1980年オープンの老舗ライブハウスで、スピッツ、エレファントカシマシ、ザ・ブルーハーツなどがデビュー前に出演していたことでも知られる「新宿JAM」が、12月31日をもって37年の歴史に幕を閉じる。
閉店の報に際して、氣志團の綾小路翔が惜別のコメントを綴(つづ)るなど、数多くのミュージシャンに愛された新宿JAMとは、どんなハコだったのか?
昔ながらのライブハウスという表現がピッタリな地下にあり、下水の臭いが漂い、いまだに使い道がわからない謎の配線があったりとボロボロ…。さらに上には以前、ヤクザが住んでいたりもしたそうで数え上げればキリがないほど出てくる悪条件だ。
ひと筋縄でいくはずもない環境の中、どのようにJAMは歴史を紡いできたのか――2006年から店長を務めてきた石塚明彦氏に、初代店長から聞いたというJAMの生い立ちから“196時間ぶっ通しフェス”など斬新な企画を次々と生み出してきた近年までを語ってもらった。
―ビルが取り壊しになるそうですね。
石塚 そうなんです。このビルが1970年にできたものなので、2011年の震災くらいから、なんとなく大家さんからも言われていたんですよ。だから、「ついにきたか」みたいな感じでしたね。
―石塚さんがJAMに来たのは06年とのことですが、開店当時の話を聞く機会もあったんですか?
石塚 元々、高野さんという方が立ち上げて、今は八王子のpapaBeatというライブハウスのオーナーをやられているんですけど、最初は練習スタジオを作ろうとしたそうなんです(現在も1階は練習スタジオ)。今、ライブハウスのある地下も元々、スタジオの待合室でちょっと広すぎるからライブハウスにしたと聞きました。
でも、途中で業者に逃げられて、そこからは手作りで完成させたらしいんですよ(笑)。だから、使い道がわからない謎の配線とか、今でも開かずの扉的なものが結構あるんです。
―昔のJAMは、どんなライブハウスだったんですか?
石塚 間口が広いというか、敷居が低いというか、高野さんがなんでも受け入れる人だったんですよ。当時の新宿はLOFT(1976年から現在も営業を続ける老舗ライブハウス)に多くのバンドマンが憧れていたんですけど、JAMは登竜門みたいな構図だったんです。
―その中でスピッツが初ライブをしたり、エレカシやブルーハーツがデビュー前に出ていたりという伝説が生まれたわけですね。
石塚 そうですね。それと、モッズ系のバンドが多くて、特にThe CollectorsはJAMを象徴する神みたいな存在で。彼らは最近、日本武道館でライブをやったんですけど、その時にScoobie Doが「新宿JAMの後輩 Scoobie Doより」と書いた花を送ったそうなんです。それを知った時は嬉しかったですねぇ。
―いい話です! 一方でパンクやハードコアの人たちも多く出ていたイメージがありますが。
石塚 高野さんが言うには、最初はパンクのイベントも多くて、何回も機材を壊されたと。それで頭を悩ませていた時にアンチノック(同じ新宿にあるライブハウスで、パンク/ハードコアの聖地と言われている)ができて、そういうバンドを全部紹介したそうです。「アンチノックの歴史を作ったのは俺や」と冗談まじりに言ってましたね(笑)。
無茶苦茶なイベントが生まれたワケ
―石塚さんご自身はどんな経緯で店長になったんですか?
石塚 元々、バンドをやりながら系列のスタジオで働いていたんですけど、ちょうどバンドをやめた頃に、社長からJAMの店長がいなくなるから行ってほしいと。当時39歳で、やることもなくプラプラしてたので、そんなこと言われたら嬉しいじゃないですか。だから、細かいことは知らないまま引き受けたんですけど、行ってみたら店がガタガタの状態だったんです。
―ガタガタというのは?
石塚 どんどんブッキングスタッフがやめていた時期で、ブッキングも機能してなかったので、平日は全然スケジュールが埋まってなかったんですよ。だから最初はとにかくスケジュールを埋めなきゃいけなくて…とにかく埋めなきゃって…。ただ、元々、僕は関西人でJAMの歴史をほとんど知らずに入ったんです。それがよかったなと思うんですよね。そこで伝統を守らなきゃと思ってやっていたら、相当キツかったと思います。
―知らなかったおかげで自由にやることができた?
