G7広島サミットが5月19日から開催される。ロシアのウクライナ侵攻で核使用の危機が高まるなか、日本の岸田文雄首相は、被爆地・広島に各国首脳が集まるこの機会を「核廃絶の機運を高める転機にしたい」と強調している。
今から7年前の2016年5月、初の黒人米大統領バラク・オバマは、現職のアメリカ大統領として初めて、かつて米軍が原爆を投下した広島を訪問した。
アメリカ人の父と日本人の母の間に生まれ、広島で少年時代を過ごした国際ジャーナリストのモーリー・ロバートソン氏は、広島平和記念公園で行なわれたオバマの17分間のスピーチを聞いて涙を流したという。「手塚治虫の作品世界に重なった」とモーリー氏が受け止めた、オバマのメッセージとはなんだったのか?
当時「週刊プレイボーイ」誌に掲載されたモーリー氏の手記を、ご本人の許可を得て再掲します。
■40年ぶりに入った放射線影響研究所
そこに入ったのは約40年ぶりのことでした。ローズウッド製の重いドア、薄暗い廊下、そして部屋のレイアウトまで、あの頃と同じです。
ABCC(原爆傷害調査委員会)――戦後、広島市に米科学アカデミーが設立した被爆者の調査研究機関です。
医師だった私の父は、1968年にここへ研究員として赴任し、日本人の母、そして5歳の私とともに、一家は広島で暮らし始めたのでした。
オバマ米大統領が広島を訪れる数日前、私は約40年ぶりにその建物(現在の名称は放射線影響研究所)を訪れました。
私は当時、ABCCの廊下のベンチに座り、漫画をよく読んでいました。『はだしのゲン』を読んだこともあります。ページをめくりつつ、子ども心にある種の違和感を抱きました。
――なぜ、アメリカ人はこんなにも一面的で、憎むべき対象として描かれるのか?
当時、多くの市民やメディアはABCCに対して「調査ばかりで被爆者の治療をしない」と批判的でした。
確かに終戦直後、設立された当初のABCCは、きたるべきソ連との核戦争に向けた軍事的な調査機関としての意味合いが強かった。それは事実です。
ただ、私が広島にいた1960年代末から70年代、そこで働くアメリカ人研究員たちは日本人に敬意を払い、純粋に医療面で日本に貢献するために調査に従事していました。
当時はまだ発展途上だった日本の医療を進歩させるという志もありました。若い日本人医師が、父の知識や技術を必死に学ぼうとしていたのも知っています。
父の助手のひとりだった兒玉和紀(こだま・かずのり)さんは、今も主席研究員(※本稿が発表された2016年当時の役職。2023年現在は業務執行理事)として放射線影響研究所に勤務しています。
児玉さんは2011年の福島第一原発事故の後、原子力災害専門家グループの一員として、半世紀以上にわたる同研究所の調査データを基に、「幸いにして、低線量被爆での健康被害の可能性は考えにくい」と訴えました。
しかし、一部の反原発派の人々は、兒玉さんに〝御用学者〟と心ない罵倒を浴びせました。同じ時期に、ジャーナリズムとして風説の真偽を追った結果、同じような人たちから同じような罵声を浴びていた私としては、浅からぬ因縁を感じてしまいます。
原爆、ABCC、アメリカ、日本、はだしのゲン、ヒロシマ、フクシマ、放射能。変わらない光景、40年ぶりの児玉さんとの再会は、私に多くのことを思い出させました。
■日本語が禁じられたインターナショナルスクール
広島にやってきた当初、私はインターナショナルスクールに通いつつ、家に帰ると近所の日本人の友達とよく遊び、自然と広島弁をマスターしました。スクールには私のように日米ハーフで、広島弁を話せる生徒が多かったので、日本語のわからないアメリカ人の先生を広島弁で小ばかにするという悪ふざけが流行したこともありました。
あるとき、学校側は校内での日本語使用を禁じ、日本語の授業も初級編を除いてほぼ廃止されました。
「なんで、日本語でしゃべっちゃいけんのじゃ!」
私たちは反発しましたが、おそらく悪ふざけへの対抗措置だったのでしょう。日米ハーフが多かったスクールに、両親ともアメリカ人で、アメリカのライフスタイルのまま暮らす生徒が増え始めたのもその頃です。
彼らは日本にシンパシーがなく、広島弁を話さず、日本のテレビも一切見ない。日本人に対して人種差別的な発言をすることもあった。そういう〝白人優位ネタ〟に卑屈に同乗する裏切り者のハーフを、私は心の中で殴りつけました。
そんななかでの、学校側からの一方的な「日本語禁止措置」。私は自分の尊厳を守るために、日本の小学校に通うことにしたのです。
■「ピカの責任をとれ!」と叫んだ同級生
