1996年5月7日、ファンに取り囲まれた、王監督とダイエーナインを乗せたバス。2日後の9日にも再びファンに包囲され、生卵が投げつけられた(写真/共同通信社) 1996年5月7日、ファンに取り囲まれた、王監督とダイエーナインを乗せたバス。2日後の9日にも再びファンに包囲され、生卵が投げつけられた(写真/共同通信社)

【新連載・元NPB戦士の独立リーグ奮闘記】
第1章 高知ファイティングドッグス監督・吉田豊彦編 第7回

かつては華やかなNPBの舞台で活躍。現在は「独立リーグ」で奮闘する男たちの野球人生に迫るノンフィクション連載。第1章は、南海・ダイエー、阪神、近鉄、楽天を渡り歩いた鉄腕で、現在は高知ファイティングドッグスの指揮官としてチームを優勝に導いた「トヨさん」こと吉田豊彦氏に密着する。

■王監督が「勝率5割のピッチャーは要らない」と......

1994年シーズンを最後に根本陸夫氏がダイエーの監督を退任。1995年シーズンからは新たに王貞治氏が就任することになった。トヨさんは、「物心がついて野球を始めた頃から、王さんのファン」だったという。

「王さんの一本足打法はよく真似をしていました。純粋に嬉しかったですよ。実際、お会いしても思った通りの優しい方で、いつも気遣ってくれました。でも、試合になると『全試合勝つ』という勝負師の顔に変わりました」

ダイエーは王新監督の誕生に合わせ、工藤公康、石毛宏典という、秋山幸二に続く常勝西武のスター選手を獲得。助っ人には長打力が売りの大物メジャーリーガー、ケビン・ミッチェルも入団するなど前シーズンに続く大型補強を断行した。

Aクラス入り、優勝争いを期待された王ダイエー。しかし、いざシーズンが始まると、4月こそ14勝9敗と開幕ダッシュに成功したが、5月以降は離脱者が続出した。期待されたミッチェルもケガを理由に無断帰国しそのまま退団するなど、一時は開幕スタメンの半数がいなくなる異常事態に陥る。

2年目の小久保裕紀が本塁打王のタイトルを獲得するなど、チーム打率はリーグ2位と健闘したが、チーム防御率はリーグワーストと投打が噛み合わず、前シーズンより順位を下げて5位に終わった。前年はキャリアハイの12勝と飛躍したトヨさんも、8勝8敗と成績を下げた。

「シーズン終了後、王監督はミーティングで、『(勝率)5割のピッチャーは要らない』と仰いました。『えっ!? それって俺のことやんか』と思いながら話を聞いていました(苦笑)。苦しかったですね、毎日、もがいている時期でした」

■暴走したファン300人がバスを取り囲む

王監督2年目の1996年シーズンは、リリーフエースの下柳剛を放出し、日本ハムから武田一浩を獲得。先発の軸は前年の「工藤(先発22試合/チーム2位)・吉田(先発24試合/チーム1位)」から「工藤(先発29試合/チーム1位)・武田(先発26試合/チーム2位)」という二本柱に変わった。雪辱を誓った王ダイエーだが、4月は7勝16敗と開幕ダッシュに失敗し、5月以降も不振が続いた。

そんな中で「あの事件」は起きたのだった。

5月9日の近鉄戦(日生球場)で敗れた試合後、不満を爆発させて暴走したファン300人がチームバスを取り囲み、王監督や選手めがけて生卵をぶつけた。この試合で先発していたのは、トヨさんだった。

「王さんに対しては『申し訳ありません』のひとことです。ファンも『これだけ我慢しているのに』という気持ちが爆発したのかもしれませんが、ひどいものでした。試合中から異様な雰囲気でした。『王、代われ!』みたいな横断幕が掲げられていたり、試合終了後にファンが乱入し、スタンドからは発煙筒が投げ込まれたりもしました。

生卵はバスに乗る前から投げつけられて、僕にも当たりました。黙ってバスに乗りましたが、内心は『本当にファンなのか、ふざけるな!』と言い返したい気持ちでした。王監督は冷静でした。『われわれは福岡に戻って、恩返しするしかない。この悔しさを忘れないようにしよう』と皆に話されていました。バスのフロントガラスにへばりついた生卵を、運転手さんがワイパーで流して出発した景色はよく覚えています」