石塚 当時はライブの前日に出演者が決まりましたなんてこともあったくらいで、当然、お客さんも入ってないんですよ。そうすると見てるのが僕だけとか、そんなイベントが続いて、これはないなと。普通のライブハウスは1日4、5組が出演するんですけど、いっそ10組くらい出して、とりあえず人がいる状態を作ろうと思ったんです。
―出演者が観客に(笑)。
石塚 バンドマンも人間だし。10バンドいたら、30~40人になるわけですよ。全く客がいないよりは、まだそのほうがマシかなって。普通はこのバンドとこのバンドを組み合わせたら相乗効果が出て、お客さんも集まりやすいとか考えるものですけど、僕が来た時はそれ以前の問題だったので。
―近年のJAMは196時間ぶっ通しの「JAMフェス」が名物になってましたけど、それも石塚さんの発案で?
石塚 これは誰が発案者なのか、店の中でもはっきりしてないんですよ。「俺が俺が」って言うやつが多くて(笑)。公式的には副店長の西野君です。最初は48時間だったんですけど、だんだんエスカレートしていったんですよね。ただ、2006年の時にちゃんとスケジュールが埋まっているライブハウスだったら、こういう無茶苦茶なイベントは生まれなかったのかなと思います。
―その成果もあってか、ライブに強いバンドが育ってますよね。
石塚 今年はドブロクがFUJI ROCK FESTIVALに出たんですよ。彼らはJAMど真ん中のバンドで、今、再評価されていて。紅白歌合戦に出る竹原ピストルみたいになったらいいなぁ。あと、若手ではニュータウン、リーガルリリー、Teenager Kick Assあたりに注目してほしいですね。ライブも抜群にいいし、これからくると思うので。
自慢は「飲み放題」制度にしたこと
―ちなみに、このビルにはヤクザも住居として住んでいたと聞いたことがあるんですけど、本当なんですか?
石塚 住んでましたね。震災の後に出て行きましたけど。僕が来た次の年には、殺人事件が起きたこともありました。
―そんなことまであったんですね!
石塚 JAMで酔っぱらったお客をヤクザが蹴っ飛ばしてるところも何回か見てますし。よく共用の通路で寝ちゃう人がいるんですよ。そうすると「邪魔じゃ!」とか言って蹴られる。
―そんなビルでライブハウスをやってて、「うるせー!」とか殴り込みにきたりはなかったんですか?
石塚 そんなん普通にありましたよ。ただ、今の時代、ヤクザの暴力は組自体を破壊するような行為になるので「おまえら、ええ加減にせえよ」と言われるくらいでした。まぁ、迷惑をかけてるのはこっちだし、向こうの言ってることのほうが正しいんですけどね(苦笑)。
―酔っぱらいという話も出ましたけど、JAMはライブハウスにしては珍しい「飲み放題」をやっている店でしたよね。
石塚 僕はバンドマン時代から酒好きだったので、酒を飲むといろんなことがごまかせると思ったんですよ。言い方が悪いですけど、ライブでお客さんがいなくても、演奏で失敗しても、酒を飲んだら忘れて、なんか楽しい気分になったり、愚痴を言って発散できたりするじゃないですか。だから飲み放題をやろうと。これは僕の自慢話ですけど、飲み放題の制度を常設したライブハウスはJAMが初めてだと思います。
―それを知った時は画期的だなと思いました。
石塚 それまでも飲み放題のイベントはありましたけど、毎日1500円で飲み放題にしたんですよ。そうなると、飲み放題をやっているからJAMでイベントをやろうとか、かしこまってロックやってもしゃーないやんけみたいな層が集まってきたんです。それで仲良くなるバンドマンも多かったですね。それは僕の力じゃなくて、酒の力ですけど(笑)。
―でも、その酒を飲めるようにしたのは石塚さんの力で。
石塚 JAMにはオリジナル曲が足りないから、コピー曲も混ぜてみたいなバンドも出るわけですよ。こう言ったら失礼ですけど、それで2千円もチケット代をとって、小さいコップに入った酒を飲まされたら客は怒りますよ(笑)。それだったら友達がライブやるのを見て、好きなだけ飲んで、日頃のうさを忘れてもらうのもいいかなって。
―どうせなら楽しんで帰ってもらいたいですしね。
石塚 ライブハウスの人のインタビューとか見ていると、やっぱりちゃんとバンドを育成してとか、それが本道だとは思うんですよ。でも、2006年の砂漠みたいなフロアを見た僕としては、とにかくワイワイしてないと怖かった。邪道と言われたら返す言葉もないですけど、それでバンドが集まってきて、いいイベントもできるようになってきたので、結果的によかったのかなと思います。
★後編では、近年のバンドやライブハウス事情から新宿JAMへの思いを明かしてもらった!
(取材・文/田中宏)