現在、国内の二輪市場は若者離れが響いて過去最低に縮小している。販売台数は最盛期の10分の1に激減。なぜ「熱狂」は失われたのか? もう二度とオートバイ文化の復興はないのか? 全4回の連載で、その糸口に迫る。
日本で二輪はどのように生まれ、成長したのかについて解説した第1回に続き、ジャーナリストの佐川健太郎が振り返る!
■バイク事故増加と"三ない運動"
1980年代に入ると、ニッポン全国に暴走族が激増した。警察の調査によれば、最盛期は82年で、暴走族の構成員は4万人超にまで膨れ上がっていたという。
他人に危険と迷惑を及ぼす集団暴走行為はいつの時代でも絶対に許されるものではないが、その一方で、自分たちのスタイルを貫く暴走族は、理不尽な大人社会に反抗する、当時の若者たちにとっての代弁者であり、ヒーロー的な存在であったことも事実だ。
ごくフツーのバイク少年だった自分も、当時、沿道からこっそりと暴走族のド派手なパフォーマンスを見学したものだ。反抗は若者の特権であり、それを体現する道具としてのバイクという図式は不変のもののように思う。
そして日本メーカー4社の国内販売台数のピークも同じく82年で、実に328万5000台をマーク。空前のバイクブームが到来した。
しかし、このバイクブームに伴う交通事故の増加や、暴走族がまき散らす騒音、危険な集団走行によって、バイクに対するネガティブなイメージが社会に浸透してしまう。
警察の取り締まりは厳しくなり、全国各地でクルマは通行できるものの、バイク通行禁止の道路が増えた。要は暴走族対策のための規制措置なのだが、残念ながら一般のライダーにもその規制は当てはまる。規制標識にぶつかれば、暴走族でなくとも、迂回(うかい)ルートを探すしか道はなくなった。
そして82年には、現在の二輪市場が全盛期の約1割に激減した要因のひとつともいえる、「三ない運動」を全国高等学校PTA連合会が中心となり決議した。ちなみに三ない運動とは「免許を取らせない」「買わせない」「運転させない」というスローガンを掲げた運動のことである。
全国に先駆けて三ない運動を強く推進、展開してきたのが埼玉県である。では、なぜ埼玉県で三ない運動が始まったのか。実は県内の高校生によるバイク事故死傷者数が多かったからだ。80年にはなんと1557人がバイク事故で死傷している。
そこで、県教委は81年、山間部に居住し、通学に不便な場合などを除き、「高校在学中のバイク免許の取得、購入、乗車を認めない」と、県立高校に指導要項を通知した。学校に無許可でバイクの免許を取得した場合は指導の対象になる。入学説明会では「高校生活にバイクは不要」というチラシを配る念の入れようだ。
三ない運動開始から現在までで、バイクによる死傷者数は20分の1程度にまで減少。高校生からバイクに触れる機会さえも奪うことで、交通事故を大幅に減らした。
バイクによる痛ましい事故を一件でも減らしたい。誰もがそう願う。確かに三ない運動には一定の効果があった。
ただし、「臭いものにはフタ」的な発想でバイクを危険なものと決めつけ、子供たちから遠ざけ、シャットアウトする方法はいかがなものか。
バイクという乗り物は少なからず危険が伴う。うかつに乗り大きな交通事故を起こしてしまえば、刑事・行政上の責任のほかに損害賠償など民事上の重責も負う。
例えば、交通先進国のドイツでは幼児期から交通教育を行なっていて、小学校でも自転車の乗り方のトレーニングが必須科目になっている。
交通ルールの中でいかに自分や他者の安全を守りながら運転すべきかを幼少期から手間暇かけて教育していく。交通教育は大人への階段であって、そこを端折(はしょ)ると未熟で危険なライダーが出来上がるのだ。
■2ストレプリカ登場で全国の峠に走り屋が!
空前のバイクブームに沸いた80年代は、オートバイ旅行者のために寝台車と貨物車で乗客とバイクを北海道に輸送する国鉄「モトトレイン」が運行を開始し話題になった。
また、カウル付きの車種が解禁されるなど、サーキットからそのまま現れたようなレーサーレプリカが続々登場して世の男の魂を燃やした。
火つけ役は83年登場のスズキ・RG250Γ(ガンマ)だ。4スト400から軽量ハイパワーで運動性能に優れる2スト250㏄へ主役の座が移るが、実はブレイクスルーの予兆はそれ以前からあった。
80年にヤマハが投入した水冷2スト並列2気筒のRZ250は、市販レーサーTZをそのまま公道に持ち込んだような過激さから"ナナハンキラー"と呼ばれ男を刺激。ちなみに2ストエンジンはピストン1往復で燃焼を完結するため、4ストの2倍の効率でパワーを稼ぐ。そのギンギンさが魅力だ(燃費は悪い!)。
で、2ストレプリカブームを語る上で欠かせないのが86年に登場したホンダ・NSR250R。当時の2ストレプリカはレーシングマシンと同時開発されるほどの高性能ぶりで、鈴鹿4時間耐久レースでも4スト400㏄との混走で激戦を繰り広げるなどポテンシャルの高さを発揮した。その走りは今も一線級で中古車相場も高値を維持する人気車だ。
2ストレプリカブームは新たな社会現象も生んだ。高性能な走りをストリートに求める"走り屋"が全国各地のワインディングロードに出没。当初はジーパンにプラ製まな板や空き缶をつぶしてスライダー代わりにヒザにガムテで巻きつけたレーサーごっこだったが、マシンの進化とともに装備も本格化した。
やがて革ツナギにフルフェイスで身を固めた峠小僧が大ブームに。大垂水峠や奥多摩、裏六甲など聖地と化した週末の峠には見物客が集まる名所まで誕生し、峠小僧専門の二輪誌も創刊した。
だが、そんなアウトローすぎる走りがニッポンで許されるはずもなく、前述のように警察による取り締まりは厳しくなり、二輪通行禁止の道路も激増した。そしてこのブームは90年代半ばに衰退する。
★【短期集中連載】日本オートバイ年代史 第3回「時速300キロへの挑戦」
●佐川健太郎(さがわ・けんたろう)
1963年生まれ、東京都出身。早稲田大学教育学部卒業後、編集者を経て、二輪ジャーナリストに。また、「ライディングアカデミー東京」校長や、『Webikeバイクニュース』編集長も務める。日本交通心理学会員。交通心理士。MFJ認定インストラクター