腎臓がんの手術から10年、プロレスデビュー前の苦節から誠実に語ってくれた小橋さん 腎臓がんの手術から10年、プロレスデビュー前の苦節から誠実に語ってくれた小橋さん

あの国民的バラエティ番組のスピリットを引き継ぎ“友達の輪”を!とスタートした『語っていいとも!』

第32回のゲストで元WBA世界スーパーフェザー級チャンピオンの内山高志さんからご紹介いただいたのは元プロレスラーの小橋建太さん。

全日本で数々のタイトルを受賞、ノア移籍後も「絶対王者」として君臨するも06年に腎臓がんが発覚し、長期欠場。翌年12月に日本武道館で奇跡の復活を果たし、2013年に現役引退。

文字通り、命を張った激しすぎる生き様を今、振り返ってもらったーー。(聞き手/週プレNEWS編集長・貝山弘一)

―実は、だいぶ昔に週プレ本誌で一度インタビューさせていただいてまして。腎臓がんで手術されて、1年半後に復帰戦を戦った直後の12月に…。

小橋 あぁ! じゃあ2007年の…。あのですね、腎臓がんの完治って言われるのが10年なんですよ。10年前に手術をして、今年の7月に10年を迎えて。ちょうどそこでまた取材してもらって、なんか面白い縁ですね(笑)。

―そうなんです。この対談連載では本当にガチで友達を紹介していただいて、繋がって繋がって、1年半でここに至ってるんですが。このタイミングでまた小橋さんとお話させていただくというのが、ご縁を感じて…。

小橋 本当ですよね。10年経って、そのタイミングって、紹介する人もそうこないと…。

―本当にいろんな巡り合わせを感じるんですが、今回は特に感慨深くて。ブログを拝見させてもらい、その7月に10年で完治ということで喜びの写真をUPされてましたよね。よかったなぁと。

小橋 一応、喜びだったんですけど、最初は10年で完治って言われたんですね。ところが腎臓がんだけは、そこからまた再発する可能性があるらしいんですよ。いつ出るかわからないって、そういう病気らしいです。大体は10年ぐらいで勢いは止まるんですけど、まだボチボチは出るらしいと。

―そうなんですか…。ちなみに先日は肝炎検査や早期発見啓発イベントのトークショーも出られたりして。

小橋 そうなんですよ、「知って、肝炎プロジェクト」っていう杉良太郎さんと伍代夏子さんが関わられてるのを。僕がかかった腎臓がんもですけど、肝臓、膵臓の疾患っていうのはサイレントキラー(静かな殺し屋)って言われて、表に出ないんですよね。それで皆さん健康診断にもいかないんで、調子悪いってなってからだと、もう手遅れで。

―キャリアが結構いるんですよね。実は私も20歳の頃に急性肝炎やってまして。

小橋 えぇ! 本当ですか。若い時ですよね。今、おいくつですか?

―1966年の12月生まれなんで、小橋さんが67年の3月ですよね。学年が一緒なんですよ(笑)。

小橋 えぇ! 若いですねぇ!

「僕も目の前真っ暗になったんですけど…」

―いやいや、見た目以上に中身はくたびれてますから(苦笑)。肉体的には小橋さんが遥かに若いですよ。

小橋 そうですか、同級生なんですねぇ。今、肝炎はどうなんですか。

―その時代はまだC型が見つかっていなくて、AでもないBでもない「非A非B」とされていて。それこそ治療法もなく、キャリアのまま、ずっと背負って生きていかなきゃいけないみたいな。いつ慢性肝炎から肝硬変、肝臓がんに移行するかもわからないと…。

それが、人によっては自然と抗体ができてウイルスを根絶させているケースもあると言われて。40歳くらいの時に血液検査で調べたら、おかげさまでなくなってるらしいんです。この「語っていいとも!」のゲストで千原ジュニアさんに出ていただいた時があるんですが、ジュニアさんも肝炎やってて、同じ話になったんですけど。

