「トルシエは『恩人』。感謝しかない」と語る辻本茂輝選手 「トルシエは『恩人』。感謝しかない」と語る辻本茂輝選手

かつて、日本の代表チームが世界の頂点へあと一歩まで迫ったことがある。1999年、フィリップ・トルシエ監督率いるU-20日本代表がワールドユース選手権(現U-20W杯)で準優勝――20年前、「黄金世代」と称された面々が刻んだ伝説である。今、その舞台裏を振り返り、アジア杯に挑む森保ジャパンへのエールとしたい。

5日連続で主力選手たちのインタビューを配信。第4回目は辻本茂輝氏に聞いた。

■トルシエは"恩人"。感謝しかない

"フラット3"のセンターバックは、かなりやりやすかった。

僕は(ボールを)蹴る、止めるを含めて、基礎技術がほかの選手よりも劣っていたので、空中戦と対人の強さで生きていくしかなかった。(自分は)前に出て、人に行くので、中央のテッシー(手島和希)には「後ろ、頼むわ」って任せていたし、左サイドの(中田)浩二くんはうまくてなんでもできるから、「カバーだけ頼む」って言っていました。

とにかく、自分の良さを出すことだけを考えて、あとはラインコントロールを絶対にミスらないように気をつけていました。

開幕戦のカメルーン戦のときは、初戦のプレッシャーもあって「どうなるんかな」ってかなり不安だった。そうしたら、2点取られて負けたので、DFとしてすごく責任を痛感し、次のアメリカ戦に向けても相当なプレッシャーを感じました。

でも、そのアメリカ戦、続くイングランド戦と連勝。(小野)伸二をはじめ、前の選手が点を取ってくれて勝てた。攻撃は(後ろから)ボールを預けたら「あとは頼む」って感じで任せられるから、ほんまにすごかった。イングランド戦では失点も0で抑えられたので、これで「イケる」と思いましたね。

決勝でスペインには負けたけど、「(プロでも)センターバックやれるよ」っていう自信を持ち帰ることができた。

トルシエ監督独自の戦術となる「フラット3」の右サイドを任された辻本。強豪国の若きトッププレーヤーとも対峙し、強さと高さを駆使して封じ込めた トルシエ監督独自の戦術となる「フラット3」の右サイドを任された辻本。強豪国の若きトッププレーヤーとも対峙し、強さと高さを駆使して封じ込めた

トルシエ監督には感謝しかないです。ラインを上げるタイミングがズレたら「ノー」と胸ぐらをつかまれたり、頭をグイグイ回されたり......。今の時代なら、即アウトやろうけど、僕はひどいことされたとは思っていない。

目標のためにやっていたわけやし。それに、この"フラット3"が自分の守備のベースになったので、むしろ「この人がおらんかったら......」というぐらいの"恩人"です。

自分のサッカー人生は、このワールドユースがピークでした。この大会をきっかけにしてもっとステップアップしていくべきやったけど、(当時の)自分の所属チーム(京都パープルサンガ)ではうまくいかなかった。

ワールドユースのようなサッカーができないことにストレスを抱えて、自分はエラそうなことを言える(立場の)選手じゃないのに、チームメイトにいろいろと要求していた。たぶん、「あいつは何言ってんのや」って思われていたと思います。

でも一度、あのチームのサッカーの味を知ってしまったら、またやりたいと思うんですよ。すべてが"阿吽の呼吸"でサッカーができていたし、負ける気がしなかった。僕は引退するまで、このチームよりも楽しいサッカーに出会うことはなかったですね。

★加地亮「自分の考えを持っている"おっさん集団"だった」~ザ・黄金世代 日本サッカー伝説の瞬間【5】

●辻本茂輝(つじもと・しげき)
1979年6月23日生まれ、大阪府出身。サッカー指導者。近大付高→横浜フリューゲルス→京都パープルサンガ→徳島ヴォルティス→佐川印刷(JFL)→FC大阪(大阪府社会人1部)

■『週刊プレイボーイ』3・4合併号(1月4日発売)『ザ・黄金世代 日本サッカー「伝説の瞬間」』より