なぜアメリカのメディアから"ぼったくり男爵"への痛烈な批判が出るのか。そしてなぜ、開催国・日本のメディアはそれでも"本丸=IOC"への批判に及び腰なのか。その背景と議論すべきポイントを、『週刊プレイボーイ』で「挑発的ニッポン革命計画」を連載中の国際ジャーナリスト、モーリー・ロバートソンが緊急解説!
■NHKも民放も五輪のステークホルダー
5月5日付の米ワシントン・ポスト(電子版)に、日本政府に対して「東京五輪を中止すべきだ」と訴えるコラムが掲載されました。IOCは収益のほとんどを手にしつつ、諸費用を開催国に押しつけていると指摘し、バッハ会長を"ぼったくり男爵"と揶揄(やゆ)。日本側が大会中止を申し入れた場合に発生するIOCへの莫大(ばくだい)な違約金についても「契約を反故(ほご)にしろ」と一蹴しています。
米メディアではほかにもニューヨーク・タイムズやサンフランシスコ・クロニクルなど、五輪開催に否定的な意見が相次いでいます。しかし、開催国である日本の主要メディア(特にテレビ)からはこうした議論(ディベート)に正面から踏み込むことを避けるような気配を感じます。
もともと自民党政権に批判的なメディアは、五輪開催を前提として突き進む菅内閣を腐(くさ)してはいますが、あくまでもそれは"政権叩きの道具"という位置づけです。
IOCという"本丸"の体質に強く疑義を唱えることはせず、「これだけ感染が広がっているのに、本当に開催するのでしょうか?」と、遠くから眺めたような物言い。「大会は中止すべきだ」とも決して言わず、基本的にオリンピックそのものには好意的です。
政権寄りのテレビ局などはもう少し露骨で、開催に懐疑的な専門家や一般人の声を取り上げる数を極力少なくしている印象です。その分多いのが、アスリートを主体とした"感動物語"。こんなときに大会をやるべきか、というテーマがきちんと語られることはもちろんありません。
では、なぜ主要メディア、とりわけテレビで「オリンピック」が腫れ物扱いになっているのか。大きな理由のひとつは、NHKも民放各局も多額の放映権料を支払うなど、広告代理店やスポンサーと一緒に引き返せないほどの投資をしていることでしょう。
たとえ「報道」であっても、それを放送する局自体が大会の当事者(ステークホルダー)になっている現状では、議論すべきことをフラットに論じられない――この状態は決して健全ではありません。
もちろん、ウェブや活字のメディアでは五輪のあり方に対する批判もありますが、その多くは「軍国主義」「言論封殺」「ファシズム」といった強烈なワードがちりばめられた"オールド左翼のサロン"と化している。もっと一般の人たちがフラットに耳を傾けられる場で、本質的な議論をする必要があります。
■IOCの行動原理はスポーツより資本主義
日本で五輪に対する疑義や反対意見を表明すると、決まって出るのが「人生を懸けているアスリートの前で言えるのか」という類いの反論ですが、これはどう転んでも言われた側が悪者になってしまう、議論をさせないための罠のような詭弁(きべん)です。原発処理水問題の議論で、「漁業関係者の前で言えるのか」という声が共感を集めやすいのと似た構図です。
選手個人に対して「大会を辞退しろ」というのがお門違いなのと同様に、さまざまな視点から五輪の是非を議論する際に選手を"人間の盾"のごとく利用するのも、また完全にお門違い。当事者の心情を想像することは確かに重要ですが、だからといって"無敵の弱者憑依(ひょうい)"で議論のタブー領域を広げてもなんの解決にもなりません。
現代オリンピックの本質的な問題点は、「平和の祭典」や「アスリートファースト」の看板とは裏腹に、IOCが限りなく純粋な資本主義の論理で動いていることでしょう。
どの大会でもコストオーバーランが膨らんで開催国に無理を強い、マネーを生む権利関係はIOCが囲い込み、選手にもまともな利益還元がない。この搾取構造は明らかに問題だと思いますが、主要メディアではそれを指摘することすらはばかられる風土が隅々まで染み込んでいます。
また、政治的表現を禁じるオリンピック憲章を盾に、独裁国に対して見て見ぬふりを続けてきた歴史もあります。ジェンダーや人種の問題には言及できても、五輪の儲けの構造に触れるような南北経済格差の問題や、経済力のある独裁国への批判は議論の俎上(そじょう)に載らない。ここにも裸の資本主義が露呈しています。
ワシントン・ポストなどアメリカのリベラルなメディアが東京五輪に批判的なのは、そんなIOCへの反発があってのことです。かつてアメリカの巨大企業が発展途上国の水道インフラの権利を独占したように、IOCも「契約」をかざしてコロナ禍の日本に違約金を突きつけ、生殺与奪(せいさつよだつ)権を握ろうとしている。これは国家主権の侵害だ。訴えるなら訴えればいい、主権を侵されてまで守らなければいけない契約などない――。
こうした議論は、欧米の左派インテリのみならず、富裕な先進国が勝手に決める「公平なルール」に振り回されてきた人々の大いなる共感を呼びます。
1964年の東京五輪は、敗戦国・日本がアメリカの傘の下に入ったことで得た経済発展のさなかに行なわれました。当時とは何もかも違う2021年、もはや大会の恩恵は普通の人には渡りません。「スポーツが嫌いなら見るな」という意見もよく聞きますが、それなら金銭的にも社会的にも、五輪に興味のない人を巻き込まない形で大会を行なうべきでしょう。
本当にこの状況で五輪を開催するのがベターなのか。メリットや意義だけでなくデメリットや不都合な真実もすべて並べ、平行線になるまで議論を尽くして、それでも大会をやるならまだわかります。そういったプロセスもないまま、なし崩し的に大会を開催した挙句、頑張った選手の金メダルや、「メダルを取れなくてごめんなさい」というストーリーに感動し、その涙ですべての問題をチャラにしていいものでしょうか。
聖火リレーへの逆風を見ても、そういった従来型の"五輪のパワー"が限界を迎えているように感じます。今こそ、まずは水平な議論を。
●モーリー・ロバートソン(Morley Robertson)
国際ジャーナリスト。ミュージシャン。1963年生まれ、米ニューヨーク出身。レギュラー出演中の『スッキリ』(日テレ系)、『報道ランナー』(関テレ)、『所さん!大変ですよ』(NHK総合)ほかメディア出演多数。本連載に大幅加筆・再構成した書籍『挑発的ニッポン革命論 煽動の時代を生き抜け』(集英社)が発売中。