小橋 あ、そうなんですね。千原兄弟は僕と故郷が一緒なんですよ。京都の福知山の観光大使「ドッコイセ大使」を僕がやっていて、今、千原兄弟が3代目なんです。

―またいろんなものが繋がりますね(笑)。その肝炎プロジェクトも何か協力してくれるかもしれないですね。

小橋 あぁ、そうですね。…でも、非A非Bですか。怖いですね、そんなの。ずっと心配だったんじゃないですか。

―まぁ当初は、なんで普通に周りは元気にしてるのに、自分はこんな悶々としながら生きていかなきゃいけないのかなって気持ちもあったんですけど。でも逆に病気をした人間の心情にも寄り添えるというか。だから小橋さんもずっとそういう大変なものを引き受けてこられたんだなと。

小橋 いやいや、そんなことないです。だって20歳の時になったら、やっぱりもう、この先の夢とか、どうなるんだってなりますよね。僕は40歳になる前ですから。

その告知をされる2、3週間前に札幌でチャンピオンになって、健康診断行ったら、いきなり腎臓がんって言われて、落差がひどくて。本当に目の前真っ暗でしたから。20歳の時にそう言われてたらね…どうでした?

―例えば、怪我だったらリハビリすればいいんじゃないかとか、きちんと治すためにはとか考えますけど。ずっと終わりのないような。発症しないよう怯えながらというのはありましたね。

小橋 そうですよね。内臓のことだからわからないし、30年前にC型もまだ発見されてない、治療法もわからないんじゃ…。

―ただ、運、不運の巡り合わせもそうですけど、受け入れるしかないってのもあって…。

小橋 なったら、受け入れるしかないですからね。僕も目の前真っ暗になったんですけど、どう治すかっていうことをまず考えて。最初は手術せず、試合に出ようという気持ちだったんですけど、それも自分だけの責任じゃないですよって先生に言われて。

「最初は要らないって言われた選手だった」

―まず生きることを考えましょう、と? 小橋さん自身、それで当初は保存療法的なことでできないかと考えていたのを、片方の腎臓を全摘するしかないという決断もされたんですよね。

小橋 そうなんです。やっぱりふたつあるものがひとつになるより、1.5で済むほうがいいと思うじゃないですか。でもそれは甘い考えなんですよ。目に見えないところで転移してる可能性もあるので、半分残すよりも1コ取ってしまったほうが生存率も高くなるんで。

甘くは考えてなかったつもりですけど、無理矢理、試合に出場することで周りにも迷惑をかけてしまうし。自分を貫くことだけが正しいわけじゃない。貫いて、みんなに迷惑をかけてしまうことを考えないのはダメだって。その時、思い知らされましたね。

―でも手術して、その後の復帰に向けては、結構また無理されたんですよね(苦笑)。すぐ練習場入って、コレぐらいのペースでという約束以上にハードにやり過ぎて。

小橋 はい。主治医の先生にも話がいってたみたいで。小橋は放っとくと無茶苦茶やるから、無理させたらダメだよっていうことで。ずっと牽制されてました(笑)。

―ただでさえ尋常じゃなく練習好きで知られてるのに、それを取り上げられる辛さというか…早く戻したいという焦りもあったでしょうし。

小橋 そうですね。でも、まぁ(練習するのは)レスラーやってて当たり前のことですからね。

―それこそ川田(利明)さんが以前「あいつを殺すには刃物はいらない、ダンベルを取り上げればいい」って。名言として伝説になってるほどですが(笑)。

小橋 いやいや(笑)、そんなたいしたことないです。でも復帰する中で、やっぱり自分だけの体じゃない、自分だけの人生、命じゃないっていうのを改めてファンに対しても考えさせられましたね。

僕は最初にデビューして、結構早くから、すごいエリートだと思われてる部分があると思うんですけど、全然違いますから。最初は要らないって言われた選手だったんで、デビュー戦もTV中継のない田舎の会場でしたし…。

