マルチな活躍で多才ぶりを発揮している大鶴義丹氏 マルチな活躍で多才ぶりを発揮している大鶴義丹氏
作家・大鶴義丹氏の約10年ぶりとなる新作『女優』(集英社)が1月26日に刊行。マルチな活躍で多才ぶりを発揮しているが、大学在学中の1990年にすばる文学賞を受賞しデビュー、待望の今作は、父親がやはり劇作家・役者として知られる唐十郎、母親が個性派女優の李麗仙という、その出自から自伝的ともいえるテーマで小劇団の人間模様と女優の"性(さが)"を描く意欲作となっている。

自身曰く「私小説ではないと言いたい」が、母からインスパイアされてストリッパーのように晒(さら)していると作家業について語った前編記事に続く赤裸々トーク!

――では、生業(なりわい)としての性(さが)でもあり、覚悟はできてる的な?

大鶴 それほどのもんでもないですけど、あんまり他人のどうこうとか耳に入らないんで(笑)。それこそ今、SNS時代で誰も彼もが晒されてるし、くだらないのもいっぱいあるけど、いいか悪いかは別として普通の夫婦のほうが生きざまをYouTubeなんかに映しちゃったりね。なかなかすげぇ時代だなって思うのもありますよ。

――確かに、素人のほうが晒し晒され、赤裸々なドラマがあったりして。

大鶴 純文学なんていうのが負けちゃうというかね。恐ろしい世の中だなと(苦笑)。

――そこでフィクションだからと負けない、ドラマとしてのリアルが舞台裏や心情を描く中で生々しく吐露(とろ)されるわけですが。書いていて何か自らに課すものも?

大鶴 最初に言った、その相手役の若い女のコを好きになろうと思って。書きながら、僕が短い恋をして、気がついたら結局は違うなってことで別れたんだと思うんですけど。そういう感じを心の中で楽しんでましたね。

マグマ的な自分の母親がいて、そういうものと違う架空の女のコに疑似恋愛をして。そこで物語が進む原動力にもなるんですけど、彼女は女優として才能あったのにやめていきやがって、みたいな。

――それも今時の違いというか、昭和を生きた熱っぽい役者魂や業(ごう)が失われゆく寂しさのような......。

大鶴 だけど、変わっていくのはしようがないかなと思うし、それは受け入れてるというか。意外と変わってないところもね。実際、若いコと芝居しても「そんな変わってねえな」ってのはあるなと。

僕が決めるもんでもないけど、あくまで自分が見てきた中でしかわからない、女性の性(さが)とか生き物としての気質みたいなのは、やっぱり好きですね。で、女優っていうそっち側にずっといたがる人と出会うと感動的なんですよ。

――そんな魅入られる生き物を母親だけでなく、今にも通じるものとして描きたいと。

大鶴 やっぱ、女優さんって面白いんですよ。たまに巫女(みこ)みたいに思える人もいてね。

――演じるのとも違う、憑依(ひょうい)的に降りてくるような?

大鶴 それで、金のためにやってないなっていう。そこは生業にしてる男優とも違って、どっか敵(かな)わねえなって思っちゃうんですよ。

――それを今まで見続けて、やはりこの歳だからこそ執筆するに至れたのかと。

大鶴 ただ、昔だったら肉体関係まで書いてたんだけども、ジジイになるとプラトニックに走るというかね(笑)。そこはスゴく迷ったんですけど、絶対ダメだと思って。恋愛ものを書くのは好きなんだけど、全く変わってきてますよね。

――その世界観の変化もキャラクターを通しての面白みなのでは......。

大鶴 だから、大学の同級生の女のコなんてのも、みんな歳をとっていくという時間の流れの象徴みたいな感じで出したくて。同じ歳の生き物が変化していくのって、スゴくショックじゃないですか? 僕なんか最近、同窓会も恐ろしくて行かなくなってきちゃって。

