「『黄金世代』と言われるメンバーに入って、その記録を打ち立て、一緒に戦えたことは本当に運が良かったし、今でも誇りに思っています」と語る酒井友之氏

1999年、フィリップ・トルシエ監督率いるU-20日本代表がワールドユース選手権(現U-20W杯)で準優勝した。世界の頂点まであと一歩――20年前、「黄金世代」と称された面々が刻んだ伝説である。

その激闘を主力選手たちが振り返る短期連載「ザ・黄金世代」。今回は、酒井友之(さかい・ともゆき)氏が登場!

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ワールドユース本大会から右のアウトサイドで起用されるようになったんですが、最初はいやでした。アジアユース(ワールドユース予選)のときはボランチとして試合に出ていたので、「なぜ?」という感じでした。

右アウトサイドに入って、トルシエ監督からまず要求されたのは、守備のバランスです。中盤のエリアでは、本山(雅志)の左サイドが攻撃的なので、僕が内に絞って守備をしなければいけなかったですし、「フラット3」は最終ラインがDF3枚のため、僕が下がって4バックになることが多く、状況に応じて守備をする必要がありました。

あとは、運動量ですね。本山がいる左サイドで相手を引きつけて、サイドチェンジをするときは、(逆サイドの)僕がタイミングよく上がってボールを受けて、クロスやシュートまで持っていく。

長い距離を上下動するのは暑くて厳しかったけど、タレントぞろいのチームで、技術やスピードがない僕が生きていくためには、読みや気の利いた守備、運動量......そういう部分で勝負するしかなかったですね。

決勝まで行けたのは、ポルトガル戦での勝利が大きかったと思います。決勝トーナメントに入って最初の試合で、非常に苦しい試合になりましたけど、最後は相手GKが負傷退場するなか、PK戦にまでもつれ込んだゲームを勝ち切ることができた。

この勝利でチームがひとつになって、勢いがついた。「自分たちの力は世界でも通用するんだ」「上に行ける力があるんだ」って、実感することができたんです。

慣れない右アウトサイドで起用されるも、攻守に活躍して日本の躍進に貢献した酒井友之

決勝戦では、朝の散歩の途中で急遽(きゅうきょ)2時間も練習して、昼寝の時間も十分に取れず、体が重かった。補食も、それまではおにぎりとかうどんが出ていたのに、バナナとシリアルだけ。

普段どおりに臨んだとしても、スペインには勝てなかったかもしれないけど、できれば100%の準備をして決勝戦を戦いたかったですね。

準優勝というのは、勢いもあったし、自分たちが持っている力以上のものを出せた結果だと思います。でも、僕はもう一回やり直しても、決勝まで行ける自信がありました。そのくらいチームに力を感じることができたし、みんな、自信を持っていましたから。

あれから20年たった今も、ヤット(遠藤保仁)や(小野)伸二らをはじめ、一緒に戦った面々が現役を続けている姿を見ると、あらためて「あのチームの選手は能力が高い集団だったんだな」と思います。

しかも(FIFA主催の男子の大会で)世界2位という記録はいまだに破られていない。「黄金世代」と言われるメンバーに入って、その記録を打ち立て、一緒に戦えたことは本当に運が良かったし、今でも誇りに思っています。

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●酒井友之(さかい・ともゆき)
1979年6月29日生まれ、埼玉県出身。浦和レッズジュニアユースコーチ。ジェフユナイテッド市原ユース→ジェフユナイテッド市原→名古屋グランパス→浦和レッズ→ヴィッセル神戸→藤枝MYFC(静岡県社会人1部)→ペリタ・ジャヤFC(インドネシア。以下同)→ペルセワ・ワメナ→ペリシラム・ラジャ・アンパット→デルトラス・シドアルジョ