この「生卵事件」以降、チームは6月、7月と連続で勝ち越して最下位を脱出し、Aクラス入りも見えてきた。しかし、終盤に4勝14敗と大きく負け越したのが響いて、再び最下位に沈み、そのままシーズンを終えた。トヨさんも不振に陥り、1勝3敗、防御率5.01というプロ入り以来最低の成績に終わった。

翌1997年シーズンは、それまで正捕手だった吉永幸一郎が指名打者になり、3年目の城島健司が正捕手に起用された。右の小久保、左の吉永という左右の大砲が活躍してチームを牽引し、7月までは3位と好調で20年ぶりのAクラスも見えてきた。しかし、8月は6勝18敗1分と大きく負け越すなど夏場以降は失速し、最終的に日本ハムと同率の4位(63勝71敗1分)でシーズンを終えた。

同年、トヨさんは先発ローテーションから外されて中継ぎに回った。しかし、登板数は27と少なく、防御率も6.14と結果を残すことはできなかった。入団3年目に左肩を痛めて以降、完治しないまま騙し騙し投げ続け、主力投手として一定の成績を残してきた。しかし、酷使し続けた身体の疲労も重なり、この頃は自分本来の投球を完全に見失ってしまっていた。

「(この年)初めてマウンドで、緊張で足が震える経験をしました。プロならこんなことは思ってはいけないのですが、自分に自信がないことがわかっていた。でも、2軍に落ちたくない自分もいる。そして、2軍でも結果は出せないだろうな、と思っていました。自分の球が投げられないことは、自分が一番よくわかっていました。

投げても力が入らない、ポイントに力が集まらない、腕が振れない。腕を振ろうと思えば思うほど、どんどんバランスを崩していきました。甲状腺の病気もして、体重は10kg落ちました。

真ん中に投げたら打たれると思って、四隅をついてボールになり、結果的に苦し紛れに投げた球をカーンと打たれ、また打たれるのが嫌だと思って四球を出して、という繰り返しでした。野球人生で一番きつかった時期です。自分が情けなかった。マウンドに上がっても、ファンからは『吉田、代われーっ!』『おまえなんか、もう出てくるなーっ!』と野次られていました」

現在は四国アイランドリーグplus・高知ファイティングドッグス監督として指揮を執る吉田豊彦氏 現在は四国アイランドリーグplus・高知ファイティングドッグス監督として指揮を執る吉田豊彦氏

■自分は今季、戦力に入っているのか

翌1998年シーズン、トヨさんは背番号を「11」から「18」に変えて心機一転を図った。しかし、開幕から1軍での登板機会はなかった。

「成績も低迷していたので、おそらく王監督は、自分のことは戦力として見ていないのではないかと思いました。2軍で結果を出しても、1軍に昇格することもありませんでしたし。

追い込まれていましたし、何をして良いのかもわからない。それで、まず2軍監督だった石毛さんに相談しました。『自分は今季、戦力に入っているのかどうか』と。石毛さんの答えは『入っていない』でした。石毛さんには、『チャンスをいただけるのであれば、他の球団でやらせていただけませんか』と話しました。

最後は腹を括って、(フロントの)根本さんにトレードを直談判しました。もしあのとき、根本さんにお願いしてトレードが実現していなかったら、おそらく自分の現役生活はそこで終わっていたと思います」

シーズン途中の5月、トヨさんは12年間過ごしたホークスを退団し、金銭トレードで阪神に移籍することが決まった。

戦力構想からは外されたものの、王監督に対する憧れや尊敬の気持ちは変わらなかった。

「勝負に対する厳しさを教えてくれた監督です、間違いなく。優勝するためには何が必要か、ということを学びました。ホークスを離れてからも、球場で会えば必ず挨拶に行きました。近鉄に移籍したとき、球場でお会いして挨拶に行くと『がんばっているな』と激励していただきました。もうこの頃のホークスは常勝軍団で、王者の風格というか、かつての西武ライオンズを彷彿させるような雰囲気がありました」

