松木 そういう魅力のあるチームでしたよ。私もそうでしたけれど、プロとして稼ぎたいと思っている選手がたくさんいましたし、試合になると緊張感ありましたからね。でもまだ今ほどプロの世界が確立されていないというか、アマチュアの頃と変わらないような狭間の時代が何年も続きましたね。
―それでも他が企業チームで社員的な立場でやってるのとは意識が違ったのでは?
松木 それは全く違いましたね。Jリーグができて徐々にいろいろなことが変わっていくんですが、根本的な意識は変えられないじゃないですか。だから、ヴェルディのほうがやっぱりプロフェッショナリズムというのはありましたよね。もう、がむしゃらにやってましたから。
「サッカーで解説者というカテゴリーもなかった」
―そこでJリーグが始まって、最初のバブル的というか、本当にまたガラッと生活も含めて変わったところも大きかったのでは。
松木 かなり変わりました。ただ、私たちは16歳から一応、毎年、契約などに関する話し合いを経験していたんで、そんなに変化はなかったですけれど。逆に浮かれていたらいけないというか、世の中がサッカーブームとなる中で気を引き締めていないと足元をすくわれるという風に思った人は多いんじゃないですか。
―そこで勘違いしたらいかんみたいな、戒(いまし)めてたところも?
松木 選手の年俸も含めて、これだけ抑えてもできるんだと示すこともマネージメントの立場からすると必要だと思いましたね。例えば、日本の選手が何千万ももらっている一方で、外国人選手でも1千万程度でこれだけ頑張っていることを見せるのも大事でしたし。
外国人選手はやっぱりスパイスなんですよ。いい料理を作るベースになるのは日本人だし、主食にならなきゃだめだと当時から言っていましたからね。そういうスタンスでチームを作り、リーグの土台を作っていくことで、将来、日本がワールドカップでいい成績を残せるようになればという思いでやっていました。
―やはり目先ではなく、ヴィジョンを持ってやられてたということですね。
松木 だから今のJリーグでも、外国人選手の力で勝つことは、極論で言えば、日本の強化にはなっていないともとれますよね。そこをもう1回、見つめ直したほうがいいんじゃないですかね。元々のJリーグの主旨は、日本のサッカーの強化のためのリーグなんですから。それはどこの国でもそうですけどね。
―それにしても、若くして監督をやられて、現場を離れてからも解説者という立場で関わられて。自分としてはこういう現役後の人生をイメージされてました?
松木 いや、全く想像していなかったですよ。大体、ヴェルディの監督を辞めてから半年くらいは仕事も来ないし、何もしてませんでしたから。ちょうど子供が小さかったので、公園デビューするとかね、子育てを手伝ってました(笑)。その時期は結構ゆったりと、のんびりとした時間が過ごせましたけれど。ただ、これからどうやって生きていくのかなと考えた時期でしたね。
だから、いろんなことをやろうと思って、TV局から声かけていただいたら積極的にお仕事を受けましたが、TVはサッカーとは全く別世界でしたよね。講演会なんかも話をいただいたりして、もちろんやったことはなかったですけれど、新しいことに挑戦する時は誰でも初めてのことばかりですから。現役時代と同じで、常にチャレンジ精神をもって取り組んでいましたよ。
―サッカー人生でも何もないところを開拓していったような感じでしょうし…。
松木 未だにそういうところもありますしね。大体、その頃はサッカーで解説者というカテゴリーもなかったですから。野球の解説者はありましたけれど。そこ自体も第一歩目。面白いですよね。
叩かれたり厳しい声も「全然オッケー」
―それもやはり、がむしゃらにやっていくうちに自分のスタイルみたいなものが?