――あはは、そういう今の心象も反映されてるわけですね。

大鶴 まぁそれで言うと、連載が始まった最中にコロナもあって、書くのが止まっちゃったこともスゴく運命的でしたね。それこそSFの世界に自分が入ってる感じで、世界がこのまま滅んでいくみたいな。空気の色まで違っちゃってるとこがあって。

けど、それも僕の中でよかったのは、一回冷めたんですよね。母親が関わってることもあって情念にいきかけた部分が、そんな家族の思いとかなんの価値もねえんじゃないかって。一瞬思ったりして、でも結局自分のできることは芝居するとか、物書くとか、それしかねえんだなって着地したとこはあるんですよ。

――いい意味でリセットでき、クールダウンしつつ向き合えた?

大鶴 うん、それで戻ってこれたのが嬉しいというか、自信にもなりましたよね。

――それで結末含め、何か変わったものもありましたか。

大鶴 母親が芝居できなくなるってのは決めてたんですけど。そこはわざとぼかしてというか、スゴく迷って結局書かなかったんですけど。

――やはり、実際に李麗仙さんの現実も同時進行で生々しすぎて、という。

大鶴 影響はないって言ったらないんだけど、途中からどんどん悪くなっていて、もしかしたら死の予感はあったんでね。ただ、生き死にをどう描くかは結構迷いますよ。やっぱり、禁じ手ではあるから。

――読者にはその結末まで緊張感まま、読んで確かめていただくとして。自分としては書き切った満足度は......。

大鶴 そうですね。とりあえず、40代ではあえて僕、小説書かなかったんですけど。理由があって、言葉として出なくなっちゃったんですよ。

――それこそ、言魂(ことだま)が降りてこない、みたいな?

大鶴 うーん、なんでかは不思議なんですけど、生きるってことのほうが先行しちゃってたのかな。あと、結構若いうちから書き始めて使い切っちゃったんでしょうね。

若い時の僕の中にあった女性像とか、人間同士の何かを原動力にして書いてきたのが一切なくなっちゃって。書くものが意味なく感じて、もうやめようと思ったんです。

――それでいろいろな活動を他でするうち、また蓄積もされリフレッシュし、この歳だからこそ書けるもの、書きたい衝動を得られた?

大鶴 50を過ぎたら不思議と文字がどんどん出てくるようになったんです。今はそれが止まらなくなってるというか。

――それは楽しみですし、さらに今後が期待されます! また違うエロティシズムも湧き出して、老いらくの恋もありでしょうし......。

大鶴 どうですかね(笑)。あとは、やっぱり生死の意味も変わってきて、逆にそういうのも見えてきたというか。これってなんだろうなって思うことを文字にすることかなと。

――また"女優"的なものであり、お母さんが遺された記憶もそこに反映されますね。

大鶴 それもまぁ全然いいんですけど。でも今思うとね、一緒に芝居したことはないんだけど、旅番組を2回くらいやったことがあって。これがまたイヤなタレントでさ、びっくりしたわけ。この人じゃ、番組が成立しないでしょって(笑)。

――それも個性派すぎるゆえ(笑)、場の空気を読まずに我が道をゆくのもらしさかと。

大鶴 ほんとヒールじゃないかって。タレントとしてはひどいんだけど、やっぱりそこが女優さんなんですよね。ここは舞台じゃないんだし、直す必要もないなと。

――いいお話で締めとなりました。『女優』を読みながら、味わい深さが増すこと間違いなしです!

●大鶴義丹(おおつる・ぎたん)
1968年、東京都生まれ。1990年、『スプラッシュ』ですばる文学賞を受賞し作家デビュー。俳優としてドラマや映画も出演、95年には『となりのボブ・マーリィ』を初監督。現在は『アウト×デラックス』、ドラマ『ゴシップ』(フジテレビ)などに出演、夕刊フジ『それってOUTだぜ!』連載中

■『女優』〈集英社〉