2020年シーズンから高知ファイティングドッグスに所属し、昨季は最多勝、最優秀防御率のタイトルを獲得。今年5月31日で29歳になる平間凜太郎にとって、今季はNPB入りのラストチャンスだ 2020年シーズンから高知ファイティングドッグスに所属し、昨季は最多勝、最優秀防御率のタイトルを獲得。今年5月31日で29歳になる平間凜太郎にとって、今季はNPB入りのラストチャンスだ

【新連載・元NPB戦士の独立リーグ奮闘記】
第1章 高知ファイティングドッグス監督・吉田豊彦編 第10回

かつては華やかなNPBの舞台で活躍。現在は「独立リーグ」で奮闘する男たちの野球人生に迫るノンフィクション連載。第1章は、南海・ダイエー、阪神、近鉄、楽天を渡り歩いた鉄腕で、現在は高知ファイティングドッグスの指揮官としてチームを優勝に導いた「トヨさん」こと吉田豊彦氏に密着する。

■「僕は本当に上(NPB)を目指せる選手なのか?」

「子供の頃から憧れていたNPBに入りたい、上を目指して野球がしたいという夢を叶えるために、社会人チーム(日本製鉄東海REX)を退団して高知に来ました。当時の監督に『REXを退団して独立リーグ球団のテストを受けます』と相談したときは、『なぜ辞めるのか。おまえレベルのピッチャーがNPBに入れるわけがない』とめちゃくちゃ怒られました。

自分の将来を心配しての忠告で、確かにその通りかも、と思うところもありました。当時すでに26歳。REXにいれば、引退後もグループ企業の正社員として仕事を続けられる保証もありました。でも当時はとにかく悔しくて、覚悟を決めるために、高知FDのテストを受ける前に会社には辞表を提出しました」

チーム最年長の平間凜太郎(ひらま・りんたろう)は今年5月で29歳。いわゆる「大谷世代」だが、NPB球団から調査書が届くなど活躍が目立つようになったのは、高知FDに入ってからという遅咲きの苦労人だ。

平間は2020、21年シーズンはクローザーとして2年連続最多セーブのタイトルを獲得。昨シーズンはNPBスカウトから「平間は1イニングしか投げられないのか」と指摘を受けたことをきっかけに先発転向。途中メキシカンリーグに移籍して2ヵ月ほどブランクがあったにもかかわらず、最多勝と最優秀防御率の二冠を獲得し、リーグMVPにも輝いた。

数字だけ見れば、藤井皓哉(ソフトバンク)や石井大智(阪神)、宮森智志(楽天)らの高知FD時代と遜色ない成績で、NPBにドラフト指名されていてもおかしくない。しかし吉報は届かず、今年独立リーガーとして4シーズン目を迎えた。

「石井も宮森も本当に頑張っていたので、(彼らがドラフト指名されたのは)純粋に仲間として嬉しかったです。もちろん自分が指名されなかった悔しさはありましたが、羨ましく思うよりも、『自分は野球選手としてどうすれば成長できるのか』と毎年目標を作りながら続けてきました。

ただ、高知に来て1年目(2020年)に最多セーブのタイトルを獲ったのに指名されなかったときは、野球自体を続けるかどうかで悩みました。『自分の好きな道を進みなさい』とわがままを許して応援してくれる両親にも相当心配をかけてきました。コロナ禍の影響で活動も制限され、先の見えない状況もありました。それで吉田監督に自分の思いを正直に打ち明けました。

『このまま野球を続けても、来年27歳でドラフト指名されるかどうかわからない。上を目指せないならもう野球はやりたくない』『僕は本当に上を目指せる選手なのか、上を目指すためにはどうすればいいか、教えてください』と相談しました」

トヨさんからは「もちろん上(NPB)に行けるだけの実力はある」と励まされたという。そして、「平間は1イニングのスペシャリストを目指せ。そのために変化球も覚えて安定した投球ができるようになることから始めてみては」とアドバイスされた。

「高知に来る前は、変化球ではストライクが取れなくて、最後はストレート一本で勝負するような投手でした。吉田監督にアドバイスをいただいてからは変化球の練習にも力を入れるようになり、2年目のシーズンからは『ナイアガラ・カーブ』も自由自在に決まるようになりました」

150km超えのストレート、フォーク、大きく曲がる「ナイアガラ・カーブ」が平間の武器(提供/高知ファイティングドッグス) 150km超えのストレート、フォーク、大きく曲がる「ナイアガラ・カーブ」が平間の武器(提供/高知ファイティングドッグス)

ナイアガラ・カーブは、平間の代名詞とも言える決め球だ。身長187cmという体躯を生かし、腕を頭上に伸ばした状態から縦に振り落として投げる様は、ナイアガラの滝を連想させるように豪快で、大きく曲がることからそう名付けられた。社会人1年目に体得したナイアガラ・カーブは高知FDに入団した後、トヨさんの指導でさらに磨きがかかった。