移籍した阪神の監督は吉田義男氏だった。吉田氏は当時3度目の阪神監督就任。1985年には、「3番・バース、4番・掛布、5番・岡田」のバックスクリーン3連発に象徴される強力打線を武器に、球団史上唯一の日本一を達成した監督だ。新たな指揮官の下、トヨさんは途中入団ながら44試合に登板した。

「防御率(5.19)は悪かったですけど、しゃかりきに投げていました。中継ぎだけではなく、先発のチャンスもいただきました。それで、シーズンオフから身体のメンテナンス方法を見直して、新たなトレーニングにも取り組み始めました。ホークス時代は、ひたすらランニングと、せいぜい体幹トレーニングだけでしたが、初めて器具を使ったウェイトトレーニングを始めました。

ウェイトトレーニングと新たなメンテナンス方法を並行して取り入れると、翌1999年シーズン開幕前のキャンプくらいから、徐々に自分の投球感覚が蘇ってきました」

今ではプロばかりか、アマチュアでも当たり前のように取り組む、器具を使ったウェイトトレーニングだが、当時は「たくさん走って、投げて、バットを振って鍛える。プロなら限界まで追い込んで、壊れたらそれまで」という考え方が主流だった。当時のトレーニング方法や根性論はすべて否定されるものではないが、故障を抱えたままプレーしたり、誤った知識の練習を続けたせいで引退に追い込まれた選手も少なくなかった。

プロ野球界で、科学的なトレーニングやメンテナンスに取り組んだ第一人者が、工藤公康氏だった。トヨさんも当時、そうした工藤氏の取り組みを体験する機会があった。

「一度、選手何人かで、(茨城県)鹿島まで工藤さんの自主トレに同行させていただいたことがありました。筑波大学の白木仁先生(筑波大学教授。日本のスポーツ医学の先駆者でさまざまなアスリートをサポート)の下で、実際にトレーニングをしたり、パフォーマンス向上やケアに関するお話を伺ったりしました。

ただ、自分が同行させていただいたときは1月で、工藤さんはすでにメニューをこなして仕上がった状態なので、トレーニングはあまりやらない。われわれには見せてくれなかったですけどね。陰で努力している人なんですよ。『ずるいな』と思いました(笑)。

当時はそのことをよく理解していなくて、『なぜ工藤さんはやらないのに、自分たちにはやらせるのか』と思い、『これはついていけないな』と思いました。自分は自分で、毎年(沖縄県)宮古島で自主トレをしていたので、結局、そのとき限りで辞めてしまいました、情けないですが。『工藤さんからもっと学んでおけば良かった』と今では後悔しています(苦笑)」

ダイエーから阪神に移籍し、新たなメンテナンスとトレーニングの成果でようやく復活の兆しが見え始めた翌1999年シーズン。吉田氏に代わって阪神の新監督に就任したのは、トヨさんにとっては南海ホークスの大先輩でもある名将、野村克也氏だった。

●この続き、第8回「吉田豊彦が名将・野村克也から学んだ『内角球論』と『25分割の野村スコープ』」はこちら。

■吉田豊彦(よしだ・とよひこ) 
1966年生まれ、大分県出身。国東高校、本田技研熊本を経て、87年ドラフト1位で南海ホークス入団。南海・ダイエー、阪神、近鉄、楽天を渡り歩き2007年に引退。現役20年間で619試合に登板した「鉄腕」。楽天2軍コーチを経て、2012年シーズンより四国アイランドリーグplusの高知ファイティングドッグス投手コーチ。20年に監督に就任し、22年にはチームをリーグ年間総合優勝に導いた

■会津泰成(あいず・やすなり) 
1970年生まれ、長野県出身。93年、FBS福岡放送にアナウンサーとして入社しプロ野球、Jリーグなどスポーツ中継担当。99年に退社しライター、放送作家に転身。楽天イーグルスの創設元年を追った漫画『ルーキー野球団』(週刊ヤングジャンプ連載)の原作を担当。主な著書に『マスクごしに見たメジャー 城島健司大リーグ挑戦日記』(集英社)『歌舞伎の童 中村獅童という生きかた』(講談社)、『不器用なドリブラー』(集英社)など