【新連載・元NPB戦士の独立リーグ奮闘記】
第1章 高知ファイティングドッグス監督・吉田豊彦編 第12回
かつては華やかなNPBの舞台で活躍。現在は「独立リーグ」で奮闘する男たちの野球人生に迫るノンフィクション連載。第1章は、南海・ダイエー、阪神、近鉄、楽天を渡り歩いた鉄腕で、現在は高知ファイティングドッグスの指揮官としてチームを優勝に導いた「トヨさん」こと吉田豊彦氏に密着する。
■無視されて三流、賞賛されて二流、非難されて一流
「近鉄とオリックスの合併」や「1リーグ10球団制移行」の動き、それに反対した選手会による「日本プロ野球史上初のストライキ」といったプロ野球再編問題を経た2005年シーズン、トヨさんは日本プロ野球の歴史上50年ぶりに誕生した新規参入球団、東北楽天ゴールデンイーグルスに分配ドラフトで入団した。
「(分配ドラフトで)オリックスではなく新球団の楽天に入ることに抵抗はありませんでした。年齢を考えれば選べる立場ではなかったし、どのチームのユニフォームを着ても一生懸命野球をやることは変わらない。仙台もまったく行ったことのない土地ではなかったし。まあ、でも寒かったね。本当に寒かった(笑)」
近鉄時代は中継ぎとして明確な役割分担がある中で投げることができた。しかし、当時の手薄な楽天投手陣でそれは不可能だった。そんな状況でも、39歳のトヨさんはチーム最多の50試合に登板し(防御率3.40)、38勝97敗1分けという記録的な負け越しをしたチームを支えた。
「1年目はとにかく準備が大変だった。登板は5回終了以降と思って準備していると、小野(和義)コーチから、『トヨさん悪い、5回頭でも投げられる準備しておいてくれ!』といきなり言われることもしょっちゅうだった。毎回、『えーっ、はいっ!』みたいな感じでした(笑)」
当時は球場に選手の専用駐車場も用意されていなくて、ライトスタンドの裏側にある駐車場に停めて、けっこう歩いてクラブハウスまで行った。トレーニングルームもきちんとしたものはありませんでした」
選手の補強や練習環境の整備など、何もかも突貫工事のような準備でスタートしたチームの初代指揮官は田尾安志氏(当時51歳)だった。現役時代は華のあるプレーと甘いマスクで人気選手だった田尾氏も、引退後は長らくスポーツキャスターとして活動しており、NPBでは監督はおろかコーチ経験もない中での就任だった。
契約期間は3年。当初は少なくとも3年間かけて、新規参入球団と新人監督の成長を楽天ファンは見守るはずだった。
「田尾さんは選手目線でいろいろ話も聞いてくれた、裏表のない兄貴分のような存在でした。正直、田尾さんを1年で解任したのはあり得ないと思いました。もう少し田尾さんに任せて地盤を固めてもらい、その後にノムさんが引き継いでいれば、ノムさんの時代に楽天は優勝できていたかもしれないと思います」
田尾氏は1年で解任されて退団。新監督に就任したのは野村克也氏だった。野村氏にとっては、阪神監督以来5年ぶりとなるNPB復帰。トヨさんにとっても、野村監督と同じユニフォームを着て戦う5年ぶりのシーズンとなった。
就任当時、野村監督は70歳。翌2006年に仰木彬氏の記録を更新してプロ野球史上最年長監督になった。トヨさんもこの年40歳を迎え、プロ野球界全体を見渡しても数少ない現役40代選手になった。また、野村監督が「茶髪、長髪、ヒゲ禁止令」を出したため、近鉄時代からのトレードマークだったヒゲを剃り落とし、心機一転スタートを切った。
「ノムさんはずいぶん丸くなった印象を受けました。ミーティングも、阪神時代は分厚いファイルを渡されて、毎日1時間、2時間、学校の先生が教壇に立って話すように、細かな技術論まで踏み込んでいましたけど、それはなくなった。基本的な心構え、『野球人の前に、ひとりの人間としてちゃんとするように』ということは阪神時代と一緒でよく話されました」
「内角に投げられない投手はプロの世界でメシは食べていけない」と説いた「内角球論」をはじめ、トヨさんは阪神を離れてからも「野村の教え」を実践し、著書も読んでさらに見識を深めていた。
トヨさんはあるとき、野村監督の著書で「無視されて三流、賞賛されて二流、非難されて一流」という言葉を見つけた。すべての分野で一流の人間を育てていくための原理原則で、「無視」「賞賛」「非難」の順にステップアップしていく。