ちなみにラプソード(球の回転数や回転軸、球速を計測する機器。一般に回転数が多いほど球に揚力が働き、変化の落差が大きくなるといわれる)の測定では、NPB投手のカーブの平均回転数(2500)を大きく上回る3400回転を記録した。高知に来たばかりの頃からおよそ3000回転あったが、400回転も増した。今は150km超えのストレートとフォーク、そしてナイアガラ・カーブをバランスよく織り交ぜて三振を奪うのが平間のスタイルだ。

「吉田監督からクローザーの心構えとして、『1球目から全力で投げる準備をしなさい』と言われたことが印象強く残っています。クローザーは1イニングしか投げない分、1球1球にどれだけ魂を込められるか。そのための心や体の準備の大切さを学びました。NPBで先発も中継ぎも抑えも経験している吉田監督のアドバイスはとても心に響きました。技術的な指導ももちろん大きいですが、それ以上に、精神的な面の指導は今でも大きいですね」

■夜中にひとりでポール間走100本

代々開業医という家柄に生まれた平間は、野球好きの両親の影響で5歳からボールを握り始めた。幼少期の遊び道具といえばバットとグローブで、両親に買ってもらったストラックアウトの玩具に向かい、夢中で球を投げ続けた。

中学時代は世田谷リトルシニアで活躍し日本代表にも選ばれた。高校は山梨学院、大学は専修大学、社会人は日本製鉄東海REXと常に名門チームに所属。シニアリーグの日本代表では柳裕也(中日)、専大では高橋礼(ソフトバンク)など、現在NPBで活躍する選手とも一緒にプレーした。しかし平間自身は、高校卒業後はプロ入りの夢は遠のき、挫折を繰り返した。

「高校時代から140km台後半のストレートを投げていたので、スカウトが視察に来るような選手ではありました。でも調子に波があり、大学時代は4年生の春にようやく一度だけ規定投球回に達したくらいで、NPBから注目されるような選手ではありませんでした」

REX野球部では、1年目は主力投手として活躍し都市対抗野球にも出場し、再びNPB入りの可能性が見え始めたかに思えた。しかし徐々に居場所を失い、新入団選手に主役の座を奪われ、敗戦処理が主な仕事になった。

閑職に追いやられた理由――。それは野球選手としての能力とは別の理由による部分もあったのかもしれない。トヨさんはこんな話をしていた。

「普段はとても礼儀正しく真面目で素直な良い子ですが、野球に関する話題になると我が強すぎて、指導者の意見を受け入れられないこともある。社会人では指導者とぶつかってここ(高知)に来た。『状態は良いのに、なぜ自分を使ってくれないのか』ということで意見がぶつかったと本人からは聞きました。

平間にはそのとき、『使ってもらえない理由を考えたことはあるのか。まずは自分自身を冷静に分析しなさい。それができない限り成長しない。自分を変える努力を積み重ねる気持ちがあるならば、いくらでも協力する』と話しました」

高校時代、平間の生真面目な性格を物語るこんなことがあった。練習試合で都立の強豪、日野高校に負けたとき、投手として責任を感じた平間は誰に言われるでもなく、夜中にひとりでポール間走100本を何時間もかけて続けた。

自分はプロを目指すために東京を離れて山梨の私学の強豪に進んだ。それなのに都立に負けた――体を壊すほど自分を追い込むことでしか、昂(たかぶ)った感情を落ち着かせることができなかったそうだ。平間は「今思えば単なる自己満足に過ぎませんでした」と振り返る。

■「吉田監督と出会って、人としても変われた」

社会人選手という安定した立場を捨てて高知に来た1年目、新型コロナウイルスが流行し、グラウンドでの練習はもちろん、寮からの外出や部屋間の移動まで禁止された。平間は「なんのために会社を辞めて高知まで来たのか」と、先の見えない状況に恐怖心さえ覚え、2日間寝込んだそうだ。それでも「必ず再開できるはず」と自分に言い聞かせ、在宅でもできる取り組みを続けた。

生活リズムを崩さないために、必ず毎朝7時に起きて部屋の中でラジオ体操。朝食を摂った後、午前中は技術本を読んだり、ダルビッシュ有や大谷翔平、山本由伸といった一流投手のフォームをYouTubeの映像などで研究して過ごした。その研究をもとに午後からは、やはり部屋の中で体幹トレーニングや肩の動かし方といった鍛錬を重ねた。

「そういう生活を続けていたら、屋外練習はしていなかったのに球速が上がりました。社会人3年目のときは最速147kmでした。それが、屋外練習が再開されて投げたときにいきなり151kmが出ました。どれだけ厳しい環境でも目的意識を持って取り組めばパフォーマンスを上げることはできる、と気づかされました」

