F15DJの前席に乗る山田正史元空将。機体の独特な迷彩塗装は、空自教導隊AGR独自のもの
4月5日に『赤い翼 空自アグレッサー』(並木書房)という書籍が発売となった。日本最強の「飛行教導隊」(現・飛行教導群)の40年に渡る歩みと将来を、当事者らの証言で明かした一冊だ。
その本の始まりは、昨年週プレNEWSで行なった日本最強の「飛行教導隊」のインタビューだった。そこに登場した元飛行教導隊隊長・山田真史元空将にこの本の刊行にあわせて改めて話を聞いた。
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航空自衛隊飛行教導群はアグレッサー(Aggressor=侵略者)とも呼ばれる。そして、アグレッサーに在籍する戦闘機パイロットが、自らその部隊を名乗る時の呼称は「AGR」だ。
航空自衛隊(以下、空自)の小松基地に本拠地を置き、一年を通じて全国の空自戦闘飛行隊を巡回。有事には戦う可能性のある戦闘機の戦い方を模擬して、空自戦闘機と戦う。
航空祭では、飛行するブルーインパルスが大空への憧れ、カッコ良さを公開展示する。一方、AGRは『裏のブルーインパルス』と呼ばれ、大空での敵機の戦い方を展示する。しかし、非公開だ。
そのAGRのひとりが、山田元空将だ。ちなみに戦闘機乗りは、それぞれ飛行中にも呼びやすいように"タックネーム"が付けられる。先輩から命名されるものだが、山田氏は酒を飲むと顔が赤くなることから猿、モンキーが転じて「ゴクウ」と呼ばれる。そんな山田氏は、格闘戦(相手機を視認して戦う空戦)の訓練を例に、AGRの高い能力をこう説明する。
「ある時、AGRがF15DJ・2機でディフェンス(防御)側、教導訓練を受ける部隊が2機でオフェンス(攻撃)側として訓練をしました。AGRが敵機を現示して、訓練部隊にこうやって攻撃してほしいという色々な仕掛けをするわけです。
その訓練で、このまま行くと訓練部隊同士がぶつかるかもしれないという場面が起きました。
その時は、一番機がダイスで、私は二番機に乗っていて、無線で「ちょっとやばくない?」みたいなやり取りをしました。
それから一秒も掛からずに、AGRの2機が訓練部隊との軸線をパーンとずらして、回避しました。結局ぶつからず、無事に訓練は終わりました」
しかし、それはまさに大事故寸前の事態だった。基地に帰投すると、厳しい教導問答が始まった。
「飛行を解析して、部隊を指揮していた4機編隊長リーダーに、私は聞いたんです。
AGR「ここでAGRの編隊は見えてた?」
編隊長「見えていたであります」
AGR「どこにいた?」
編隊長「ここであります」
しかし、編隊長は全く違う空の一点を指差しましたね。見えていなかったわけです。最初の計画通りの訓練をやっていたら、多分ぶつかっていた。AGRのパイロットは、その格闘戦での将来図がパッと描けて分かる。4人が同じ認識を同時にできたから、空中衝突事故は防げたんですね。
やはり『部隊を強くする』こと、そして『訓練でパイロットを殺してはいけない』。これが鉄則です」
太平洋戦争で"大空のサムライ"と呼ばれた坂井三郎氏に筆者は取材したことがあるが、空戦の模様をこう表していた。。
「サーッと見渡して、乱戦になっている空戦域で1秒後、2秒後、3秒後が、どうなるかが瞬時に分かります。それで、その中で一点を見出して、そこに全速で突っ込み、敵機の後ろに付いて、撃つ」
この場合は必殺の撃墜だが、この時AGRが行なったのは『事故防止』。しかし、同じテクニックなのだろうか。
「はい、似てますね。だから、AGRはやはりすごい部隊だなと思いました」
取材に答える山田元空将。机上のパッチは一番上がAGRパイロットを現すスカル(髑髏)で、赤星は旧ソ連をイメージしている。そして真ん中は地上管制官を表すコブラ(毒蛇)。下がウイングマーク
そのAGRは1981年12月17日に創設された。
「その創設された当時の方々が鬼籍に入り始めました。AGRはその時々のメンバーのインタビューが専門誌に掲載されています。しかし、創設から今までの歴史、『AGRとは何?』という本はありません。
AGRのメンバーがこれまで何をやったかまとめられたものが、歴史的に何も残ってないのはちょっとさびしく、まずいかなと思っていました。それで、何かしら残しておきたいと思いましたね」
そして、その本は『赤い翼 空自アグレッサー』として出版された。
「読みました。書いてあること自体は、まさしくAGRにいたパイロットたちの生き様じゃないですか!!
