「『黄金世代』の面々は、昔も今も仲間であり、いいライバル」と語る中田浩二氏

1999年、フィリップ・トルシエ監督率いるU-20日本代表がワールドユース選手権(現U-20W杯)で準優勝した。世界の頂点まであと一歩――20年前、「黄金世代」と称された面々が刻んだ伝説である。

その激闘を主力選手たちが振り返る短期連載「ザ・黄金世代」。今回は、中田浩二氏が登場!

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センターバックを任されたのは、大会の2ヵ月前でした。(それに対して)抵抗はなかったです。アジアユース(ワールドユース予選)では試合に出られなかったので、試合に出られるのなら、ポジションへのこだわりはありませんでした。

センターバックは初めてなので、最初はトルシエ監督に「ラインをそろえろ!」「相手が前を向いたときは(間合いを)3m空けろ!」とか、かなり厳しく指導されました。大会前は「この守備で通用するのかな」って不安があったけれど、2戦目のアメリカ戦に勝って、守備への手応えをつかみました。

大会でポイントになった試合は、(決勝トーナメント1回戦の)ポルトガル戦です。

ポルトガルは(相手が日本ということで)余裕を持ってメンバーを落としてきたけど、点を取られてから、慌てて選手を入れ替えてきた。その結果、交代枠を使い切って、GKが負傷退場した後、10人で戦うことになってしまった。

結局、PK戦までもつれましたが、そのPK戦を制して「自分たちはもっと上に行ける」と思ったし、チームにも勢いがつきましたね。

準決勝以上の開催地となるラゴスに入って、この大会でブラジルを指揮していたジョアン・カルロス監督(1996年~1998年の夏まで鹿島アントラーズを指揮)に会いました。僕が(当時所属の)鹿島に入って(プロとして)初めて試合に出たときの監督だったので、感謝の言葉を伝えつつ、少し話をしました。

その際、ジョアン・カルロス監督から「(日本と)試合をするのが楽しみだ」と言われたんですが、(ブラジルには)ロナウジーニョとかいたので、内心では「ブラジルとやるのはきついな」「できれば、やりたくないな」って思っていました。そうしたら、ブラジルが準々決勝でウルグアイに負けてくれたので、正直ホッとしましたね。

初めてセンターバックを任されるも、攻守に安定したプレーを見せた中田浩二

国際大会では、こうした"運"も必要です。でも、決勝のスペイン戦では、運も何も通用しなかった。(小野)伸二が出場停止になり、誰が代わりに出場するのかわからないまま、急遽(きゅうきょ)ウジくん(氏家英行)が出ることになって、(チームとしてどう戦うのか)微妙な空気に包まれたまま試合に入ってしまったんです。

思えば、2002年日韓W杯(の決勝トーナメント1回戦)のトルコ戦のときも同じでしたね。ヤナギ(柳沢敦)がケガをして、いきなりアレックス(三都主アレサンドロ)が先発することになって、なんとなくモヤモヤした状態のまま試合に入ってしまった。

どちらの試合も負けたけど、ワールドユースではあと一歩で優勝だったので、「もったいなかったなぁ」と思います。

同世代に、伸二をはじめ、あれだけの選手がそろったのは奇跡ですし、その中に自分がいられたのもそう。1年早くても、1年遅くても、一緒にプレーできなかったと思います。

そういう意味では、自分には運があったし、伸二たちに追いつき、追い越そうと思ってやってきたから、僕は自分が思っていた以上のキャリアを残せました。

「黄金世代」の面々は、昔も今も仲間であり、いいライバル。これからも立場は違うけど、常に競い合う関係でいたいですね。

稲本潤一「スペインとの差を痛感して、"世界"というものを初めて意識した」~ザ・黄金世代 日本サッカー伝説の瞬間【最終回】

●中田浩二(なかた・こうじ)
1979年7月9日生まれ、滋賀県出身。2014年シーズン限りで現役を引退し、2015年より鹿島アントラーズのクラブ・リレーションズ・オフィサー(C.R.O)に就任。帝京高→鹿島アントラーズ→マルセイユ(フランス)→バーゼル(スイス)→鹿島アントラーズ