『週刊プレイボーイ』でコラム「呂布カルマのフリースタイル人生論」を連載している呂布カルマ 『週刊プレイボーイ』でコラム「呂布カルマのフリースタイル人生論」を連載している呂布カルマ
ラッパーとしてはもとより、グラビアディガー、テレビのコメンテーターなど、多岐にわたって異彩を放っている呂布(りょふ)カルマ。『週刊プレイボーイ』の連載コラム「呂布カルマのフリースタイル人生論」では「バイト経験」について語った。

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★今週のひと言「居酒屋、カラオケ、害虫駆除......クビになり続けたバイト遍歴」

「大学を出てすぐに絵で食えるなんて思うな。バイトでも女のヒモでもやりながら絵を描き続けて、30歳ぐらいでやっと仕事になり始めたらラッキーという気持ちでやっていきなさい」

これは俺の芸大時代の恩師の言葉だ。この言葉をまんまと真に受けた当時まだプロ漫画家を目指していた俺は、一切の就職活動をしないまま大学を卒業し、学生時代からやっていた居酒屋のバイトを続ける形でフリーターとなった。

しかし、バイトと漫画だけの生活がすぐに息苦しくなり、卒業から2ヵ月後にはクラブでラッパーデビューを果たし、あっという間に漫画はどうでもよくなった。本来ならそこから就職すればいいものの、そのまま何も考えずフリーターとしてラップに没頭していった。

とはいえ、駆け出しのラッパーでLIVEもたまにしかなく、俺は時間を持て余していた。居酒屋のバイトは時給1000円ほどで、夜の数時間しか働けなかったので、名古屋の繁華街、栄や住吉のカラオケ屋でバイトをし始めた。そこは地上5階建ての大型店舗で、夜勤で働けば時給は1200円ほどになり、すぐに夜間の副支配人にまでなった俺は、新卒の友達と変わらないぐらいのバイト代をもらうようになった。

そこでは夢を追う役者の卵、訳ありの副業中年、大学そっちのけの学生など、地元の居酒屋では出会えなかった雑多な人種が働いており、仕事自体はハードだったが、なかなか楽しかった。

ちなみにその頃、世間ではDJ OZMAの曲と『恋のマイアヒ』が大ヒットしていて、どの部屋からもその2曲が来る日も来る日も聞こえてきて、俺はカラオケの浅ましさを知ることになり、以来プライベートでカラオケに行くことはなくなった。今でも2次会などでカラオケに行く流れになれば、何も言わず煙のように消える。

バイトはそれなりに楽しく順調だったのだが、同時にラップでもすぐに頭角を現した俺は、副支配人で自らシフトを組む身でありながら、店的に一番人手がいる週末にLIVEが重なることが多くなり、そのことで支配人と揉めて2年ほど勤めたところでクビになった。

次は平日の昼間に働こうと思った俺は、某社のクリーニングの配送員として面接を受けたのだが、なぜか同じ営業所に新設された害虫駆除部門に配属された。

社員1名、バイト(俺)1名で、日々汚れた飲食店の床に這いつくばり、Gと格闘する害虫駆除部門は営業所の中では肩身が狭かった。一方で、愛知県内各地の飲食店へ出向いて作業するため、ひとりの時間や移動時間も多く、意外と気楽だった。収入面も、平日朝から夕方まで定時で働いていたので安定していた。

そんなある日、事件が起きる。社用車を運転中にラップのリリックを考え、信号待ちでメモを取っていたら、ブレーキから足が離れてカマを掘ってしまい、細かい違反も重なって長期の免停処分を食らったのだ。結局、5年ほど勤めたそのバイトもクビになった。おそらく日本で一番Gを殺したラッパーは俺だろう。

当時、俺は30歳手前でフリーターの身分のまま結婚もしていた。どうせ平日固定で働いていたのだから、それなら正社員でも同じだと考えて次は就職したのだが......そこもクビになり、転職などを経て30歳過ぎでラップで家族を養えるようになった。

そのとき、大学時代の恩師のあの言葉が確かだったことを知った。

もっとも漫画家ではなく、ラッパーになるなんて露(つゆ)ほども思っていなかったのだが。

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