これを読んで、皆さん、そして部隊の後輩には、こうやって部隊がずっと繋がっていったんだなと感じてもらい、さらに次の世代で進化しながら歴史を紡いでほしいなと思いますね」
4月5日に発売された『赤い翼 空自アグレッサー』(並木書房)
しかし、そのAGR関係者ほど口が堅い人々はいない。やったことは全て沈黙の彼方に持っていかれる。すなわち『沈黙の艦隊』を越える"沈黙の教導隊"なのだ。その沈黙の扉を開ける鍵を持っていたのが、この方だった。
<酒井一秀氏。航学20期。AGRにいたパイロットの誰もが「T2AGRのエース」という男>
写真を見せていただくと、どう見ても最強のヒットマンにしか見えない。話を聞いて、書かせていただけるかどうか。山田ゴクウ元空将の紹介のもと、筆者にとって首実検のような面接に臨んだ。
「あの時は賭けでした。取っ掛かりだし、久しぶりに一番緊張した重要なミッションでした。私にとっては完全にAGRの先輩後輩の関係で、酒井さんがノーと言えば、もう取っ掛かりはないですから」
結果は、この本が出版されたことで「合格」だった。
「面談の後、酒井さんから『でもお前さ、あいつ(注:筆者)ひとりで行かしたってダメだろ』と言われました。『私が一緒に全て行きます』と言ったら、『それだったらいいな』と仰っていました」
こうして、山田ゴクウ元空将と筆者の、北は北海道から南は九州まで至る、AGRを辿るすさまじい旅が始まった。
「酒井さんから『最初にまず増田さんに会いに行って聞け』と言われて、行きましたね」
その旅で、AGRには酒井氏以上に怖い方がいたことを骨の髄まで思い知らされた。
増田直之AGR三代目司令、防大4期。1937年3月25日、福岡生まれ、取材時87才。退役まで総飛行時間5500時間、うち、F104に2500時間乗る。取材場所まで行き、増田元司令から御名刺を頂いた。
肩書は『遊び人』。
筆者は40年間以上、週刊誌記者を営んでいる。今までそんな肩書の名刺をいただいたのはわずかだ。渡世人というか「お勤め」と呼ばれる刑務所に十数年いた方々は、その肩書を好んでお使いになっていた。
山田ゴクウ元空将には「増田さんは、とても好々爺(こうこうや)ですよ」と言われていたが、違った。
増田元司令が、お付きの秘書らしい子分のような方に、「おい、あれ」と声を掛けた。すると、PCが取り出され、いきなり画面には『教導隊の歌』の動画が現れた。しかし、流れていたのは、音のないカラオケ画面のようなものだ。
増田元司令は、にこやかに「歌える?」と筆者に聞いた。空自戦闘機部隊の取材は既に連載を書き始めて8年に及ぶ。そのなかで全国の飛行隊を取材したが、隊歌を歌えと言われたのは、初めてだった。
だから、歌えるわけがない。筆者は適当に『きょーーーどぉーーーたぁーい』と唄うと、好々爺は大魔神と化し、烈火の如くお怒りになった。
「私もびっくりしました。その人の本質って一瞬で戻るんだな、と。やはりAGRの枠の中に入った時は絶対的に違います」
事前に伝えて頂きたかった......。しかしその瞬間、AGRが創設された当時からの真剣さと本気さを、筆者は叩き込まれ学んだ。
最初に記したAGRの鉄則、『部隊を強くする』『その訓練でパイロットを殺してはいけない』は創設の頃から存在していたのだ。
「訓練は当然ですが、実戦でも死なせないためには、AGRは必要な部隊です。
今後、時代と共に空戦の様相は変化していくと思います。米空軍ではアグレッサー部隊はどんどん縮小されていましたが、その時は米軍の兵器体系がロシア、中国に対して断然優位でした。
しかし近年、ロシア、中国はその体系に追いついて来て、米空軍はそれだけの兵器体系では勝てなくなってきました。そこで、死なないために何をするんだ?と見直して、アグレッサー部隊にステルスを入れたりしながら強化しています。
だから、空自のAGRもそれなりに変化していくと思いますが、基本的な精神は変わらないでしょうね。最後はもう、一対一になって格闘戦になっても、勝てるように教導する。私が隊長の時はそうしていました。今でもそれは続いているのだと思います」