週プレで初めてのグラビア撮り下ろしを体験して以来、2年ぶりの登場にして、今回、記念すべき初表紙!
クラブやフェスの領域(フィールド)を超え、今や日本中のギャルが最も憧れるグループに成長したサイバージャパン ダンサーズだが、そもそも彼女たちがどんな経緯で、現在のようなカリスマとなったのかを知っている男性読者は少ないはず。
そこでグループの中心人物である渡辺シスターズに、これまでの道のりをじっくり聞いた。
■始まりは2000年。たった数名のギャルから
サイバージャパン ダンサーズ(以下、CJD)は、DJのMITOMI TOKOTOが2000年にスタートさせたクラブイベント「ビキニナイト」で結成された。
「ビキニ...」はダンスミュージックの聖地にして、夏のヨーロッパのリゾートの代表、イビサ島のクラブに着想を得て、水着姿の女性客が集うダンスイベントで、MITOMIはDJプレイ中にゴーゴーダンサーをステージで踊らせようと考えたのだ。
プロの外国人ダンサーもメンバーにいた時期も経た08年、現在の原形となるチームが完成する。メンバーは渋谷に集まっていたクラブ好きのギャル数名だ。黒く日焼けした肌、盛られたメイク、ロングの金髪、そしてカラフルなビキニ。都内の小さなクラブで踊りまくる彼女たちは、華やかさと開放感で、イベントの看板として名を馳(は)せる。
10年に加入し、初期メンバーと共に活動。今はリーダー格として活躍するカナエ(渡辺加苗)が当時を振り返る。
「私はもともと大阪から上京してギャル誌のモデルをやってました。CJDにはギャル友達に誘われて入ったんです。本当は一回のつもりだったけど、出たらステージで自分を表現できるのが気持ち良すぎて。当時のメンバーはみんなカッコよかったです。メイクは強くて、全員オラオラみたいに強いキャラ。触る男性客がいたら蹴るコもいて(笑)。でも結束が固く踊りも上手。彼女たちがいたから知られるようになり、今に続いてると思います」
12年に加入したカナエの実妹、カズエ(渡辺加和)は、姉と共に"渡辺シスターズ"と呼ばれ人気を集めている。
「私は歌手志望で上京して、板橋にあった姉のマンションに転がり込みました。CJDには姉に連れていってもらったのですが、スゴい人たちばかりだし、水着で踊るのにも抵抗があるし、自分には無理だと思ったんです。だけどMITOMIさんが『姉妹で出れば人気出るよ』って1年くらいかけて何度も誘ってくれて。それで試しに出てみたら楽しすぎて、結局入ることになりました」
当時、CJDのメンバーたちはギャル雑誌モデル、大学生、エステサロン勤務など、多くは働きながらCJDの活動を続けていて、イベントは月1、2回だった。
「当時の生活は3000円のモデルの仕事を終えて、駅前のスーパーにカズエと寄って帰る、そんな感じ。毎日自炊していましたね。カズエは地鳥屋さんでバイトしてたから、もらってきた焼き鳥を食べたり(笑)。メンバーの中には電気やガスが止まったなんて嘆くコもいたけど、明るくCJDは続けてました。何よりみんなとステージで踊るのが楽しかったんです」(カナエ)
■m-floのツアーがプロ意識を高めた
メンバーチェンジを繰り返しながら、CJDは地道に活動を継続していったが、転機は12年、ダンスユニット、m-floのツアーにバックダンサーとして参加したことだった。長い間、小規模なクラブをメインに活動していた彼女らにとって、メジャーなアーティストの周到に演出されたステージは、プロ意識を高める大きな刺激となった。数千人の観客の前に出たことでパフォーマンスも向上した。『かわいくてうまいダンサー集団がいる』という噂は瞬く間に広まる。
「m-floさんとは約3年ご一緒させていただいたんですけど、みんな意識が高くなりましたね。通常のクラブイベントでも、自分たちの出番が終われば、体のケアのために無駄に残らず、すぐ帰るようになったし、むくむからお酒も飲みません。よくパリピに思われるけど実は真逆で地味なんです(笑)」(カナエ)
「知名度が上がったって感じ始めたのはこの頃からです。個人にファンがついて、ライブ中に自分の名前が呼ばれるようになって。毎回めちゃ感激しました」(カズエ)
都内はもちろん、地方や海外でのイベント出演依頼が続々舞い込み、スケジュールが埋まり始めた。15年からはエクササイズ&ダンスを収めたDVD付きCDを2年連続でリリース。16年にはカナエ、カズエにカレン、カナを加えた派生ユニット、チームKで歌手デビューも果たした。着実に仕事の幅が広がっていった。