無視されているときは「己で考えられる力を身につけなさい」という時期。賞賛されているときは、成長を評価されるようになったが、裏を返せば「まだ一人前扱いされていない」という時期。そして、非難されるということは、一人前になった人にさらに上を目指すよう仕向けるための意図的な刺激とともに、「うぬぼれるな!」という意味合いがあるそうだ。
阪神時代、トヨさんはそれを理解できず、ファームで結果を残しても1軍に昇格させてもらえなかったときは、多少の不信感を抱いたこともあったという。ようやく理解し始めたのは楽天時代、本当の意味で「野村の教え」を理解したのは「現役引退して同じ指導者という立場になってから」と話した。
野村氏の「無視されて三流、賞賛されて二流、非難されて一流」という言葉にまつわる思い出深いエピソードを、トヨさんは教えてくれた。
「楽天に入団して5年ぶりに再会したとき、ノムさんからは『近鉄にいた頃のピッチングはちゃんと見ていたよ』と声をかけていただきました。それは嬉しかったね。だから、なんとか野村監督の期待に応えたいと思って投げました。
オリックス戦で清原(和博)を三振に仕留めてベンチに戻ってきたとき、ノムさんから『ナイスピッチング!』と大きな声で褒めていただいた。でもそれは嬉しかった反面、少し拍子抜けもしました。『あれっ、ノムさんが褒めるということは、自分はまだまだ二流なのか』と思ってね(笑)」
野村監督の就任1年目、2006年シーズンの楽天は47勝85敗4分けという成績で、2年連続最下位に終わった。惨敗した前年より勝ち星は9つ増えただけで、名将・野村をもってしても、短期間でチームを改革することの難しさをあらためて実感するシーズンとなった。
そんな中、トヨさんは中継ぎとして41試合に登板し(防御率3.19)、前年に続いてチームを支えた。ちなみに31イニングを投げて被本塁打は「0」という好成績で、9月5日の対オリックス戦では600試合登板を達成するメモリアルイヤーにもなった。
■ 親戚は野村氏と同期だった伝説の投手
トヨさんは野村氏と「南海の先輩後輩」というほかに、実は意外なところでも繋がっていたことを今回の取材で初めて知った。
「自分の親戚、親父のお袋の兄弟の息子さんは宅和本司(たくわ・もとじ)という南海の元投手でした。しかもノムさんと同期入団なんですよ。短命でしたけどね。自分が南海に入団したときは毎日放送の解説者で、中百舌鳥(なかもず)球場(南海の2軍専用球場)に取材に来られたとき、初めてお会いしました」
宅和本司――。
失礼ながら、「宅和本司」という名前の元プロ野球選手については無知だった。トヨさんも会話の流れの中でさらっと話していたので、聞いた時点ではさほど気に留めなかった。しかし後日調べてみると、想像をはるかに超える名選手だったと知って驚いた。
甲子園出場はないものの高校時代(福岡県北九州市・門司東高校 *現在は閉校)から剛腕投手で有名だった宅和本司氏は1954年、野村氏や日本球界最後の30勝投手で通算221勝を記録した皆川睦夫氏と共に南海ホークスに入団した。寮では野村氏と同部屋だった時期もあるそうだ。
テスト生で入団し当初はブルペンキャッチャーだった野村氏とは対照的に、宅和氏は1年目からいきなりエース級の活躍を見せた。
ルーキーながら26勝9敗、防御率1.58で、新人王、最多勝、最優秀防御率のタイトルを獲得した。さらに当時は表彰タイトルに制定されていなかった奪三振も最多の275(リーグ新記録)で、「19歳で投手三冠」という偉業を達成した。なお高卒新人投手で最多勝を獲得した投手は、1936年に日本でプロ野球リーグが誕生して以来、宅和氏と松坂大輔氏(1999年)のふたりだけだ。
同年、野村氏の一軍出場は9試合で11打数ノーヒット。のちに撤回されたものの球団からは「プロでは通用しない」とみなされて解雇通告を受けた。皆川氏も10試合に登板して0勝3敗という成績で、大投手の道を歩むのはもう少し先だった。
