『母性のディストピア』では、日本のアニメーションを彩ってきた巨匠たちの作品を通じて、戦後日本の課題を批判的にあぶり出した宇野常寛氏

宇野常寛という評論家について、近年はTVコメンテーターという印象を持っている人も多いかもしれない。しかし、本来は『ゼロ年代の想像力』や『リトル・ピープルの時代』といった著作に代表されるようにアニメや特撮、ドラマなどの分析から現在の社会を考察するカルチャー系の論客として知られた人物である。

そんな宇野氏が久しぶりに本格的なサブカルチャー評論『母性のディストピア』を上梓した。宮﨑駿、富野由悠季、押井守といった日本のアニメーションを彩ってきた巨匠たちの作品を通じて、戦後日本の課題を批判的にあぶり出した意欲作だ。

「虚構について語ることでしか表せない真実がある」と信じる彼が本書を通じて今の日本に問いかけたかったものとは何か? 前編(宇野常寛が挑んだ“ふたつの宿題”)に続き、インタビュー後編で論じたのは…。

■第4の作家・庵野秀明への期待

―『母性のディストピア』では「第4の作家」として、庵野秀明にも『シン・ゴジラ』を中心に多くの分量を割いて言及されています。一方、同時期に『君の名は。』という空前の大ヒットを生んだ新海誠はあまり評価されていませんね。

宇野 去年ヒットした『君の名は。』と『シン・ゴジラ』を比べた時に『シン・ゴジラ』のほうが批判力のある虚構を提示できているからです。

どちらも東京の映画として震災を象徴的に扱っていますが、あれだけ『君の名は。』がヒットしたのは、震災に対する人々の無意識の後ろめたさを解消するものだったということが大きい。大災害を遠い田舎で起こった過去の出来事にすることで、安心して泣ける恋愛ドラマの背景にした。つまり、震災を「終わったこと」にしている。

それに比べると、『シン・ゴジラ』では震災も原発事故も終わっていない。我々の目の前にはいつ核爆発してもおかしくないゴジラが鎮座しているんだぞ、というラストでした。ゴジラが庵野秀明の手によって、平成という失敗したプロジェクトの象徴になったのです。

ただ、一方で『シン・ゴジラ』という作品は、決定的にドメスティックに閉じた映画でもあります。海外の人にとっては、日本についてかなり詳しくないと、この作品のアイロニーがほとんど理解不能だからです。それは庵野秀明の作家としての弱点でもあると思います。

―実際、宮﨑駿や押井守といった海外でも高い評価を得ている作家に比べると、海外のファンが少ない印象があります。

宇野 庵野秀明の課題は僕らの課題でもあって。戦後の日本は政治と文学が分裂しており、アニメと特撮のハイブリッドな継承者である庵野秀明はこの問題も継承してしまっている。だから『エヴァ』には自意識、つまり文学しかないし、『シン・ゴジラ』には政治しかない。

本当だったら、『シン・ゴジラ』も日本の問題を露悪的に暴くだけでなく、そうした状況を大きなレベルでもたらしているもの、例えばグローバリゼーションのようなものにもなんらかの応答があると、戦後の奇形的な想像力をさらに前進させることになったと思うのですが、そこまでには辿(たど)り着いていない。あと一歩か二歩だとは思うんですけどね。

―宇野さんから見て、それが実現できる作家というのは誰なんでしょうか?

宇野 作家というか、端的にいうと庵野秀明が『ウルトラマン』を作るべきなんだと思います。そもそも『ウルトラマン』というもの自体が円谷英二の息子世代による戦中派へのアンサーでした。

『Pokemon Go』が示す可能性

―どういうことですか?

宇野 円谷英二という人は、徹底した技術者でした。戦中にはプロパガンダ映画を作り、終戦後は公職追放処分も受けています。そして戦後は『ゴジラ』を手がける。素晴らしい才能があったものの、相対的に技術信仰が強く、イデオロギーへの免疫が弱かった。

しかし、『ウルトラマン』には戦後民主主義への肯定感と、そこにある欺瞞(ぎまん)が同時に描かれています。沖縄出身の作家たちのグループが脚本を手掛けていたこともあり、イデオロギーとぶつかりながらもそこから距離をとっている。それが政治と断絶していた円谷英二ら戦中派へのアンサーになっています。

―つまり、『ウルトラマン』という題材には政治的な視点が否応なしに入り込んでくると。

宇野 庵野秀明という作家は、日本では政治と文学が分裂しているということを露悪的に提示してきました。そんな庵野だからこそ、『ウルトラマン』を作ることで、もう一歩先に進めると思うのです。

