『週刊プレイボーイ』で「挑発的ニッポン革命計画」を連載中の国際ジャーナリスト、モーリー・ロバートソンが、日本のお笑い業界の不健全な"常識"について指摘する。

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先日、あるバラエティ番組の収録に参加しました。周囲の芸人さんたちの天才的な発想、自分にはないスキルセットに圧倒されながら楽屋に戻ると、自分がウクライナのことを完全に忘れていたことに気づきました。戦争のことも、核のことも。

約2週間、ほぼリアルタイムで流れてくるロシア軍による殺戮(さつりく)行為の動画を見ては、自分には何もできないという無力感にさいなまれ続けていたのに。日本独特のエンターテインメントが、まるで鎮痛剤や麻薬のように現実を忘れさせたのです。

日本の「お笑い」は見ている者にささやかな幸せと、この日常がいつまでも続くような感覚を届けてくれます。しかし、元コメディアンの大統領が、核ボタンに手をかけた独裁者の侵略から命がけで国を守っているこの瞬間に、自分はすべてを忘れさせてくれるお笑いに浸ってよかったのか――そんな思いに駆られてしまいました。

日本でもYouTubeなどの「辺境」ではオルタナティブな笑いを追究している人がいると思いますが、テレビという大舞台は完全に"密閉"されていて、芸人さんたちも「難しい話とお笑いは別物」「野暮(やぼ)なことは言わない」という価値観や美意識が強いように思います。世間から毒舌と言われるような人も含め、"本質的に不都合"なユーモアを口にすることはほとんどありません。

コンプライアンスが厳しくなって言いたいことも言えない、という声も聞きますが、それは今まで古い価値観のなかで許されていたいじりやいじめ、下ネタができなくなっただけ。典型的な議論のすり替えです。

それよりも、政治や社会に直接働きかけるような「笑い」を求めず、物足りなくてもテレビを見続ける視聴者と、その視聴者を当てにするスポンサーの存在ゆえ、芸人さんは予定調和の"許される笑い"だけを提供するように最適化してきたということかもしれません。

ただ、それが"業界の常識"になっていることはどう考えても不健全です。右派や左派の特定層だけに受けるためのパフォーマンスをSNSや情報番組で披露するごく一部の例を除いて、芸人という極めて特殊な職能を持った人が、内輪受けや予定調和の仕事に終始してしまうのは奇妙ではないでしょうか? 

例えばアメリカのスタンダップコメディアンは、いかなるタブーも"ネタ"として扱い、笑いに昇華し、受け手に何かを考えさせるような問いかけをする。古くは1950~60年代に活躍したレニー・ブルースがいるし、今回のウクライナ侵略に際しても、「中東や北アフリカの難民には冷淡だったのに白人難民はすぐさま支援する欧米社会」に鋭いツッコミを入れたコメディアンがいます。

僕が言いたいのは、日本と欧米で笑いの質や文化が違うとか、アメリカのコメディのほうがすごいという単純な話ではありません。「見たくないもの」「危ないもの」への興味や好奇心を駆り立て、通常の会話や議論ではなかなか向き合えない感情を誘い出すような笑いもあったほうがいい。

芸能界の「掟(おきて)破り」をする最初のひとりになる勇気は必要だと思いますが、こんなときくらいはせめてオルタナティブを提供して、多くの人を笑わせ、うならせ、考えさせてほしいのです。

●モーリー・ロバートソン(Morley ROBERTSON)
国際ジャーナリスト、ミュージシャン。1963年生まれ、米ニューヨーク出身。レギュラー出演中の『スッキリ』(日テレ系)、『報道ランナー』(カンテレ)、『所さん!大変ですよ』(NHK総合)ほかメディア出演多数。昨年はNHK大河ドラマ『青天を衝け』、TBS系日曜劇場『日本沈没―希望のひと―』への出演でも話題に!

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