ゼロ戦乗りとして開戦から終戦まで戦った原田さん ゼロ戦乗りとして開戦から終戦まで戦った原田さん

元特攻隊として生きてきた男たちが、今あらためてリアルに人生を語るシリーズ連載、第5回。

太平洋戦争の開戦前、昭和8年(1933)に海軍へ入団し、戦闘機乗りを目指した原田要さん(97歳)。真珠湾、セイロン沖、ミッドウェー海戦、ガダルカナルと歴史的な戦闘を数多く経験したベテラン操縦員は、特攻隊員たちとも交流があったという。そんな原田さんの子供時代とは?

原田 体が小さくて、虚弱な子供でしたね。

―それだと、学校ではいじめられたりとか?

原田 悪ガキでケンカばっかりしていました(笑)。

―え!?

原田 気性だけは激しかったからね。もう、クラス中を相手にしてケンカばかりしていましたよ(笑)。

―勉強はどうだったんですか?

原田 悪さばっかりしていたけど、成績は良かった。父親から「中学を受験しろ!」と言われて、当時近隣では1番だった長野中学を受験しました。

―中学は受かったんですか?

原田 受かった。いとこも一緒に入学したんだけど、勉強がとてもできて、まったくかなわない。彼とはライバルだと思っていたけど、どんどん差が開いていった。そこで俺が考えたのが、ケンカですよ。

―ライバルのいとこさんとタイマンですか?

原田 そんな小さいのじゃない。ケンカで一番大きいのは戦争でしょ。どうせ徴兵で軍隊には行くんだから、軍人になって大きなケンカをやりたい。それに、先に軍隊に入れば、後から徴兵で来たライバルの彼に威張れる。勉強を続けるよりも、そっちのほうが魅力的なわけですよ(笑)。だから中学は3年で辞めました。

海軍で1番になるのは無理だと

―どうして海軍に?

原田 「世界中を軍艦で回れる!」って言われたから(笑)。昭和8年に海軍を受験しました。

―入団試験はどうでしたか?

原田 この頃も身長が低くて、規定を辛うじて満たすほどでした。

―それじゃ、やっと入団!?

原田 でも、不思議と書類上だと10cm身長が伸びていた(笑)。だから制服が支給されても全部ぶかぶかですよ。これは検査官の誤記だったようです。

―海軍ならではのシゴキは厳しかったですか?

原田 そんなことはない。阿辺竹五郎さんという優しい班長がいました。体が小さいから艦隊勤務になったらいじめられるだろうと危惧して、いつもいっぱい食べさせてくれた。しかも、自分がかつて乗っていた駆逐艦・潮に配属するようにしてくれましたよ。そして、配属されたら「おまえ、阿辺さんの教え子か!」と新兵なのに特別待遇でしたね。

―同期にはやっかまれますね。

原田 だから、つらい作業は率先してやりましたよ。軍艦にいるときは、食糧を通船で基地まで取りに行くんですね。これが新兵の仕事なんですけど、台風の日は誰も行きたがらない。「ここは俺が行って役に立つぞ!」と行きました。

―台風なのに危険すぎ!

原田 防波堤の外まで流されて操艦不能に陥り、結局、内火艇に曳航(えいこう)され救助されました。それで駆逐艦に戻ったら先輩や同僚が整列しているんです。

―これは修正確定!!

原田 完全に身の程知らずの暴挙と、制裁を覚悟して直立不動で進み出ると、上官に「危険を顧みず、わが身を犠牲に飛び込む勇敢な者が戦争の役に立つのだ」と讃えられ、結果的に同僚に悪い思いをさせてしまい、申し訳なかったなー。

でも、「こんなんじゃ、俺は海軍で1番になる」のは無理だと思いましたね。そもそも、海のない長野生まれで、まともにカッター(ボート)すら漕げない水兵なんですから(笑)。

女にだって一番モテるのが戦闘機乗り

―そこで、飛行機の操縦員を目指すワケですね。どうして飛行機だったんですか?

