年末年始に世界を驚かせた、日本に関わる最大のニュースといえば、日産自動車元会長のカルロス・ゴーン被告の「逃亡劇」だろう。1月8日、逃亡先のレバノンで行なった記者会見でゴーン被告が「自分は日本の非人道的な司法制度の被害者だ」と訴えたことで、日本の刑事司法のあり方が世界から注目を集めている。
長年、日本で活動する海外メディアの特派員は、この問題をどう見ているのか? フランスとイギリスのジャーナリストに聞いた。まずは、仏『ル・モンド』紙のフィリップ・メスメール氏が語る――。
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──ゴーン被告の会見を見た率直な印象は?
メスメール ひとことでいえば「ショー」でしたね。まるで、カルロス・ゴーンと広報会社が企画したPRイベントのよう。ゴーンが「自分の言いたいことを全部言う」ための機会であり、会見に参加できるのは、事前に彼によって選ばれたジャーナリストという「観客」だけ。そのため、招待された日本のメディアも少なかったし、フランスのメディアで現地レバノンに行った人たちの中にも招待されなかった人がいました。
特に、以前からゴーンの事件を取材していて、この問題に詳しいメディアのジャーナリストは参加を許されなかった印象があります。実際、「ル・モンド」でずっとこの事件を担当していた同僚のひとりも、やはり招待されませんでした。おそらくゴーンは彼らから厳しい質問が出て、自分が恥をかくのを避けたかったのではないかと思います。ただし、これは、この問題を日本から報じてきた私の個人的な印象であって、フランスのメディア全般や、フランス社会のマジョリティーの反応とは異なります。
──フランス社会では、ゴーン被告の会見はどのように受け止められたのでしょう?
メスメール フランス社会の反応は大きくふたつに分かれています。ひとつは「ゴーンは日本の非人道的な刑事司法制度の気の毒な被害者だ」というもの。もうひとつは「ゴーンは自分の特権を使って、日本の司法制度から不法な手段で逃げ出した傲慢な男」というものです。
フランス社会では、前者の声がより支配的なので、ゴーンを「犠牲者」として扱うメディアは少なくない。その点で言えば、ゴーンの会見はある程度、成功したと言えるのかもしれません。ただし、そうしたメディアは、ゴーン事件そのものを深く掘り下げていないという印象があるのが少し残念です。
一方、マジョリティーとは言えないものの、後者の声、つまりゴーンに批判的な声もあります。昨年から国内でデモが続く「黄色いベスト運動」に象徴されるように、フランスでは格差などによる社会の分断が広がっており、富裕層や一部のエリートに不満や反感を抱く人たちがいます。その人たちはゴーンを「金と権力にまみれた傲慢で強欲な男」と捉えて批判しますが、日本の刑事司法の問題点にはあまり関心がなくて「悪い金持ち」を吊るし上げているだけ、という傾向があります。
──会見でゴーン被告は、「自分は日産のクーデターによる被害者だ」とも訴えていましたが、この主張についてはどう見ましたか?
メスメール ルノーと日産の経営統合をめぐる「日産と日本政府のナショナリスティックな動機に基づく陰謀」の存在を主張し、自分はその犠牲者なのだと強くアピールすることで、彼は自分に向けられた疑惑や、事件そのものについて深く語らなくても済むようしたのだと思います。
ただし、彼が事前に公表を示唆していた日本政府高官の具体的な名前や、そうした「陰謀」の明確な証拠は明らかにされていません。これは会見でのゴーン被告の発言が、日本やフランスとの外交問題に発展することを恐れたレバノン政府の要望によるものだと思われますが、具体的な証拠が示されなければ、彼の一方的な主張に過ぎず、単に「印象操作」に成功しただけともいえます。
日本の裁判から逃げ出したゴーンは、この先、永遠に「逃亡者」であり続ける。彼の逃亡劇は結果的に日本政府だけでなく、フランス政府にも恥をかかせることになったわけですから、政治的にも、またルノーと日産のアライアンスの将来に関しても、彼は既に「終わった人」だと考えていい。今はいろいろな意味で注目を集めていますが、メディアの関心もやがて失われていくのだろうと思います。
──ゴーン被告の会見は、「人質司法」とも批判される日本の司法制度の問題が世界から注目を集める結果にもなりました。日本に長く暮らすメスメールさんは、日本の刑事司法をどう見ていますか?