―入門1年で師匠・ジャイアント馬場とのタッグでタイトル挑戦に抜擢されるなど颯爽(さっそう)とエリートコースまっしぐらと思いきや、海外修行もずっとさせられないで。憧れがあったそうですね。

小橋 させてもらえなかったですね。ですから最初、そもそも僕、入門させてもらえなかったんです。1回、京セラに就職して辞めて、で、体を鍛えて全日本プロレスに書類を送ったんです。そしたら不合格通知がきたんですよ。

どうしても納得できないんで、腹立って電話したんです。「身長も体重も年齢も全てクリアしてるのに、なんでダメなんですか」って。そしたら、アマチュアスポーツの実績がないのに歳がいってるからダメだと。

僕もスポーツは全くやってないわけじゃなくて、柔道だったんですけど、20歳からまだいくらでも頑張れるじゃないですか。だって、世の中、実績がない人のほうが遙かに多いんですよ。なんでそこだけで決められるんだと。メラメラっとしたものがありましたね。

「前向きな劣等感っていうんですけど…」

―それも逆に反発心というか、人一倍やらなきゃダメだとか自分のモチベーションになって?

小橋 なりましたね。入門したら余計に格差というのが大きくて。やっぱり自分の力ではどうしようもないってのはあったんです。でも、そこから自分が頑張ってやるしかない。弱音吐いてもしゃーない、やるとこまでやって、ダメだったらもうね。

僕がよく言うのは、前向きな劣等感っていうんですけど。そういう劣等感で、全国大会も出れなかったのにチャンピオンなって実績あげたりとか。周りにたくさんいますから。

―劣等感だからって卑屈になるのとは違う、前向きな劣等感…。

小橋 はい。僕らなんか全然叶わないようなスゴい実績あげてる人がいても、卑屈になる必要はないんですよね。だって、ここからスタートラインに立つわけですから。そこで10年、20年頑張って努力すれば、抜くこともできるじゃないですか。でも、まずはスタートラインに立たないとダメだと。

僕、プロレスラーになりたいっていうのも最初、誰にも言ってなかったんですよ。母親と兄貴だけで、友達とかには「まぁなってから言えばいいや」って。絶対なれるもんだと思ってましたから。それが断られたんで、これはどうしようかと思ってね。

でも、それで諦めるほど、そんな簡単な気持ちで会社も辞めたわけじゃないんで。今度は知り合いのスポーツジムのオーナーに相談して、そこからまた紹介してもらった関係者に連絡してもらったんです。で、馬場さんが試合で滋賀県に行くんで「来なさい」って言われて、会って話を聞いてもらえることになって。

―そこまでの思い入れで入門に行き着いたんですね…。でもそもそもが、就職してみて「こんなに俺はプロレスがやりたかったんだ」という気持ちに気付いたんですか。

小橋 いや、あのですね、京セラで働き始めて僕、寮に入ってたんですけど、半年ぐらい経った時に、ある新聞が目に入ったんです。そのスポーツ欄を見て、すごく小さい記事だったんですけど、アメリカのボクシング界にすごい選手が現れたと。

彼は少年院に何十回も入って、スラム街で家も貧乏で。それが負けないで連勝記録を作ってアメリカンドリームになってる…というような感じで載ってたんです。それが世界チャンピオンになる前のマイク・タイソンの記事だったんですね。

―やっぱりタイソンでしたか。で、その記事が小橋さんをも目覚めさせたと。

小橋 ですから、タイソンはボクシングで、自分にとってはなんだろうって思った時に、やっぱりプロレスだったんです。小学5年生の時にTVで見て以来、プロレスラーになりたいっていう想いが強かったんですよ。いつかなりたいなぁって思ってね。

高校卒業した時に行きたいなって気持ちもあったんですけど、母子家庭で女手ひとつで育ててくれたっていうのもあって。母親は僕がプロレスラーになりたいっていうのもわかってるんですけど、やっぱりちゃんとしたところに就職して、早く立派な自立した社会人になりたいなと思って。その夢を少し心の奥にしまいこんでたんですよ。だから大学進学っていうのも頭になかったんです、進学校だったんですけど。

