プロ野球・日本シリーズでこの50年に起きた伝説の瞬間をふり返るシリーズ。
時代は昭和から平成へと移り、世の中の価値観も多様化する。球界でも巨人中心から12球団すべてが主役となり熱狂は全国各地へと広がっていった。
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【1993 ヤクルトvs西武】 ID野球で前年のリベンジ、ついに西武王国の牙城が陥落 野村vs森、2年続けて名将が激突
最後の打者、鈴木健を空振り三振に切って取ると、ヤクルトの守護神・高津臣吾は、両腕を高々と上げながら天空へ吠えた。15年ぶりの日本一。それは、西武黄金時代の終焉を告げる雄叫びでもあった。
1990年からヤクルトの監督に就任した野村克也は、データを駆使した「ID野球」を掲げて弱小チームの底上げに着手。92年に大混戦のセ・リーグを制して、日本シリーズで王者・西武に挑戦した。
ベテラン杉浦亨(とおる)の代打サヨナラ満塁ホームランや岡林洋一の熱投もあり、第7戦までもつれたものの惜敗。この敗戦で味わった悔しさをもって、翌93年のシリーズに再び挑んだ。
一方の西武は、前年本塁打王のデストラーデがメジャーリーグ復帰で抜けたが、ほかの主力は健在。盤石の戦いぶりでパ・リーグを制し、V4を狙う。
ともに捕手出身であるヤクルト・野村監督と西武・森祇晶(まさあき)監督の頭脳戦も注目されるなか、日本シリーズが始まった。
序盤はヤクルト打線が好調で、敵地・所沢で連勝スタートを切った。だが、第3戦は西武が取り返し、第4戦を迎える。
この日の神宮球場は、センターから本塁方向に時折強い風が吹いていた。ヤクルト先発の川崎憲次郎と古田敦也のバッテリーは、追い風を利用してストレート中心の配球を選択。強気の投球に腕がよく振れ、テレビ中継で解説していた前監督の関根潤三が、「こんなにストライクが先行する川崎は珍しい。なんだ、これは!?」と驚くほどの快投で西武打線に得点を許さない。
1-0とリードで迎えた8回表には、西武・鈴木健のセンター前ヒットでホームを狙った二塁走者・笘篠誠治(とましの・せいじ)を、センター飯田哲也の好返球で刺すスーパープレーも出て1点を死守。9回は高津が締めて、ヤクルトが王手をかけた。
だが、西武も負けじと、第5戦、第6戦を連勝。王者の底力で逆王手をかけ、勝負は前年に続いて第7戦へと突入した。
最終決戦は、初回にヤクルト・広沢克己が3ランを放つと、その裏の西武は清原和博の2ランが出る派手な幕開けとなったが、以降は3-2のまま投手戦へ。そして、8回表にハウエルのタイムリー二塁打で4-2と差を広げたヤクルトが、第4戦と同じく川崎-高津の継投で逃げ切り勝ち。悲願の日本一を果たした野村監督が宙を舞った。
この勝利以降、野村ヤクルトは95年、97年にも日本一となり黄金時代へ突入する。
逆に西武は、このシリーズ終了後に、生え抜きのスター選手・秋山幸二を含む3選手がトレードでダイエーへ移籍。森監督も翌94年限りで退任し、新たなチームづくりを模索していく。
“口撃”に怒り爆発、3連敗から大逆転
【1989 巨人vs近鉄】 シリーズ史上最大の舌禍事件。近鉄・加藤の後悔先に立たず “口撃”に怒り爆発、3連敗から大逆転
それまで、近鉄バファローズには「日本一」の栄冠はなかった。その夢まであと1勝というチャンスが10年ぶりにやって来た。
前年の「10・19」でリーグ優勝を僅差で逃したが、この年はブライアントの4打席連続本塁打などにより、王者・西武を倒して日本シリーズの舞台に立った。
その勢いのまま巨人に挑み、たちまち3連勝して一気に王手。
だが、だが、である。3戦目のヒーローインタビューで事件は起きてしまったのだ。この試合で好投した加藤哲郎が、
「まぁ、打たれそうな気ぃしなかったんで、大したことはなかったです」