私が5年生の2学期に転入したのは、五日市のマンモス公立校。私にしてみれば、自分の〝日本人性〟を守るために来たのに、当初はベランダから身を乗り出した何学年もの大勢の生徒から一斉に「帰れ」コールを受けたこともありました。
しかし、校長先生が朝礼で「仲良くしなさい」と言ってくれた後は状況が変わり、最終的には周りの推薦で生徒会長になりました。
私立の男子中学校に進学した後は、被爆者の祖父を持つ同級生と校庭で取っ組み合いのケンカをしたこともありました。彼はこう叫びます。
「わしのじいちゃんは、アメリカのせいで死んだ!」
「白人! 白豚! ピカの責任をとれ!」
中学生ですから、こちらも売り言葉に買い言葉です。
「それがどうした! ざまあみぃや!」
「おまえも親父もおふくろも、みんなピカで死ねばええんじゃ!」
彼は突然、大きな声で泣き始めました。まったく泣きやまない彼に、私はただただ謝るしかありませんでした。
原爆の爆風で壁の下敷きになり、無数のガラス片が腕に刺さったという書道の先生も忘れられません。彼は最初の授業で、「よう見い!」と傷跡だらけの腕を差し出してきました。
その後もその先生は、左利きで書道が苦手な私の字を見て「ミミズの這(は)ったような字じゃ」とからかうなど、事あるごとに絡んできます。それは私にとっては悔しいというより、なんというか、苦々しいものでした。
彼の言葉や表情には、「なんで原爆を落とした国の子どもを学校に入れるんじゃ」という憤りと、「でも、子どもに罪はない」という葛藤がにじみ出ていたのです。
その後、私が右手で書くことを練習し、書道が上達すると、先生は一転して誰よりもほめてくれるようになり、「わしの代わりに、ピカドンのことをアメリカで広めてくれ」と、思いを託されるまでになりました。
* * *
中2の夏、私は一時、アメリカに戻ります。そこで待っていたのは、まったくの別世界。原爆の悲惨さを教えるどころか、逆に「真珠湾野郎!」と罵(ののし)られることもありました。
向こうでは私は〝東洋人〟。白人からは差別を受け、同じように白人から差別されている黒人も、よりマイノリティな私を攻撃する――。
もちろん、ずっとイジメを受けていたというわけではありません。しかし、差別が日常に内包された社会では、弱い者が弱い者を叩き、被害者が加害者となって別の被害者を生む。そんな現実を知ったのです。
当時のアメリカ社会は原爆の歴史にも、先住民虐殺の歴史にも、黒人奴隷の歴史にも、まったく向き合っていませんでした。
■オバマのスピーチに込められたメッセージ
多感な少年時代にそういう経験をしてきた私にとって、オバマの広島訪問、そして核廃絶を訴えたスピーチは、これ以上ないほど感動的なものでした。
オバマは昨年(※2015年)、白人の若者が乱射事件を起こした黒人教会を訪れ、人種差別の問題を正面から取り上げて批判する演説を行ないました。黒人ハーフで、自身も苦い経験をしてきたであろうオバマにしかできないものでした。
今回(※2016年5月)の広島でのスピーチに対して、「日本に対する直接的な謝罪がない」との批判もありました。しかし、アメリカの政治力学を考えれば、あそこまで踏み込んだだけでも相当な決意だったと私は思います。
あのスピーチには崇高なメッセージが込められていました。スピーチは次のように始まります。
「71年前の晴天の朝、空から死が降り注いで世界が変わった。閃光と火の壁が街を破壊し、人類が自身を破壊する手段を手に入れたことを示した」
その瞬間、私には広島での少年時代にむさぼるように読んだ手塚治虫の世界がオーバーラップしました。手塚が多くの作品に込めた人類の破壊衝動の恐ろしさ、文明の愚かさといったメッセージが、そのまま重なって見えたのです。
国際政治のリアリズムを知るオバマは、「核廃絶は私の生きているうちには達成できないかもしれない」と言いました。この世界の見え方もまた、何百年にも及ぶエピックを描いた手塚と共通するものがあります。
広島平和記念公園の原爆死没者慰霊碑には、〈過ちは繰返しませぬから〉という一文が刻まれています。オバマはあのスピーチで、そこに「人類」という主語を入れたのだと思います。
被害者・加害者を越え、全人類が未来を見るべきこと。憎しみは愛情や相互理解、和解で越えるしかないこと。それを訴え、「戦後」を終わらせようとしたのです。
その言葉のひとつひとつが、私の中にある広島やアメリカの記憶をつなげていきました。
●モーリー・ロバートソン(Morley Robertson)
国際ジャーナリスト、ミュージシャン。1963年生まれ、米ニューヨーク出身。ニュース解説、コメンテーターなどでのメディア出演多数