12月某日夜、繁華街の喧騒の中、電動車椅子に乗った初老の男性が姿を現した。
「風邪を引いちゃいましてね、さっきまで寝ていたんだよ」。時折、大きく咳き込みながらも饒舌(じょうぜつ)に語るこの男性は、長谷川博史さん(65歳)。
HIV(ヒト免疫不全ウイルス)に感染した直後から、顔と実名を公表し啓蒙活動を行なってきた人物だ。ゲイ雑誌『Badi』『G-men』を創刊プロデュースし、HIV情報を発信してきた編集者としても知られる。
もうひとつの顔は"女装詩人"。総スパンコールのドレスにボサボサの金髪ウィッグ、ヒゲ面に青いシャドーを厚く塗ったドラァグクイーンの「ベアリーヌ・ド・ピンク」を名乗り、クラブイベントなどで自作の詩を朗読する。
「(前略)あなたはご存じないかも知れませんが 私の血には あのエイズを引き起こすHIVが混ざっておりますの HIVというウイルスは ゴーマンな若いオカマと同じ 放っておくといい気になって どんどんのさばってしまいますわ だから早いウチに叩いておかなければいけませんの 今では薬の鞭でなんとか大人しくさせることもできますが... この性悪な血との付き合いも、当分続きそうでございます あなたはご存じ無いかも知れませんが 私にはそんな厄介なHIV混じりの血が流れておりますの...(後略 原文ママ)」 (『熊夫人の告白2/血の問題』より)
1992年、長谷川さんはHIVに感染していることを知った。80年代後半の「エイズパニック」はやや沈静化していたが、HIV/エイズは未だ「不治の病」のイメージを持たれ、恐れられていた時代だった。
感染宣告直後は自ら命を絶つことも考え、フリーランスの編集業も続けられなくなり、人間関係も断ち、塞(ふさ)ぎこんだ。しかし救われたのは、HIVに感染しても「セックスを諦めなくてもいい」という主治医の言葉。ふと気付くと、医療体制や社会福祉支援も充実したものになっていたし、幸いにも自分はエイズ発症までに至っていなかった。
しっかり治療すれば生きられること、セックスもできるということを心身で理解し、少しずつ本来の楽天的な性格を取り戻していったという。とはいえ、まだHIV患者は世間やメディアから「かわいそうな存在」と見なされていた。なぜ自分たちは不幸でなければいけないのか――長谷川さんはこうしたレッテルに拭いがたい違和感を抱いていった。
翌年、群馬県の保健所からHIVについての講演を依頼された時、迷いなく「実名」で語ることを希望した。講演のテーマは「Happiest Positive(最も幸福な陽性者)」とした。
「名前どうしますか?と聞かれたから、長谷川博史でお願いしますと。ウソをついたらHIVやエイズが、恥ずかしくて人に言えない病気だということを増幅させてしまうと思ったから」
「啓蒙者である自分に酔っていた」
当時、ゲイのHIV患者が置かれる環境は厳しかった。エイズを発症し入院すれば、親に「うちの息子ではない」と断絶され、周囲からは偏見の眼差しに晒(さら)された。甲斐甲斐しく見舞いに来てくれるパートナーは、患者の死後、葬式に呼ばれないこともあった。
長谷川さんは93年にゲイ雑誌『Badi』を、95年には『G-men』を創刊プロデュースし、当時は「ご法度」とされたHIV/エイズの問題を積極的に取り上げた。さらに、HIVの現状に一石を投じるべく、クラブイベントでの啓蒙活動を始めた。
東京、名古屋、大阪、福岡、札幌など日本全国のゲイのクラブを回り、コンドームを膨らますなどのパフォーマンスを交えながら、HIV予防のメッセージ発信に明け暮れた。
しかし、思いが前面に出すぎて空回りしていたのか、こういった上から目線のアプローチでは伝わらないという壁にぶつかった。当時を振り返って、「啓発者・啓蒙者である自分に酔っていた」と認める。
そこで長谷川さんが新たに取った手法は「みんな、クラブには遊びに来ているんだから、女装しちゃえばいいんだ」というもの。下手な化粧を施し、ジョージアの缶コーヒーにコンドームを被せてレイ・チャールズの『Georgia on my mind』を口パクで歌うなど芸風を凝らし、様々なアプローチを試みた。
しばらくツアーが続く中でネタも体力も尽きそうになっていたある日、大阪に向かう新幹線でふと詩の朗読を思いつく。慶応大学法学部の学生時代には宮沢賢治やエズラ・パウンドを愛読し、小難しい詩を書いていたが、自分で朗読するための詩を書くのは初挑戦だった。心がけたのは、小学6年生程度の語彙(ごい)があれば理解できる易しい言葉で綴(つづ)ること。
これが後に長谷川さんのトレードマークとなる、前出の『熊夫人の告白』シリーズである。友人手製の煌(きら)びやかなピンクの衣装を纏(まと)って、HIV陽性当事者としての目線で詩を朗読した。
東京で初めて『熊夫人の告白2』を披露した時、小さなクラブの後方から嗚咽(おえつ)が聞こえてきた。そこに視線を移すと「マッチョでゴツい体」の知り合いが泣いていた。長谷川さんはその姿を忘れられないという。
「ちょっと前衛的すぎたのか、当時は受け入れられるよりも拒絶感のほうが強かったかもしれないけれど、どちらかというと"野郎系の男たち"が先に食いついたかな。自分たちが言葉にしたくてもできなかったことを表現してくれた、というのもあるんだろうね」
●後編⇒HIVへの偏見と25年間闘ってきた活動家が憂う現実「社会的には未だにウイルスをばらまくやつだと思われている」
(取材・文/松元千枝 撮影/保高幸子)