現在では最後の三冠王となった、元ソフトバンクホークス・松中信彦が今春の現役引退後、ここまで語り尽くした!
ホークス黄金時代の礎(いしずえ)を築いた4番打者であり、“ラストサムライ”ともいえる野武士プレイヤーが、打撃を極めた栄光と怪我からの苦闘を激白した対談インタビュー第3回! 前回は三冠王獲得時を振り返り、そのプレッシャーと苦悩も明かしたが…。(聞き手/野球評論家・橋本清)
●第1回「 三冠王のプライドは全部もう消えてました」、第2回「『あの頃はバッティングを極めたと思いました』」参照
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橋本 それこそ歴代の三冠王とか、どうしても比べられて言われるもんな。
松中 でも最後はクライマックスシリーズで満塁ホームランも打てたんで。それだけであの時は前の苦しみがバーンと消えましたから。肩の荷が下りたっていうか…。
橋本 2011年の第2戦やね。代打で打って勢いついて、そのまま勝ち進んで。8年ぶりの日本一なってね。
松中 それまで背負って苦しんだ分、日本シリーズが楽しくてしょうがなかったですもん。なんか、ワクワク感がすごくて(笑)。そういうのは好ましくないのかもしれないですけど、自分が4番としてやらなきゃっていう思いが強かった時とも違って。代打でも、もう声援がすごいんで。
橋本 あるわな。俺も“勝利の方程式”いわれてリリーフで出た時のね、そりゃもう鳥肌立つもんな。逆にブーイングされるのもおるけど(笑)。
松中 それで逆に味しめたみたいなのもあって。もうこのへんで出してくれないかなとかワクワクして(笑)。
橋本 ある意味、19年間で一番思い出深い感じかね。
松中 印象に残ってるのはやっぱりあの満塁ホームランですね。こてんぱんに言われてたのが全部吹っ飛んで。
橋本 対戦したピッチャーとかライバルでいうとどう?
松中 勝負でいうと、(松坂)大輔から(ホームランを)3本打った時ですか。常に彼は真っすぐ勝負、力と力の勝負をしてくれたんで。全球MAXでブワーッとこられたら、もうたまんないですよ。ああいう勝負ってお客さんも喜んでくれるだろうし。
若いコにも中洲へ行ってほしいですね(笑)
橋本 キメはフォーク来よるかなとかはなかった?
松中 それで落とされたら、もうしょうがないなと。ダルビッシュ(有)君なんかはすごい頭いいコなんでね、カーブ投げたり、ここぞって時にスライダーとか。僕が狙ってるのを常に把握して外してきたりしますけど。
橋本 クレバーに裏かいて?
松中 でも、彼が1回だけ本気モードで力勝負してきたのがあって。150キロ連発されて、全球インコースに放ってきましたね。その頃、僕も落ち気味だったんで、やっと本気にさせたかなって。大輔と対戦した感覚が戻ってきてワクワクしましたね。
橋本 そうさせるものが向こうにもあったんやろね。
松中 なんかピッチャーとしての感情もあるんでしょうね。それは彼に聞くしかないけど…嬉しかったです。
橋本 でも、やっぱ変わらんね、松ちゅんは。野武士というか、もういないもんな、こういうサムライが。
松中 あんまりいないですよね。僕は全然変わらないです。
橋本 一瞬、酒断ちしてたことあるけど、すぐあかんかったやろ。中洲(なかす)も行って(笑)。
松中 酒はやっぱり我慢できませんでした(苦笑)。若いコにもね、中洲行ってほしいですけど。みんなサプリメントばっかりですから(笑)。
橋本 そやから早く指導者として戻ってね、厳しくいろいろ教えてもらわんと。いや、正直、ほんま礼儀とかでもぬるい感じあるし、松ちゅんならビシッと言うことは言ってね。最近、上の人間のほうが遠慮しがちやからな。
松中 嫌われたくないみたいな感覚はありますよね。野球界もサラリーマン化してるのかなと。もうちょっと精神的にも技術指導においても選手と真剣に向き合ってぶつかるべきかなとは思います。
橋本 今はちょっと外から勉強して、ゆくゆくはね…。
松中 なるべく早くそうなれるよういろんな引き出しを増やして。こればっかりはタイミングですけど、またユニフォーム着てやりたい、野球に携(たずさ)わりたいなと思います。本当に幸せな野球人生だったんで恩返ししたいですね。
橋本 また楽しみやね。ほんま今日はありがとう!
◆『週刊プレイボーイ』22号(5月16日発売)「松中信彦(元ソフトバンクホークス)独占インタビュー」より
●松中信彦(MATSUNAKA NOBUHIKO) 1973年生まれ、熊本県出身。新日鐵君津から96年、ドラフト2位で福岡ダイエーホークスに入団。2003年に初の打点王に輝くと、翌年には三冠王に輝く。06年にはWBC日本代表の4番として優勝に貢献。その後、けがで苦しみ二軍生活を経験、今春引退を発表
●橋本清(HASHIMOTO KIYOSHI) 1969年生まれ、大阪府出身。PL学園時に甲子園優勝。87年、ドラフト1位で巨人に入団。セットアッパーとして活躍、“勝利の方程式”と称されるが、けがのためホークス移籍後の2001年に引退。現在、評論などで活躍
(撮影/五十嵐和博)