その一方で、政治と文学の接続には全く逆の可能性もあります。これまでのエンターテインメントは劇映画に代表されるようにモニターの向こう側の「他人の物語」を消費することが中心でした。しかし今は自分が発信して交流する「自分の物語」に中心が移ってきています。

雑誌が売れなくなってきているのもそれが原因です。ぶっちゃけ、雑誌で他人の物語を読まされるより、彼氏や彼女とLINEしているほうが楽しいからですよね。このパワーバランスはもう変わらないと思っています。だから僕はその現実は受け入れた上で、どう今の時代に「他人の物語」の快楽を仕込んでいくかということに面白みを感じています。

―それは具体的にいうと?

宇野 例えば、2015年に提案した「オルタナティブ・オリンピック・プロジェクト」。東京五輪について、80年代、90年代のオタク文化の洗礼を受けた人間だからこそ発想できる様々なアイデアを提案しました。

これから可能性があるのは「戦後日本のアニメとは何か?」みたいな視点を持ちながら、現実にコミットしていくことだと思うんです。わかりやすいのはジョン・ハンケの『Pokemon Go』でしょう。

彼がやっていることを乱暴に言えば、今のテクノロジーを使えば「他人の物語」を媒介させなくても、想像がつかないものに直接触れさせることができるというもの。現実を拡張することで虚構のものだった「ポケモン」をユーザーひとりひとりの現実の体験に変えました。

つまり、彼らは現代の情報技術で20世紀の文化の再編をしているわけであり、僕は基本的にそれは正しい路線だと思っています。

僕は庵野秀明の『ウルトラマン』が観たい

■世界を驚かせるアイデアは日本のオタク文化にある

―要するに、今の宇野さんは文系と理系の融合のようなものに未来を見ているということでしょうか?

宇野 元々、それは区別されていなかったんです。今の若い人にはイメージできないかもしれませんが、80年代、90年代の都市部の若いオタクならアニメも観つつ、当然のように最新のテクノロジーにも興味を持っていました。

―確かに。オタクとコンピューターギークの親和性の高さは電気街だった秋葉原がオタクの街になった背景でもあります。

宇野 そこには新しいリベラルアーツの萌芽(ほうが)があり、文学と工学が根底で繋がっていました。しかも、それは日本だけの現象じゃなかったんです。

20世紀最後の4半世紀は、政治の革命が失敗した代わりに、文化で自分を変えるサブカルチャーの時代でした。アメリカの西海岸ではエコロジーやドラッグなどサブカルチャーのひとつとしてコンピューターが注目され、後に世界を席巻する「カリフォルニアン・イデオロギー」も生まれました。それと日本のオタク文化は同時代の産物であり、兄弟のように繋がっています。

しかし、今の日本では文学と工学が対立するもののように捉えられ、かつて日本にあった豊かな文化的土壌が忘れられようとしています。だから、この本はカリフォルニアン・イデオロギーが圧倒的優位の時代に日本から面白いものを生み出す手がかりが、かつてのオタク文化にあるのではないかという視点で論じたものでもあるのです。

―アニメについて考えることが、現実を分析するだけでなく日本独自の新しいものを生み出すことにも繋がる、と。

宇野 僕が編集者として猪子寿之(チームラボ)や落合陽一(メディアアーティスト)の仕事にコミットしているのも、彼らがカリフォルニアン・イデオロギーを受け入れながらも、それを批判的に読み替えていくような仕事をしているからですね。僕は彼らがやっていることが21世紀の文化の土台になっていくと思います。

あとは繰り返しになりますが、僕は庵野秀明の『ウルトラマン』が観たい。学生時代に『ウルトラマン』をモチーフにした自主映画を作っていたことからもわかるように『ゴジラ』より思い入れが強く、意図的に避けていることは重々承知しています。しかしだからこそ、あなたはそこから逃げるべきではないというメッセージをこのインタビューを通じて送っておきます。

(取材・文/小山田裕哉 撮影/五十嵐和博)

■宇野常寛(うの・つねひろ)評論家、批評誌「PLANETS」編集長。1978年生まれ。著書に『ゼロ年代の想像力』(早川書房)『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)『日本文化の論点』(筑摩書房)など。最新刊『母性のディストピア』(集英社)も話題に。京都精華大学ポピュラーカルチャー学部非常勤講師、立教大学兼任講師

■『母性のディストピア』(集英社 2,777円+税)