メスメール 私は、ゴーン事件と日本の刑事司法の問題点は切り離して論じるべきだと考えています。日本の刑事司法制度に関しては、率直に言って大きな問題があるのは明らかで、人権上の観点から見過ごせないものがあるのは事実でしょう。被疑者の取り調べに弁護士が立ち会えないのは他の先進国ではほぼあり得ないことですし、被疑者は起訴前に最大23日間拘留され、その間、非常に弱い立場で長時間の取り調べを受ける可能性がある。そこから脱するために「イエス」と言わざるを得ず、本当は無実なのに「自白」してしまったケースが結果的にいくつかの冤罪を生み出しているのも事実でしょう。
その一方、日本では警察が被疑者を逮捕したり、検察が起訴したりするにあたっては、その前の段階で十分な証拠を集め、逮捕や起訴に十分な事実関係を高いレベルで固めることが求められる。この点はフランスやアメリカなどとの違いで、他の国からあまり理解されていないと感じます。ただし、この「精密司法」と言われるやり方には別の問題があって、それは多くのケースで「十分な証拠」が揃っているとは言い難いことです。
──ゴーン被告の事件は、そういった日本の刑事司法の問題点にどのような影響を与えると思いますか?
メスメール 日本の刑事司法の在り方については、もう何年も前から、国連も含めて国際的な批判の対象になっているにもかかわらず、日本政府はこうした批判に対して、積極的に対応しようとはしてきませんでした。これは死刑制度の問題も同様で、日本社会はこれらの問題について、どんなに国際的な批判にさらされても、それを改善するどころか、むしろ「変えたくない」のではないか、と見えることもあります。
もちろん、保釈中の身であったゴーンが不法に日本から逃亡し、日本の法の支配を犯したことはまったく正当化されません。彼の逃亡劇が与える影響としてひとつ心配なのは、国際社会が求める刑事司法の改善とはまったく逆の方向、つまり、容疑者の保釈条件や保釈の判断をさらに厳しくする方向に行く可能性があるのではないか、ということです。
ちなみに私は、裁判とは、単に有罪か無罪かを判断し量刑を決めるだけの場ではないと思っています。相模原市の障害者施設殺傷事件の裁判にも言えることですが、刑事裁判というのは、単に事件の事実関係や、被疑者の責任とそれに対する刑罰を決めるだけでなく、なぜそんな犯罪が起きたのか、その背景にはどんな問題があったのか、社会が広く、深く掘り下げて考える機会を与える場でもあるのです。
相模原市の事件に関して言えば「なぜ、かつて障害者施設で介護の仕事をしていた人間が、障害者を殺害しようと考えるに至ったのか」という問いこそが重要なはずです。私は、それをこうした事件を生み出してしまった社会全体の問題として捉える必要があると思っています。単純に「犯人の個人的な問題」として考えるのではなく、障害者の人たちが置かれている状況や、社会や家族が彼らをどのように扱ってきたのかという問題について、私たちは深く掘り下げて考える必要がある。
これはあのオウム真理教の事件についても言えることで、なぜ、あのような事件が起きたのか、その理由が裁判で本当に明らかになったとは言いがたい、という声は少なくありません。そして、「原因」が明らかでないということは、それがまた繰り返される可能性がある......ということを意味しているわけです。
その意味で、ゴーンが日本の裁判から逃げた結果、一連の問題に関する真実やその背景が明らかになる機会が失われたことが、非常に残念だと感じています。
●フィリップ・メスメール
1972年生まれ、フランス・パリ出身。2002年に来日し、夕刊紙「ル・モンド」や雑誌「レクスプレス」の東京特派員として活動している