今思えば、この発言で切り上げればよかったが……。初の日本一が見えた安堵(あんど)感からか、さらに「シーズンのほうがよっぽどしんどかったですかね。相手も強かったですし……」と発した言葉が記者の取材などを経た後、翌朝、「巨人はロッテよりも弱い!」という“挑発発言”として報じられてしまったのだ。
3連敗で意気消沈していた巨人ナインは、この報道を知って大いに発奮。第4戦で先発した香田勲男(いさお)がタテに落ちるカーブを駆使して近鉄打線を完封したことも追い風となり、勝負の流れは一気に巨人側へ傾いた。まさかの3連敗である。
迎えた最終決戦では、再び発言の“主”である加藤と対決。巨人は駒田徳広(のりひろ)の本塁打をきっかけに打線が爆発して、加藤をKO。試合は巨人が8-5で逃げ切り、逆転日本一に輝いた。
近鉄が3連勝したときから、近鉄百貨店は「優勝セール」の準備に追われたが、記念のV商品は世に出ることはなかった。
仰木マジックにイチローも奮闘
【1996 オリックスvs巨人】 オリックスが前年の被災地、地元・神戸に捧げる復興祈願V 仰木マジックにイチローも奮闘
6400名を超える犠牲者を出した阪神・淡路大震災に見舞われた1995年。オリックスは、「がんばろうKOBE」を合言葉にチーム一丸野球で快進撃を続けた。仰木彬(おおぎ・あきら)監督の采配もさえわたり、オリックスとなって初めてとなるリーグ優勝を果たし、被災地・神戸に勇気と希望を与えた。
しかし、ヤクルトとの日本シリーズでは、野村克也監督の「ID野球」の前に敗退。この年、首位打者と打点王の二冠を獲得したイチローも完全に封じられた。96年は、その雪辱を胸に再び上ってきた大舞台である。
一方の巨人は、今年の日本ハムと同様、最大11・5ゲーム差をひっくり返す「メークドラマ」でリーグ優勝を実現した。この奇跡を演出したのは“ミスター”こと長嶋茂雄監督。そして、打線には38本塁打を記録した若き主砲・松井秀喜がドカッと腰を据える。日本シリーズは「仰木vs長嶋」「イチローvs松井」の対決も注目された。
戦いの流れを決めたのは初戦だった。8回までに3-1とリードしたオリックスは、9回裏に巨人の代打・大森剛に同点2ランで追いつかれ延長戦となるが、イチローが10回表に東京ドームのライトスタンドへ会心の決勝アーチを放つ。オリックスは、ここから一気に3連勝して王手をかけた。
そして、最後の2戦は、「仰木マジック」が炸裂(さくれつ)する。まずは、勝てば日本一が決まる第4戦。先発に指名したのは、シーズン終盤に5試合だけ先発を経験しただけのサイドスロー豊田次郎。結果的にオリックスはこの試合に敗れたが、予想外の起用に、この日先発マスクの高田誠さえも度肝を抜かれたという。
第5戦は試合中に「マジック」を披露した。オリックスが5-1でリードの4回1死一、三塁の場面。巨人・井上真二が打ったセンターへのライナーを本西厚博が地面すれすれでキャッチした打球がヒットと判定されると、仰木監督は猛抗議。だが、実はこれはリリーフ投手を準備させるための時間稼ぎで、10分ピッタリで抗議を終えると、その間に肩をつくった伊藤隆偉(たかひで)が後続をピシャリ。8回からは、このシリーズで松井秀喜を完全に封じた野村貴仁につなぎ、最後は鈴木平(たいら)が締める必勝リレーで、オリックスが日本一を決めた。
MVPは、助っ人のニール。17打数3安打、打率.176ながら、3本のヒットがいずれもタイムリーで6打点。集中打でソツなく得点したオリックス打線を象徴する効率的な活躍だった。
敗れた巨人は、松井の沈黙に加え、斎藤雅樹、ガルベスのダブルエースも未勝利。さしもの長嶋監督の「動物的カン」も通じなかった。
★続編⇒『夢のON対決に史上最大の下剋上!プロ野球・日本シリーズ伝説の瞬間「熱狂!平成編2」』
(文/キビタキビオ 谷上史朗 寺崎江月)