「借金払い終わるまでは辞められないなと」

―早く稼いで安心させたい、楽させてあげたいという。それで漠然とイメージだけだったプロレスへの願望を押し殺して…。

小橋 そうですね。で、その記事を見て、また湧き上がってきて。もちろんすぐにはなれなかったんですけど。いろいろ問題がありまして…。

当時、借金というか、働きながら車の免許を取りにいったんですけど、それがローンで。その免許取れたんで車も安い中古を買ったんですけど、そのローンもあって。母親に頼るわけにいかないし、兄貴も自分の生活がありますから、やっぱり言えないので。払い終わるまでは辞められないなと思ったんですよ。

そしたらちょうど工場もこれまで2交代勤務でやってたんですけど、人を増やして3交代になったんです。給料も下がって…それだとローンを返すのは24、5歳になってしまう。それでは遅いな、どうしようかなと。

―リアルな話ですが、そこも小橋さんの真面目さが垣間見えるような。借金なんて、プロレスやって、なんとでもしてやるというのでもなく…律儀な感じ(笑)。

小橋 いや…で、そこに鹿児島に長期で出張に行くって話が出て。みんな家族と離れるのが嫌だとか、恋人と離れたくないとかで、選ばれた人が辞めてって、なんか僕のところに廻ってきたんです。これ、もしかしたらチャンスかもしれないと。

まぁ実際はチャンスとはさすがに思えなかったですけど(笑)、このままでは何も変わらないじゃないですか。でも何か変えるにはチャンスと思って動かないと。だから行ってみようということで、忙しいとか何も思わず、僕大丈夫です、行きますからって。そしたら、それがもう2交代勤務ですごく忙しくて、ずっと残業もあるような…。

―そのしんどさの代償に、あっという間にローンを返済できるほど稼げた?

小橋 はい。すごい忙しくて、鹿児島の国分(こくぶ)っていう田舎の街で全然遊びに行くようなところもないんです。仕事場と寮を行き来するだけで、遊びに行けないのでお金が溜まって。半年間だけ鹿児島に行って、帰る時にはローン全部返して、残ったお金でしばらく生活できたんですよ。会社辞めても、プロレスラーになるための練習だけに没頭できるお金ができたんで…。

―それもまた運命の巡り合わせですねぇ。で、馬場さんへの直談判のおかげで入門にこぎつけて。

小橋 でも、それで入門テストがあるっていうので行ったんですけど。面接だけだったんです。で、馬場さんから「事務所から電話させるから東京出てこい」って言われて、「わかりました!」って。これでいいのかな、合格なんだ?と思って。

そのまま帰ったんですけど、1ヵ月経っても連絡来ないんですよ。あれ? 来いって言ったよなって、事務所に連絡したんですね。そしたら「馬場さん、そんなこと言ってたんだ、じゃあ来れば?」って。で、「すぐ行きます」って、翌日行ったんですけど。だからもう、本当に忘れられるぐらい要らなかったんですよ。

●続編⇒『第32回ゲスト・小橋建太「プロレスを引退したら終わりではない。そこから新しい人生を始めないと…」』

(撮影/塔下智士)

●小橋建太 1967年3月27日生まれ、京都府福知山市出身。元プロレスラー。1985年、高校卒業後に就職するも、プロレスラーになるために87年に退職。全日本プロレスへ入団する。その後、東京スポーツ主催のプロレス大賞、日刊スポーツの読者が選ぶMVPなど受賞。2000年のノア創設を機に、本名の健太から「建太」に改名。移籍後も「絶対王者」と呼ばれる活躍を見せたが、06年に腎臓がんが発覚し、長期欠場。翌年、546日ぶりに日本武道館で復活。2013年に現役を退く。引退後は講演会、バラエティ番組出演など多方面で活躍中。