選手たちの努力と才能、そして素晴らしいパフォーマンスに無条件で感動したいオリンピック。しかし、欧米では中国の人権問題が厳しく批判され、今回の冬季五輪をナチス政権下のベルリン五輪に重ねる評論も出ている。一方、日本では......。

『週刊プレイボーイ』で「挑発的ニッポン革命計画」を連載中の国際ジャーナリスト、モーリー・ロバートソンが語る。

■スポーツメディアも中国の人権問題を批判

北京冬季五輪開幕直前のある日、テレビの情報番組に出演していた僕は、生中継で現地の様子を伝えるリポーターの方がパンダのマスコットグッズを買った話をするのを見ながら、頭の中でぐるぐる考えました。もしコメントを振られたら、このポップな「頑張れニッポン」ムードのなかで中国の人権問題をどう挟み込めるだろうか? 

「血塗られた五輪ですが」とド直球をぶっ込むのはさすがに厳しい。ならば「僕も寒い時期にウルムチ(新疆[しんきょう]ウイグル自治区の中心都市)に行ったことがありまして......」など、過去の取材体験を引っ張り出してウイグル問題の存在だけでもなんとかしてにおわせるか? ......偶然かどうかわかりませんが、この五輪コーナーで僕に発言の機会はありませんでした。

今回の五輪に際し、英BBCや米CNNといった欧米の主要メディアはもちろん、さらに米スポーツ専門チャンネルESPNなども、中国当局のウイグル族に対するジェノサイド(虐殺行為)をはじめとする人権問題を強い論調で批判しています。

1936年にナチス政権下で開催されたベルリン五輪が引き合いに出されるケースもあり、この温度感は2008年の北京夏季五輪当時と比べてもまったく違う。それほどまでに、現在の中国政府がウイグルやチベットの民族弾圧、香港での人権侵害、台湾への圧力を強化しているのは火を見るより明らかです。

にもかかわらず、日本のほとんどの番組ではその点に一切言及しないか、せいぜい「欧米で報じられている」と第三者的に触れる程度。そして、体感的に日本には「五輪とウイグルになんの関係があるの?」という"素朴な無知層"がかなり多いと感じます。

これは個々人の勉強不足というより、五輪ビジネスの当事者であるメディアや広告代理店やスポンサー企業、あるいは中国経済に依存する財界や日本政府......が問題の所在を曖昧(あいまい)にし続けてきたために生まれてしまった"情報の空白地帯"とでもいうべきものです。

時にSNSなどでは、「スポーツに政治を絡めるな」「よけいな批判でアスリートや日本企業に迷惑をかけるな」といった、日本社会のむき出しの本音が表出します。しかし、突き詰めて考えれば諸外国を経済的に中国へ依存させることも、そして五輪におけるスポーツの"無謬(むびゅう)性"や"感動"さえも、独裁や圧政を正当化するプロパガンダの後ろ盾として機能している面が――それを完全に否定することは難しいでしょう。

ただ、一方でもちろんアスリートの立場の難しさについても強調しておく必要があります。問題の存在を知っている選手であればあるほど、黙っていていいのかという思いと、声を上げることで自身に降りかかるリスク、そしてスポンサーやほかの選手にまでそのリスクが及ぶ可能性との間で葛藤するのではないでしょうか。

NBA(米プロバスケットボールリーグ)のような超人気スポーツでさえ、あるチームのGMが香港の反政府デモを支持するツイートをしたところ猛反発を食らい、謝罪に追い込まれたのですから、いわんや中国マネーへの依存度が高い競技の選手が、正義感だけでリスクを背負えるはずもありません。

だからこそ、北京五輪をまっとうに批判する役割はメディアが担うべきです。仮にその結果、中国当局に目をつけられて五輪取材から締め出されたとして、その媒体は読者や視聴者からの信頼を失うでしょうか? リスクを引き受けて五輪を批判しているBBCやESPNは、むしろその覚悟や公平性を評価されていると思います。

■日本に風穴をあける「批判の作法」とは

そうはいっても、事なかれ体質が浸透している今の日本のテレビで、生放送の出演者がいきなり「血塗られた五輪!!」と絶叫し、上着を脱いで「Where is Peng Shuai?(彭帥[ほうすい]さんはどこ?)」と書かれたTシャツをカメラに見せつけたらどうなるでしょうか? ネットで一部の"良識派"と"反中派"から祭り上げられる一方、おそらく二度と地上波に呼ばれることはないでしょう。

では、どんな「批判の作法」を使えば、見て見ぬふりの日本社会に風穴をあけることができるでしょうか。

1936年ベルリン五輪の記録映画『オリンピア』の監督を務めたレニ・リーフェンシュタールは戦後、ナチスの片棒を担いだ"罪人"として批判され続けました。しかし、この作品がナチスの宣伝映画として決定的な力を持つに至ったのは、レニがゲッベルス(ナチスの宣伝大臣)の言いなりになって作品を作ったからではありません。彼女がその才能をいかんなく発揮し、ベルリン五輪を極めて美しく描き切ったからです。

また、資本主義や権力のいびつさを多くの作品で描いているアメリカの映像作家マイケル・ムーアはこう話しています。「俺の映画は金を稼ぐ。だから資本家は自分たちに不都合な内容が告発されている作品だとしても、欲望に負けて興行化する。そして俺は有名になり続ける」。

両者の例から考えるなら、プロパガンダも反プロパガンダも、やはり決定打はそれを訴えかける語り部や言葉、表現の「魅力」です。

あえてこういう言い方をしますが、ハーバードで、ハーフで、日本語が流暢(りゅうちょう)で、大河ドラマに出て、ツイッターではパートナーに感謝を述べ......僕はそういう存在として、テレビではチャーミングに、かつ微妙にニュアンスを込めた発言を続けようと考えています。今の日本のような"空白地帯"なら、そのくらいのスパイスでも十分に広がっていくと思うので。

●モーリー・ロバートソン(Morley ROBERTSON)
国際ジャーナリスト、ミュージシャン。1963年生まれ、米ニューヨーク出身。レギュラー出演中の『スッキリ』(日テレ系)、『報道ランナー』(関テレ)、『所さん!大変ですよ』(NHK総合)ほかメディア出演多数。さらに昨年はNHK大河ドラマ『青天を衝け』、TBS系日曜劇場『日本沈没―希望のひと―』への出演でも話題に!

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