「暴れまっせぇ、ホンマに! 楽しみにしといてください! 新しい野球というものをつくっていきますので! 乞うご期待!」――。ド派手な就任会見をそう締めくくった北海道日本ハムファイターズの新監督、いや、"BIGBOSS"。日本中を再びとりこにした新庄剛志(しんじょう・つよし)が監督就任までの舞台裏、"新庄劇場 監督編"の構想を前編記事に続き独占告白!!(全3回/2回目)

また、北海道日本ハムファイターズ監督に電撃就任し、15年ぶりに野球界へ帰ってきた"BIGBOSS"新庄剛志が、50歳の誕生日を迎える来年1月28日に、自身初の日めくりカレンダー「まいにち、楽しんじょう! 新庄剛志の開運BIGBOSS語録」を発売する。

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■作戦面で失敗しても、「俺のマイナス査定だから選手の評価は絶対に下げないで」と球団に言う

――会見では、昨年のトライアウト直前に日本ハム関係者から届いた一通の激励メールを見て、「必ず何かあると勝手に信じて、1年間、12球団の選手のプレーを勉強した」と語っていました。具体的にどんな勉強をしたんですか?

新庄 CS放送を契約して12球団の1軍と2軍の試合を毎日見てた。特に日ハムをね。だいたい120試合ぐらいは見たんじゃないかな。2軍の選手を見るために球場にも何回か行ったね。

――試合を見るときはどこに注目するんですか?

新庄 ボールを捕りにいくときの足の運びとか、スタートの遅さとか。「この選手はこういう捕り方してんな。俺が監督になったら、こういう捕り方をさせればうまくなるな」って見ながら思ってた。

――テレビで試合を見るだけでそんな細かいところまでわかるんですね。

新庄 テレビ画面で見る画と、俺がプロ野球に入って17年間守ってたセンターから見る画が一緒なの。だからすべてわかる。バッターなら1、2打席見たら、見逃し方とかタイミングの取り方とかで「この選手は大丈夫だな」ってわかる。ピッチャーでも、「ちょっと肩の開きが早いな」とか「足のステップの幅が違うな」とか「もうちょっと股関節を柔らかくしたら腕のしなりが速くなるな」とか。

ずっとセンターを守ってきたから、そういう見る目が自然と身についちゃってるんだよね。「このピッチャーは調子いいな。だったらバッターは振り遅れるから逆方向に飛ぶだろうな。じゃあ外野は極端にライト方向寄りにして、ファウルゾーンのボールも捕らせよう」とか、そういう計算はすぐにできちゃうのよ。

――現役時代からそういうことを考えていたんですね。

新庄 俺が日ハムに来た2004年、当時まだ1軍にほぼ上がったことがなかった小田(智之)君を練習で見て、「こいつ、いいわ」と思って。

それで開幕戦前日にヒルマン監督の部屋に行って、「明日のスタメンに小田君を使ったら勝つよ」って言ったのよ。それで8番DHで使われて小田君は活躍したし、結局、そのシーズンは3割以上打ったから。

――さすがの慧眼(けいがん)ですけど、選手時代に監督へ助言していたのも驚きです。

新庄 「チームが勝つためにはどうしたらいいか」を選手ながらに俺はずっと考えてたから。だから、ヒルマンによくアイデアを出してたの。もちろん、ダメって言われるときもあったよ。ヒルマンも最初は「なんやこいつ、何を監督に言うてんねん」って感じだったけど。

でも、俺が薦めた選手が続けて活躍したら、今度はヒルマンから「今は誰がいいと思う?」って言われて。「この選手がいい」って俺が推した選手が必ず当たるのよ。そのときの経験があったから、「監督になってもやっていけるんじゃないか」って自信につながった部分はあるね。

――ヒルマン監督の采配から学んだことはありますか?

新庄 誰に対してもバントをさせるし、誰に対してもヒットエンドランを出してた。まあ、セギノールだけはいいバッターだったし、バントがへただったから出してなかったけど。彼のときぐらいじゃないかな、思い切った作戦を取ってなかったのは。

――新庄監督は4番打者でもバントのサインを出します?

新庄 当たり前やん。だって、バントって成功したら打率は下がらないんやから。でも、もし作戦面で失敗したとしても、そのときは「これは僕のマイナス査定なんで、選手の評価は絶対に下げないでください」って球団に言う。そのことも事前に選手に伝えるし。

――そこの責任を監督が取ってくれたら、選手も指示を受け入れやすいでしょうね。

新庄 そうしないと選手がかわいそうじゃない? あ、そもそも4番は日替わりだからね。それも選手全員に事前に言っとく。

後編(全3回/3回目)記事へ続く

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●新庄剛志(しんじょう・つよし) 
1972年1月28日生まれ、長崎県出身。1990年、西日本短期大学附属高校からドラフト5位で阪神タイガースに入団。2001年、日本人初の野手FA選手としてMLBに挑戦。2001年から2003年までの3シーズン、ニューヨーク・メッツ、サンフランシスコ・ジャイアンツで活躍。日本人初のメジャー4番、日本人初の満塁本塁打、日本人初のワールドシリーズ出場など、記憶に残るプレーでファンを沸かせる。2004年、北海道日本ハムファイターズに入団。今や伝説となった数々のパフォーマンス、コメント、プレーで常に話題を提供。かねての夢であった「札幌ドームを満員にする」という目標を達成し、日本ハムが44年ぶりの日本一に輝いた2006年に引退。その後、インドネシア・バリ島で暮らし、2020年に15年ぶりの現役復帰を目指してプロ野球12球団合同トライアウトに参加。2021年10月、北海道日本ハムファイターズの監督に就任