原田 大正10(1921)年。5歳のときに長野へ飛行機が飛んできたんです。長野大橋の河川敷で飛行するというから、おじいさんと見に行った。おじいさんは飛行機って言葉は知っているけど、それがどういうものか知らない。もちろん、俺も知らない。

そして、実際に飛行機を見たら「人間だって空を飛べるんだ!」って、えらく感動しましたよ。日が暮れるまで、ずっと見ていた。それ以来、「あんなのに乗りてぇな」と思っていた。そうしたら、当時の海軍だと、そこら中に飛行機が飛んでいるんですよ。

―早速、操縦員を目指したが、大問題が発生したという。

原田 当時、操縦員になるには父親の承諾書が必要だったんです。でも「農家の長男にそんな危ないものに乗せられるわけないだろ!」と父親からの許可がもらえなかった。それでも諦めきれなくて、隣村に海軍の中佐がいたので「父親を説得してください!」とお願いしました。

―これは効きそうですね。

原田 それでもダメだった(笑)。結局、中佐が「飛行機の武装を管理する航空兵器員だったら、たまには飛行機に乗せてもらえるから、そっちを受験しろ。俺が推薦してやるから」って。「飛行機に乗れるならいいか」と思い、横須賀の航空兵器術学校へ入学しました。8ヵ月訓練を受けて、航空母艦の鳳翔(ほうしょう)へ配属されました。

―で、飛行機には乗せてもらえたんですか?

原田 1回だけ。「話が違う!」となりましたよ(笑)。

―鳳翔では憧れの操縦員たちとの交流はあったのですか?

原田 みんなカッコいいんだ。それも、戦闘機乗りが一番カッコいい。基地の外じゃケンカばっかり。しかも、強い。海軍でも陸軍相手でも負けない。そして女にだって一番モテるのが戦闘機乗り。彼らと一緒にいて「やっぱり、これだ!」と、ますます操縦員になりたくなった。

この頃、上官からは「おまえは性格的には間違いなく戦闘機乗り!」とお墨付きをもらっていたから、操縦員の試験を受けることにしました。

― 父親の承諾書は?

原田 もうね、説得は諦めて、自分で承諾書を書いてハンコを押して出しましたよ(笑)。

 「操縦員の訓練は、8ヵ月で150名のうち、26名しか合格しない厳しいものでした」(原田) 「操縦員の訓練は、8ヵ月で150名のうち、26名しか合格しない厳しいものでした」(原田)

あの「パネー号事件」で責任を!

―操縦員の道を力業で切り開いた原田さんは、訓練のため茨城県の霞ヶ浦海軍航空隊へ向かった。

原田 運のいいことに、首席で卒業できました。戦闘機に配属され、卒業飛行では編隊長を任されましたよ。そして卒業式では天皇陛下の代理である伏見宮博恭王(ふしみのみや ひろやすおう)から銀時計をいただきました。

―卒業後はどちらへ?

原田 昭和12(1937)年の初めに、中国の上海へ向かいました。夜になるとどこからか砲撃がある。朝になって砲弾の発射地点を空から探しに行くけど、逃げちゃっているから見つからない。大きな戦闘はなく、こんなことを繰り返していました。

当時の上海は大都会で、各国の租界があってイギリス人やアメリカ人がいっぱいいる。きらびやかでとても戦争をやっているとは思えなかった。

―ほかにはどんな任務を?

原田 昭和12年の11月。杭州湾敵前上陸作戦ですね。九五式戦闘機に乗って陸軍の支援をしました。城壁に60kg爆弾を投下したり、機銃掃射したり地味な任務でしたね。

―ここで、敵機や艦船を攻撃したりは?

原田 空戦はありませんでしたが、昭和12年12月12日。米国のパネー号に爆弾を命中させました。

―あれ!? パネー号ってことは、あの事件の!?

原田 海軍が米国の軍艦を撃沈した「パネー号事件」です。当時はまだ米国とは開戦していませんでしたから国際問題になり、この事件の責任を取る形で内地へ後送になりました。

―内地ではどのような任務に?

原田 教官として、いろいろな基地を回っていましたね。そして、この時期に結婚もしました。

―ケンカが強くて、女のコにモテる操縦員の結婚生活とは?

原田 操縦員は給料以外にも各種手当がついて、給料の倍ぐらいの金額がもらえた。だから、家内には給料だけ渡し、内緒で手当を使って戦友と飲みに行ったり、ビリヤードをしたり遊んでた。でもね、後で家内に告白したら「知ってました」って。バレてたよ(笑)。

※後編はこちら(http://wpb.shueisha.co.jp/2015/01/04/41569/

 写真は原田さんが操縦練習生を首席で卒業したときに授与された銀時計。メーカーは現在のセイコーである精工舎製 写真は原田さんが操縦練習生を首席で卒業したときに授与された銀時計。メーカーは現在のセイコーである精工舎製

原田要 1916(大正5)年8月11日生まれ。98歳。長野県出身。昭和8年に海軍へ入団後、昭和11 年に第35期操縦練習生として訓練を受ける。その後、中国、真珠湾、ミッドウェーなどを転戦。復員後は幼稚園を立ち上げ、長らく園長を務めた

(取材・文/直井裕太 構成/篠塚雅也 撮影/村上庄吾)