『週刊プレイボーイ』で「挑発的ニッポン革命計画」を連載中の国際ジャーナリスト、モーリー・ロバートソンが中止となった「表現の不自由展・その後」について語る。

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「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」が中止となった問題に関する議論が続いていますが、その多くが本質的なアート論に踏み込むことなく、「表現の自由」「検閲」「反日」といった短絡的な図式に収斂(しゅうれん)されているのが気にかかります。

古今東西、アートが政治性を帯びることは多々ありますが、本来それは短絡的な二項対立から抜け出すためのニュアンスや両義性を提供し、"単純な正義"を否定するべきもの。今回の展示は税金が投入された自治体主体のアートフェスティバルですから、より慎重に単純な二項対立から距離を置く必要があったと思います。

そもそも税金が使われるパブリックアートにおける「表現の自由」をどう考えるべきか。1980年代のアメリカでは、あるアート作品をめぐり大きな議論が巻き起こりました。

81年、米公共事業局の依頼で彫刻家リチャード・セラがニューヨークの連邦ビル前広場に完成させた「傾いた弧」という作品で、高さ3.7m、長さ37m、厚さ6cm強の弧を描きつつ傾斜する巨大な鉄板です。

マンハッタンのビジネス街で働く人々がせわしなく行き交う場所に出現したこの作品に対しては、「今にも倒れてきそうで怖い」「通行の邪魔だ」といった苦情が殺到。撤去を求めるキャンペーンが展開され、長い裁判の結果、完成から8年後に撤去されました。

この作品にはセラの社会に対する強いメッセージが込められていました。「自分たちがいかに巨大建造物に囲まれて不自然な生き方をしているか、そのこと自体を疑え」。善悪の判定ではなく、あくまで問いかけです。ある意味、多くの人を不快にさせるアートでしたが、作家の信念と作品自体の強さがありました。

作品そのものに"強さ"はあるのか―これはアートを評価する上で非常に重要な視点だと思います。ある時代において強烈な政治性を帯びた作品であっても、アートとしての恒久性があれば、後年になっても人々の心を打つものです。

例えば、60年代から70年代のアメリカでは抽象的な作品から直接的、そして非常に過激な作品まで、ベトナム反戦を訴えるアート作品があふれましたが、最近では当時の政治的なアート作品を集めた企画展なども開かれています。

これらの作品は色あせていないか、今の時代でも人々に訴えるものがあるか、アーティストたちが時代にのまれてつくっただけではないのか......時代性から距離を置いて、作品自体の強度を確かめる試みが30年後、40年後に行なわれているわけです。

今回の「表現の不自由展・その後」の作品群は、本当にアート展としての強さ、より深い内省や閃(ひらめ)き、あるいは時代や日常への疑いを提供していたのでしょうか。

単体の作品はそれぞれに背景があり、作家の思いがあったでしょうが、企画展全体として、現在進行系で進む中国の人権圧迫、北朝鮮の全体主義体制への言及がないというバランスの悪さも際立ちました。

アートというフレームワークを使って自分たちの「正義」を集めただけではなかったか、SNSなどで"ちょうどよく炎上"することを安易に狙った面はなかったか――そうした点に関する議論もあってしかるべきだと思います。

●モーリー・ロバートソン(Morley Robertson)
国際ジャーナリスト。1963年生まれ、米ニューヨーク出身。日テレ系情報番組『スッキリ』の木曜コメンテーター。ほかに『報道ランナー』(関西テレビ)、『水曜日のニュース・ロバートソン』(BSスカパー!)などレギュラー多数。本連載を大幅に加筆・再構成した書籍『挑発的ニッポン革命論 煽動の時代を生き抜け』(集英社)が好評発売中!

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