松木 そうですね。いろいろ経験させていただいていくうちに、今のやり方に落ち着きました。
―我々からすると松木節というか、独自のスタイルを確立されてますもんね(笑)。
松木 いやいや、確立なんて大それたものではなくて、普段、サッカーを見ている時と変わらないんですけれどね(笑)。
―ははは、それこそまさに松木節なのかと(笑)。サポーターの代表のように感情的な部分で「いけー! いけー! いけー!」みたいな。そこにファンも愛着を覚えつつ(笑)。
松木 テレビ朝日の現会長の早河(洋・ひろし)さんが「時代が松木に追いついた」という言葉を使ってくださったことがあるんですが、それはすごいありがたいお言葉でしたね。だから紆余曲折あったけれども、やっとサッカーの時代が松木に追いついてきた、と(笑)。
―(笑)。実際、あれって解説じゃねえだろとか、叩かれたりというか、いろんな厳しい声も耳に入るんでしょうけど。
松木 全然オッケーです。それを言ったり言われたりするのもスポーツの面白いところだと思いますね。…まぁ、例えば私がどっかの監督とかコーチの立場であればね、私の戦術論がありますから、それを話しますけど。
でもTVのエンタテインメントの場所で表現することじゃないと思ってますから。もしじっくりと戦術的な内容を話す時間があるならやったほうがいいですけどね。でも今の中継の特性上、そういう時間はないじゃないですか。だから、しょうがないなと。そこで長々と戦術論を言ってもね。
今は有料チャンネルもありますから、そういうところで戦術論とかを楽しむ方に向けてお話しするのはいいと思いますよ。ただ、代表戦になると、普段サッカーを観られない方もご覧になるので。その場では、やはり楽しんでもらいたいというスタンスですね。
―自分がサポーターと一緒になって、エモーショナルなものも含めて伝えるのが松木スタイルみたいな。
松木 だから、主語を決めることが大切ですよね。例えば日本戦だったら、主語は日本になってくるわけですし。Jリーグをローカル番組などで放送する時は、主語はホームチームですから。全くリベラルな両チームでも感情移入しないように心がけています。まぁ幸い、そういう試合を解説する機会は少ないですが。
次回ゲストは元プロ野球選手・監督の…
―でも武田さんが嘆いていましたけど、日本のサッカー文化の根付き方っていう意味で、例えばサッカー番組でも、欧米や南米とか歴史がある国ではちゃんと元選手や評論家が討論する場があったりするんだけど、と。
松木 中東のカタールなんかは4時間くらい延々とサッカーの話をしていますからね(笑)。ああだこうだと喋って、それで番組が成り立つんです。
―それこそ「朝まで生テレビ!」的な感じでサッカーでもやってますよね。
松木 いろんな趣向を凝らしていますよね。もし日本でそういう番組をやるとするなら、バランスをみてキャスティングをする必要がありますし、視聴率的なところも考えなくてはなりませんからね。
―そういう判断が入ってきちゃいますよね。やはりそこまで根付いてないしと。それこそ野球でさえ地上波放映から消えて、コアなファンが有料チャンネルで楽しむのはありなんでしょうけど…。では今後、ご自身の活動としてはどんなビジョンを? やはりまた現場復帰も…。
松木 もちろんチームを見たいという思いもありますし、コーチとしてもいろんな仕事がしたいとも思いますよ。ただ、プロのトップレベルも魅力的ですが、世界に勝っていくにはやっぱり15、16歳あたりの年代の強化が必要ですからね。どこの国に行っても、ある程度、年齢を重ねた経験あるコーチがその影響力のある世代を見ているので、私もその世代の強化に興味がありますね。
―そこは世界的に見てもスペインもそうでしたし、コロンビアであれベルギーであれ、ユース世代を強化している国がやはり成果を出してますよね。
松木 強くなりますからね。もちろんその年代の見直しというのは協会の強化部もいろいろと考えているんでしょうけどね。
―ご自身でやるやらないは別として、また代表の日本人監督待望論みたいなものに対してはいかがですか?
松木 日本人で経験を積んだ素晴らしいコーチ、監督はたくさんいますよ。Jリーグにしてもいい監督がいますから。
―先ほど仰ってた、日本のサッカー、日本人のスタイルを確立するということでも、監督が代わるたびに舵取りを方向転換するものじゃなく、定まらないと。
松木 だから、ヨーロッパとか南米のビックチームの真似だけでは駄目だと思います。私は日本の戦い方のベースは速攻型だと思いますよ。素早く相手の窮地をつく…日本がアルゼンチンと戦っていい成果出した時も、イタリアと戦っていいゲームした時も、全部点を獲っているのは速攻型の攻撃でしたから。ただ、それをもっと質の高いサッカーで繋いでというところはまだ発展途上の段階ですね。
―その辺ももっとお伺いしたいんですけど、もうお時間が…。では次のお友達を紹介していただけるでしょうか?
松木 サッカー関係者の方でなくてもいいですか? デーブちゃん、デーブ大久保さんはどうですかね。
―デーブさん! 一昨年の楽天監督就任前にインタビューさせていただきました。
松木 今、新橋で居酒屋のお店始められたんです。2、3日前にもちょうど電話で今度飲みに行くからと話していたんですよ。
―それは是非! 退任後のお話も伺いたかったですし、では繋げさせていただきます!
●第23回は5月15日(日)配信予定! ゲストは元プロ野球選手で楽天イーグルス前監督のデーブ大久保さんです。
●松木安太郎 1957年11月28日生まれ、東京都出身。小学4年生で読売クラブ(現:東京ヴェルディ)に入団。高校時代にDFに転向し、16歳でトップトーム(当時日本リーグ2部)に昇格。83年の日本リーグ初優勝をはじめ数々のタイトルを獲得。主将も務めた。日本代表としてメキシコW杯予選、アジア競技大会、ソウル五輪予選などに出場。90年に現役引退。読売ユース監督、トップチームヘッドコーチを経て、93年ヴェルディ川崎(現:東京ヴェルディ)の監督に就任。同年と翌94年に第2ステージで優勝し、チャンピオンシップを制して2年連続優勝(Jリーグ最年少監督)。98年セレッソ大阪監督、01年東京ヴェルディ監督を歴任。現在はテレビなどで解説者として活躍。
(撮影/塔下智士)