今年5月で29歳。NPB入りを目指す若い選手が中心の独立リーグのチームからは、本来は卒業しなければならない年齢だ。トヨさんがそれでも今シーズン、平間をチームに残した理由は、不器用でも本気で野球に取り組む姿勢や情熱を、若い選手に学んでほしいと考えたからだった。トヨさんは言う。

「皆、才能や可能性はあると思います。でも本気の覚悟を持って練習している選手は少ない。決められたメニューをこなすだけで、それ以上の練習をして『自分はこうなりたいんだ』というこだわりを感じない。ランニングひとつでも『絶対ここまでなったろう!』と思って必死に走る強さがないように思います。

決められた練習以外にも課題を持って必死に取り組んでいたのが、藤井であったり、石井であったり、宮森でした。そして今、彼らと同じことを実践しているのが平間なんです。確かにちょっとしたヘマはするけどやっていることは皆の手本になる。他の選手が雑談をしている間でも、あいつはひとりで黙々と走っていたりするわけですよ。

オフもすべて野球のために費やしている。『なぜみんな平間をお手本にしてやらないのか』と、何度か話したこともあります。『平間を見習え。自分で考えて積極的に動いているやろ。こういう準備は、NPBの選手はみんなやっている』と」

一昨年、トヨさんはサンフォ・ラシィナを新キャプテンに指名した際、サポート役の副キャプテンには平間を指名した。平間がトヨさんを野球人生最大の師と仰ぐように、トヨさんも平間の努力を認め、信頼を置いているのだ。

平間はメキシコから帰国後、佐川町の選手寮に空き部屋がなかったため、かつて藤井も暮らした、越知町にあるトヨさんの家の隣で生活している。

「野球だけではなく生活面も含めて、(チーム内で)僕が一番お世話になっています。遠征に行くときのバスは寮に着くので、そこまで吉田監督の車に乗せていただいたり。移動中の車中でいろいろアドバイスをいただいています。監督の奥様にもお世話になっていて、ビジターの試合が終わって高知に戻ると深夜になることもありますが、そういうときは奥様にご飯の準備をしていただいたりしています。

吉田監督はあれだけの実績を残されているのに誰に対しても謙虚。監督以前に人として素晴らしい。僕は思ったことをはっきりと口にしてしまう性分で、吉田監督にもずいぶん迷惑をかけてきました。でも、相談すれば嫌な顔をせずいつも話を聞いてくれます。

もちろん厳しいことを言われたりもしますが、頭ごなしに否定せず、最後まで話を聞いた上で『平間、それは違うと思うよ』という感じで諭してくれる。選手の気持ちを考えて、そこまで受け止めてくれる指導者と出会ったのは初めてでした。吉田監督と出会えたことで、僕自身、人としても大きく変われたように思います」

■「平間は『超』のつく野球小僧」

トヨさんに平間のNPB入りについて聞くと、「可能性はゼロではないが、厳しいことは事実」と答えた。それでも僅かな可能性に100%以上の努力を重ねる愛弟子を大きな心で見守り応援し続けている。

平間は2年連続で最多セーブ、昨年は最優秀防御率と最多勝のタイトルを獲り、MVPにもなったが、トヨさんは「それは彼の能力を考えれば、独立リーグのレベルであれば当然」と話した。それでもNPB入りが実現していない理由はなんなのか。

「NPBでドラフト指名されない理由のひとつは、もう少し落ち着きというか、どっしりした佇まいが欲しいというか......。昔は投げるたびにマウンドで叫んでいた。『それはみっともないからやめろ、プロでもそんな選手はいない』と話しました。

マウンドで自己陶酔することは大事ですが、あまり度が過ぎると冷静に状況判断ができなくなります。20歳前後だったら若さの勢いで許されるかもしれませんが、もうそういう年齢ではない。技術だけでなく、そのあたりの精神面で、今シーズン、どれだけ自分自身と向き合えて変われるかどうかでしょうね。

今シーズンも『タイトルを総なめにします』と宣言していました。心の中で思っていればいいことまで口に出してしまう。自分にプレッシャーをかける意味では良いとは思いますが、シーズンは長いですからね。今から力んでいたら最後までもたんよ(笑)。そこは平間の可愛らしいところでもありますけど(笑)。

ただ、高知に来た頃に比べればすいぶん成長しました。周りの意見を受け入れたり、柔軟に対応できるようにもなりました。トレーナーにいろいろな話を聞いたりとか、いろいろな情報を自分で仕入れたりとか、研究熱心で、本当に『超』のつく野球小僧。トレーニング方法など、われわれ指導者以上に知っていることもたくさんあります。

でも私生活はルーズなんです。部屋もグッチャグチャだし(笑)。そういえば、夜食を作って貸したままのどんぶり、まだ返してもらってないな。きっと借りたことを忘れていますね(笑)」

