阪神時代(1998年~2001年)の吉田豊彦氏。主に中継ぎを任されるも安定感に欠いたが、野村克也監督から学ぶことは多かったという(写真/産経ビジュアル) 阪神時代(1998年~2001年)の吉田豊彦氏。主に中継ぎを任されるも安定感に欠いたが、野村克也監督から学ぶことは多かったという(写真/産経ビジュアル)

【新連載・元NPB戦士の独立リーグ奮闘記】
第1章 高知ファイティングドッグス監督・吉田豊彦編 第8回

かつては華やかなNPBの舞台で活躍。現在は「独立リーグ」で奮闘する男たちの野球人生に迫るノンフィクション連載。第1章は、南海・ダイエー、阪神、近鉄、楽天を渡り歩いた鉄腕で、現在は高知ファイティングドッグスの指揮官としてチームを優勝に導いた「トヨさん」こと吉田豊彦氏に密着する。

■毎日1時間、2時間のミーティング

トヨさんにとって、復活の兆しが見え始めた1999年シーズン。阪神の新監督に就任したのは、野村克也氏だった。経験や勘に頼らず、データを重視したいわゆる「ID野球」を確立させ、弱小チームだったヤクルトをリーグ優勝4回、3度の日本一に導いた名将である。

「毎日1時間、長いときは2時間以上もミーティングをしました。『選手の前に社会人たれ』というのが大前提で、『社会人たるものは......』という話に始まり、『投手編』『野手編』と、それぞれのテーマの中で話されました。

『ピッチャーとしての心構え』『打者の見方』などたくさんありますが、当時、自分の中で一番心に響いたのは『内角球論』。インコースに攻める意味や効果、使い方について教えていただいたのですが、『内角に投げられない投手は、プロの世界でメシは食べていけないぞ』と言われたことが、自分の中ではものすごく響いて練習しました」

もうひとつ、技術的に大きな学びとなったのは、捕手の構えるミットを中心にコースを分割した「野村スコープ」だった。

「野村スコープ」は、もともとは野村氏がテレビ朝日の解説者だった1984年、視聴者に野球の面白さをわかりやすく伝えるため、ストライクゾーンを画面上に表示して投手の配球を予測するために始めた。今ではメジャーリーグ中継でも活用されるなど、広く知れ渡るものとなった。

一般的にはストライクゾーンを9分割したものが知られているが、当時トヨさんが野村氏から教えてもらったのは、ストライクゾーンの9マスに加え、外側の16マスも含めた「25分割」だった。

「今、高知FDの選手には、ストライクゾーンを真ん中からふたつに分けた2マスだったり、あるいは4マスに分けて、『しっかりとゾーンに投げ込め』という話はします。9マス、まして25マスも投げ分けられませんから」

現在、高知ファイティングドッグスで指揮を執る吉田豊彦氏。試合前、監督の吉田氏みずからトンボをかけてグラウンドを整備していた 現在、高知ファイティングドッグスで指揮を執る吉田豊彦氏。試合前、監督の吉田氏みずからトンボをかけてグラウンドを整備していた

野村氏が新監督に就任した99年、阪神は左の先発不足という課題を抱えていた。そんな事情もあり、過去に先発で2桁勝利3回の実績があったトヨさんは、14試合(チーム4位)に先発した。しかし、満足のいく結果は残せず、同シーズンは2勝8敗、防御率4.87という成績で終えた。名将・野村氏の就任で飛躍が期待されたチームも、前年に続いて最下位に沈んだ。

野村氏は、就任1年目のシーズンが最下位に終わった後、選手全員に反省文を書かせたという。丁寧に読み込んだ上で、余白や別紙に赤ペンで所感や来季に向けての課題を書いて全員に渡したそうだ。

しかし、翌2000年も首位巨人と21ゲーム差、5位広島にも8ゲーム差の最下位(57勝78敗1分)。3年目の2001年シーズンも、4月下旬から7連敗するなど、早くも6月には最下位が定位置となった。

■まさか阪神をクビになるとは

先発から再び中継ぎに転向したトヨさんも結果を残せず、2001年シーズンは2軍暮らしが続いた。それでも「焦りはなかった」という。

「2軍降格のきっかけになった試合も、守備のミスが原因で失点しました。野村さんからは『おまえ、運がないな』と言われて......。リズムに乗れなくなり、悔しさはありましたが、感覚自体は良かったし、調子も上向きでした。

2001年シーズンは、阪神はウエスタン・リーグで優勝しましたが、首位攻防戦や大切な試合は必ず、自分が任されて投げていました。本当に自分の力を出しきれない状態だったならば逆に焦ったかもしれません。でも、自分の力を出せる状態だったので、『上(1軍)で投げるチャンスさえいただければ』という気持ちでした。

なので、まさか阪神をクビになるとは思っていませんでした。ファームの日本選手権のメンバーに自分は入っていないと聞いたとき、『何かおかしいな』とは思いましたが、『活躍したのに投げさせてもらえないのか。若手主体で行くのかな』と思っていたくらいでしたから」

結果を残し調子が上向いていたとしても、チャンスが回ってくるかどうかわからないのがプロの世界の厳しさ。当時阪神の1軍中継ぎ陣は、伊藤敦規、遠山奬志、弓長起浩、葛西稔と駒は揃っていた。一度指定席から外れてしまうと、過去にどれだけ実績があったとしても、チャンスを掴むことは容易ではなかった。1軍登板はプロ入りしてから最低の8試合。勝ち星も初めて1つも付かなかった。

「当時は正直言って、野村さんのことやチーム全体のことまで心配するほど余裕はありませんでした。『自分はどうすれば、チームに貢献できるようになれるか』ということだけで精一杯でした」

同年9月、フロントから鳴尾浜にある2軍の寮に呼ばれたトヨさんは、1軍昇格のチャンスも与えられないまま、シーズン終了を待たずに戦力外通告された。そして、シーズン終了後、チーム再建を託された名将・野村氏も、「3年連続最下位」という不本意な成績で監督を辞め阪神を去ることになった。

同年11月6日、野村氏は社会人野球チーム、シダックス硬式野球部の監督兼ゼネラルマネージャーに就任し、プロ野球の世界からも離れることになった。この時点でトヨさんは、まさか5年後にふたたび野村氏と一緒に野球をすることになるとは夢にも思わなかったに違いない。

●この続き、第9回「アフリカ最貧国から高知へ。NPB目指すブルキナファソ初のプロ野球選手」はこちら。

■吉田豊彦(よしだ・とよひこ) 
1966年生まれ、大分県出身。国東高校、本田技研熊本を経て、87年ドラフト1位で南海ホークス入団。南海・ダイエー、阪神、近鉄、楽天を渡り歩き2007年に引退。現役20年間で619試合に登板した「鉄腕」。楽天2軍コーチを経て、2012年シーズンより四国アイランドリーグplusの高知ファイティングドッグス投手コーチ。20年に監督に就任し、22年にはチームをリーグ年間総合優勝に導いた

■会津泰成(あいず・やすなり) 
1970年生まれ、長野県出身。93年、FBS福岡放送にアナウンサーとして入社しプロ野球、Jリーグなどスポーツ中継担当。99年に退社しライター、放送作家に転身。楽天イーグルスの創設元年を追った漫画『ルーキー野球団』(週刊ヤングジャンプ連載)の原作を担当。主な著書に『マスクごしに見たメジャー 城島健司大リーグ挑戦日記』(集英社)『歌舞伎の童 中村獅童という生きかた』(講談社)、『不器用なドリブラー』(集英社)など