宅和氏は翌1955年も24勝11敗で最多勝を獲得して、2年ぶり6度目のリーグ優勝に貢献した。しかし以降は、短期間で極度に肩を酷使(1年目の投球回は329.2。2年目は244.1)したことや、故障の影響もあって急激に成績を落とした。3年目は6勝。4年目以降は1勝もできず、1959年シーズンオフに自由契約になり近鉄に移籍。しかし復活することなくプロ8年目の1961年、26歳という若さで引退した。
生涯戦績は56勝26敗。プロ入りして最初の2年間で50勝をあげるという濃密なまでに凝縮された現役生活だった。
一方、野村氏はプロ4年目の1957年に初の本塁打王のタイトルを獲得した。宅和氏の現役最後となった1961年には二度目の本塁打王に。1965年には戦後初の三冠王にも輝いた。以後45歳まで現役で活躍した足跡は周知の通りだ。
トヨさんは、短くも強烈な輝きを放った伝説の投手を親類に持つことを公に語ることはなく、野村氏にも打ち明けなかった。
「せっかくそういう縁もあったのにね」とトヨさん。「今思えば、(野村氏に)いろいろ聞いてみればよかった。でも当時は気軽に言葉をかけられませんでした」と話した。
■引退試合1週間前の直訴
トヨさんは阪神と楽天時代の通算5年間、野村監督の下でプレーした。トヨさんにとって野村監督は、20年間の現役生活でもっとも長く仕えた監督であり、野球選手としてだけではなく、人としての在り方まで学んだ恩師だった。そんな野村監督に一度だけ面と向かって反発したことがあった。
楽天入団3年目、2007年10月4日の引退試合の1週間前、トヨさんは野村監督にこう直訴した。
「最後は自分らしく終わりたいので、引退試合のマウンドは(トレードマークの)ヒゲを生やして上がります」と。野村監督の反応は、いかにも「ノムさんらしい」ものだったという。
「監督室の扉をノックして開けると、ノムさんはかなり驚いた顔をしました。野球のことで質問なんてしたことないのに、ヒゲの件だけをお願いするために、初めて監督室まで行ったからね。そりゃびっくりするよね。(野村監督の反応は)憮然として目も合わせず、無言のままギロッと睨まれて、唸るように『んん? ああ』で終わり(笑)」
トヨさんは当時を懐かしむように目を細めた。
* * *
「ピッチャー、ドミンゴに代わって、吉田。背番号49」
引退試合の千葉ロッテ戦は9回に出番が来た。先頭バッターの竹原直隆にセンター前に運ばれるも、続く今江敏晃を三球三振に仕留めてマウンドを降りた。トヨさんは覚えていなかったが、ベンチに戻ったとき、当時ルーキーだった田中将大が帽子を脱いで深々と頭を下げた姿が、著者にはとても印象的だった。
「まだまだ投げたい!!」
大粒の雨が降る中で開かれた試合後のセレモニー。
野村監督はじめ、近鉄時代を共にした楽天初代選手会長の礒部公一、プライベートでも親しかった女房役の藤井彰人、同じ投手で弟分のように可愛がっていた有銘兼久、田尾監督に請われて引退をとどまり、同年は二冠王に輝いた山﨑武司、トヨさんを尊敬し目標にする2年目の青山浩二、大先輩に敬意を表して深々と頭を下げた田中将大ら大勢の仲間――。
そしてスタンドを埋めた2万238人の観客に見守られる中、大きな声でそう叫んで、20年間で5球団を渡り歩いた現役生活の幕を閉じた。
●この続き、第13回「名伯楽・吉田豊彦に聞く。指導者としてのNPB復帰は?」はこちら
■吉田豊彦(よしだ・とよひこ)
1966年生まれ、大分県出身。国東高校、本田技研熊本を経て、87年ドラフト1位で南海ホークス入団。南海・ダイエー、阪神、近鉄、楽天を渡り歩き2007年に引退。現役20年間で619試合に登板した「鉄腕」。楽天2軍コーチを経て、2012年シーズンより四国アイランドリーグplusの高知ファイティングドッグス投手コーチ。20年に監督に就任し、22年にはチームをリーグ年間総合優勝に導いた
■会津泰成(あいず・やすなり)
1970年生まれ、長野県出身。93年、FBS福岡放送にアナウンサーとして入社しプロ野球、Jリーグなどスポーツ中継担当。99年に退社しライター、放送作家に転身。楽天イーグルスの創設元年を追った漫画『ルーキー野球団』(週刊ヤングジャンプ連載)の原作を担当。主な著書に『マスクごしに見たメジャー 城島健司大リーグ挑戦日記』(集英社)『歌舞伎の童 中村獅童という生きかた』(講談社)、『不器用なドリブラー』(集英社)など