選手の気持ちを考えて、受け止めてくれる指導者――。平間はそんなトヨさんとの関わりで成長した選手を、自分以外にも知っていた。広島を戦力外になり高知に来た、藤井皓哉だ。平間は当時についてこう話した。

「藤井が高知に来たばかりの頃は自分の世界に閉じこもっているというか、僕ら選手とは壁があるようにも感じました。もともと口数が少ないこともありましたし、それだけNPB復帰にかける覚悟を持っていた証拠かもしれませんが。でも『あの日』を境に変わっていったように思います」

平間が教えてくれた、藤井が仲間に心を開き、同時に成長し始めた「あの日」。それはシーズン開幕前、香川大学との練習試合で打ち込まれた翌日だった。

「藤井は大学生相手にめちゃくちゃ打たれたんです。翌日、それまで休日は姿を見せなかった藤井が練習場に来て、吉田監督に『教えてください』とお願いして、マンツーマンでキャッチボールをしていました。

吉田監督からどんなアドバイスをされたのかは聞いていません。でも、その日をきっかけに投球内容もすごく変わりました。開幕1ヵ月後ぐらいからは無双していましたね。全然、投げるボールの質が違うし、投球内容もレベルが違いました。

『藤井ってこんな凄いピッチャーだったのか』と驚いたと同時に、『人ってきっかけひとつで、こんなに変われるものか』と学びました。あの日を境に、僕ら選手にも彼本来の姿を見せて、冗談を言い合えるような仲になりました。今も頻繁に連絡を取り合っています」

今シーズン、平間はふたつの目標を立てた。藤井が2年前に作ったリーグ新記録となった奪三振数(180)の更新と、155kmを超えるストレートを投げることだ。いずれも、NPB復帰後も図抜けた活躍を続ける藤井を意識した数字だ。

「例えば、29歳でも160kmのストレートを投げられる投手なら間違いなく指名される。防御率0.00の投手も絶対指名されると思います。過去にNPBのドラフトで指名されなかったのは、年齢の問題よりも、圧倒的なパフォーマンスに達していない自分の実力不足と受け止めています」

NPB入りへの挑戦はおそらく今シーズンが最後。今はラストチャンスに全力で取り組む日々だ。一方で、現役引退後のキャリアもぼんやり考え始めるようになった。

「引退後も何かしら野球に関われる活動ができればと考えています。僕の弟は知的障害を持っていて、話せないんです。それもあって、福祉関係の仕事にも興味があります。今もオフの活動で、障害児向けの野球教室に参加しています。

『野球選手は野球しかできない』と言われるのはすごく嫌ですし、野球選手以外の活動を通して、今後何をして生きていけばいいかヒントが見つかればと思っています」 

NPB入りは夢の途中。それはそれとして、29歳になるまでひたむきに努力し高いレベルで野球を続けてきたことは誇りに思っていいはずだ。挫折も苦労も遠回りも、必ず人生の肥やしになる。素直さと頑固さが共存した変わり者。しかし、どこか憎めない愛すべき野球小僧。そんなトヨイズムの申し子、平間凛太郎の「最後の挑戦」が始まった。

●この続き、第11回「阪神を戦力外になった吉田豊彦はなぜ近鉄で復活できたのか?」はこちら

■平間凜太郎(ひらま・りんたろう) 
1994年生まれ、東京都出身。山梨学院大学付属高校、専修大学、日本製鉄東海REXを経て、2020年から高知ファイティングドッグス。20、21年は2年連続で最多セーブ、先発に転向した22年は最多勝、最優秀防御率のタイトルを獲得し、年間MVPに輝いた。187㎝、97㎏。右投右打 

■吉田豊彦(よしだ・とよひこ) 
1966年生まれ、大分県出身。国東高校、本田技研熊本を経て、87年ドラフト1位で南海ホークス入団。南海・ダイエー、阪神、近鉄、楽天を渡り歩き2007年に引退。現役20年間で619試合に登板した「鉄腕」。楽天2軍コーチを経て、2012年シーズンより四国アイランドリーグplusの高知ファイティングドッグス投手コーチ。20年に監督に就任し、22年にはチームをリーグ年間総合優勝に導いた 

■会津泰成(あいず・やすなり) 
1970年生まれ、長野県出身。93年、FBS福岡放送にアナウンサーとして入社しプロ野球、Jリーグなどスポーツ中継担当。99年に退社しライター、放送作家に転身。楽天イーグルスの創設元年を追った漫画『ルーキー野球団』(週刊ヤングジャンプ連載)の原作を担当。主な著書に『マスクごしに見たメジャー 城島健司大リーグ挑戦日記』(集英社)『歌舞伎の童 中村獅童という生きかた』(講談社)、『不器用なドリブラー』(集英社)など