陸前高田市はまだ市役所の庁舎自体がプレハブ。その敷地内の一角にあるスタジオも小さなプレハブコンテナだった。

人々が家を失い、携帯の電波も届かず、情報が行き渡らない。

そんな被災地で、生きるために必要な情報を伝えるための「臨時災害FM局」が各地に誕生した。あれから7年、最後に残った岩手県陸前高田市の小さなラジオ局もついに閉局を迎える。

その思いを知るべく、自身もかつて災害支援放送局を運営した経験のある近兼拓史(ちかかね・たくし)氏が、前編記事に続き現地を訪ねた。

■全員が被災者。余剰人員なんていない

ここまで話したところで、代表の村上清氏が到着した。名刺には「岩手大学客員教授」とある。大学の先生が放送局を作ったのだろうか?

「いや、そうじゃありません。放送の仕事に携わっていたわけでもありません。地元出身ではありますが、震災当時、私は外資系の会社に勤めていて香港にいました。そこで故郷の町が流されるニュース映像を見ましてね。正直、全滅だと思いました。こんな状況でいったい何が自分にできるだろう、何かやらなければいけない、と考えながら陸前高田に戻ったんです。

地元に入れたのは6日後です。以前インドネシアの震災の緊急対応派遣に携わった経験があったので、状況に応じて必要なものを手配できるはずだと思っていましたが、状況は想像以上でした。私は陸前高田ふるさと大使をしていた関係で、戸羽太(とば・ふとし)市長とは旧知の仲だったんですが、市長はうなだれていましたね」

当時、わずか1ヵ月前に初当選したばかりだった戸羽市長は、震災で奥さんを失っている。また、市自体も全職員の実に約4分の1に当たる111人もの犠牲者を出した。その絶望は察するに余りある。

「通信網も連絡網もズタズタで、どこで何が起きているかもわからない。今すぐにでも災害FMが必要だと思いました。私も放送に関しては、中学生のときにアマチュア無線をやったり、高校で放送部にいたりした程度のシロウトでしたが、やはり市長が放送を通して直接市民の皆さんに声をかけることが一番力づけられる、それにはラジオしかない、と。それで手探りでスタートしたわけです」

いくら優秀な人材でも、やらなければいないのと同じだ。気づいた人がやるしかない。気づく人が最適な人なのだと僕は思っている。

苦労したのは伝送システムの調達と人材確保

市内で開かれたシンポジウムでは、東京と地元の大学生が共同で手がけている支援活動や研究活動の報告が行なわれていた。

逆に、気づかない人が音頭をとるとトンデモないことになる。当時の政権は、「仕分け」の名の下に4000億円もの地震対策予算をカットしていた。「何百年に一度の災害のために堤防を造る意味があるのか?」などと言い、各地の防災・耐震工事を中断させていた政治家たちが後に謝ったという話は聞いたことがない。

「申し訳ない話ですが、阪神・淡路大震災の経験から各省庁には行政面のノウハウが蓄積されていて、その部分はスピーディに進みました。しかし、あまりにも大規模な災害でしたので、各地で急に多数の災害FMを開局するという異常事態になり、機材がまったく足りないわけです。

一番苦労したのは、ミリ波と呼ばれる伝送システムの調達です。まともに買えば3000万円は下らない。作るとしても数ヵ月を要する。結局、カリブ海のハイチで災害FMに使っていたシステムが1セットあるとわかり、ヨーロッパ経由で運んでもらってどうにか開局にこぎ着けたんです。

もうひとつ苦労したのは人材確保です。2万4000人規模の市で、死者・行方不明者が1852人。助かった皆さんも避難所生活や生活再建に必死です。そして、市も111人もの犠牲者を出した。余剰人員なんてどこにもいません。誰もが手いっぱいの仕事を抱え、新事業を担当できる職員がいない。食料配給、仮設住宅の斡旋など、もっと先にやるべき大事なことがあるだろうと大反対がありました」

僕自身も経験したことだが、被災地に暮らす人々は、市職員でも警察官でも一般市民でも、等しく被災者だ。被災者が被災者をケアする状況。もしかすると被災者からクレームを受けている市職員のほうが、実はひどい境遇にあるというケースもあったかもしれない。目に見えないストレスとやり場のない怒りが人間関係に影を落とす。

「結局、市長が後押ししてくれてようやく前に進めたわけですが、人材に関しては市民ボランティアの皆さんの力が大きかったです。まずは大船渡市の災害FMを間借りしてスキルアップしながら、開局に向かっていったというところでしょうか。ただ、岩手人気質というか、なかなかマイクの前に立ちたがらない人が多い。スタジオにお呼びするのが大変でした」

災害FMの運営においてボランティアスタッフの活躍は欠かせないが、その中からAidTAKATAの職員を登用していくという流れは、口で言うほど簡単ではなかったと思う。限られた予算からどう人件費を捻出するか。同じ作業に従事する仲間であるボランティアスタッフと職員の待遇の差をどう埋めるのか。悩みは尽きなかったはずだ。

最後のひとりまで見守りたかった

■最後のひとりまで本当は見守りたかった

ボランティアの女子中学生DJの誕生など、さまざまな明るい話題も提供した陸前高田災害FMだが、2年前に財務状況を改善するべく、国の被災者支援総合交付金を受給したことが転機となる。

放送法第108条で、臨時災害放送局は「被害を軽減するために役立つ放送」をするものと規定されている。内容は市町村や関連機関からの伝達事項だけでなく、精神的な被害を軽減する音楽やお笑いなどの軽い娯楽も容認される…とあるが、交付金を受ける限り、この基準に合致しているかどうかの判断を下される。そして結局、来年度の交付は受けられないことになった。

陸前高田FMはすでにボランティア主体から職員主体の運営にかじを切っていたため、もう後戻りはできない。こうして、今年3月16日の放送を最後に閉局することが決まったのだ。

「防潮堤の建設、土地の嵩(かさ)上げが進み、昨年は町の中心部に大型商業施設『アバッセたかた』がオープンしましたが、一方で今も多くの方々が仮設住宅での生活を余儀なくされているのが現実です。閉局はやむをえないことなのですが、本当は最後のひとりが仮設住宅を出られるまで見守りたかった」

復興に100%の正解はない。血税を使う以上、打ち切りはやむなしという国の判断が正しいかどうか、結論は出ない。

スタジオの壁に沿って並べられた棚いっぱいのCDは、さまざまな場所から放送用にと寄贈された善意の資産だが、これも図書館に寄贈される予定だという。もう、すべては終わりに向かって進んでいる。

陸前高田災害FMが所有する大量のCDは、すべて各所から寄贈されたもの。閉局後はすべて地元の図書館に寄贈される予定になっている。

村上局長の勧めで、市内に開設された陸前高田グローバルキャンパスでのシンポジウムを見学した。被災地を訪れ、活発に支援活動や研究活動を行なう大学生たちの姿は頼もしいが、「支給される活動費がなくなった後はどうする?」との質問には、皆が口をつぐんだ。「また陸前高田に来たい。ここに住む人と会いたい」という彼らの言葉が、支援を失った後もずっと続いていくことを心から願う。

この記事を読んで何かを感じた人がいたら、ぜひ現地を訪ねてほしい。美しい景色を背に温かい人々が暮らし、復興に向け汗を流している。皆さんが現地で使うお金が、次の種をまき育てることになる。

JOYZ2AK-FM 80.5MHz陸前高田災害FMは3月16日、その役目を終えた。放送に関わったすべての皆さん、本当に本当に、お疲れさまでした。

(取材・文・撮影/近兼拓史)