『週刊プレイボーイ』で「挑発的ニッポン革命計画」を連載中の国際ジャーナリスト、モーリー・ロバートソンが、#Me Too以降、芸術家が突きつけられる"踏み絵"について語る。

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京都造形美術大学主催の公開市民講座に参加した美術モデルの女性が、講師を務めた現代美術家・会田誠(あいだ・まこと)氏らの発言や作品から精神的苦痛を受けたとして、講座を運営する大学側に慰謝料の支払いを求める訴訟を起こしました。

女性が苦痛に感じたのは、涙を流す少女がレイプされた絵や、全裸の女性が排泄(はいせつ)している絵、さらにデッサンに来たモデルを"ズリネタ"にしたという会田氏自身の発言......などだったそうです。

前提として、今回の講座はアートに従事している人(or学生)向けのもの。いうなれば見る側も"リテラシー高め"という設定で開催されたわけです。それなのに、訴えを起こした女性が「会田さんのキャラクターや作風を知らずに参加した」と話していることから、「自己責任だ」との批判も少なくありません。

ただ、それでもあえて問いたい。この一件は、そうしたロジックで一方的にシャッターを下ろせる問題なのでしょうか?

ひとつ思い出したのが、1990年代以降に活躍している現代美術家のダミアン・ハーストです。巨大なサメを丸ごと、あるいは真っぷたつに切断した親牛と子牛をホルマリン漬けにした作品などで知られ、残酷な作風、世間を挑発する言動に対しては批判も多いですが、本人は「俺を批判するなら、俺の作風・背景を理解しろ」と意に介しません。

"文脈"も知らない人間が勝手に傷ついたからといって、なぜ俺がお詫(わ)びしなければいけないのか。そんな抗議を受け入れると、美術そのものが萎縮するぞ―というわけです。

そんな彼の"作風"がより色濃く表れたのは、2002年9月のこと。アメリカ同時多発テロから1年という時期に、英BBCのインタビューで「この事件そのものがアート作品のようだ。確かに最悪なことだったが、視覚的には衝撃を与える方法だった」とコメントしたのです。

その後、大炎上に至った顛末(てんまつ)は説明するまでもないでしょうが、彼はいわば、時代や社会のなかで芸術にスレスレの"心なさ"を盛り込むことをブランド化してきた。

その後味の悪さや、炎上までも含めてファンはついていますが、「抗議してみろ」と言わんばかりのことをしておいて、いざとなれば「表現の自由」という名の要塞へと逃げ込むという表現上の選択は、いつまで成立し続けることができるでしょうか。

不都合な真実やタブーを描写するために、"不適切な表現"をする自由は尊重されるべきです。ただその一方で、アート界の片隅では、ハーストのような他者の気持ちを顧みない"ハラスメント芸術"をどこまで収入源にできるかという"アルティメットチャレンジ"が行なわれてきたことも事実です。

しかし、#Me Too以降、われわれには新たな価値観が突きつけられていて、それは芸術家も例外ではない。こうした"心ないチャレンジ"が曲がり角に来ているという議論も成り立つでしょう。

社会の変化と向き合うことなく、狭いサークルのなかの"お約束"でしか成立しないとしても自分の道を突き進むのか。それとも、社会や価値観の変化を自分なりに解釈して「今」をつかみ出すのか。少なくとも、これからは芸術家にもそのスタンスを明らかにする"踏み絵"が突きつけられていく時代になると思います。

●モーリー・ロバートソン(Morley Robertson)
国際ジャーナリスト。1963年生まれ、米ニューヨーク出身。日テレ系情報番組『スッキリ』の木曜コメンテーター。ほかに『教えて!ニュースライブ 正義のミカタ』(朝日放送)、『報道ランナー』(関西テレビ)などレギュラー多数。本連載を大幅に加筆・再構成した書籍『挑発的ニッポン革命論 煽動の時代を生き抜け』(集英社)が好評発売中!

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