会津泰成あいず・やすなり
1970年生まれ、長野県出身。93年、FBS福岡放送にアナウンサーとして入社し、プロ野球、Jリーグなどスポーツ中継を担当。99年に退社し、ライター、放送作家に転身。東北楽天イーグルスの創設元年を追った漫画『ルーキー野球団』(週刊ヤングジャンプ連載)の原作を担当。主な著書に『マスクごしに見たメジャー 城島健司大リーグ挑戦日記』(集英社)、『歌舞伎の童「中村獅童」という生きかた』(講談社)、『不器用なドリブラー』(集英社クリエイティブ)など。
今シーズン、日本野球機構(NPB)にファーム(2軍)リーグ限定で新規参戦した「くふうハヤテベンチャーズ静岡」(以下、くふうハヤテ)。同時に参戦した「オイシックス新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ」は独立リーグの老舗球団だったが、くふうハヤテは母体も何もない、まさしくゼロから立ち上げられたチームだ。
開幕から約3ヵ月が過ぎた6月末、くふうハヤテに密着取材し、野球人生をかけて新球団に入団した男たちの挑戦を追った。
今回は、ソフトバンクやロッテでプレーし、「エースキラー」と呼ばれた福田秀平。8月1日に現役引退を発表する前、筆者の取材に揺れる胸の内を率直に語っていた。(全15回連載の8回目)
「去年は右肩の状態が全然ダメで引退も考えましたが、最後のほうで少し良くなった実感もあり現役続行を決めました。ありがたいことに、くふうハヤテさんからオファーをいただき今現在に至っています。ただ、やはり思うような状態、回復には至っていないのが正直なところです。
毎日、ケアをしたり、コンディションが多少でも上向きになるように努めていますが、やはり難しいところがあるのかな、というのは受け止めざるを得ない。右肩の骨が変形しているので、右手を伸ばしても左肩に届かない。可動域の問題なので改善することはできないですし、それ以上動かそうとすれば痛みが強くなってしまう。可動域と痛みとの戦いですね」
福田は主力投手に強いことから「エースキラー」と呼ばれた。NPB時代の大谷翔平と山本由伸(ともに現ドジャース)からそれぞれ複数本塁打を打っているのは、福田と柳田悠岐(ソフトバンク)のふたりだけである。
福田は決して全国区のスター選手ではなかった。新人から13年間在籍したソフトバンクでは主に控え選手で、4年総額6億円(出来高含む)という大きな期待をされてFA移籍したロッテでは怪我に苦しみ、実力を発揮できないまま戦力外通告を受けた。にもかかわらず、福田はどちらのチームでも愛され、必要とされた。
ソフトバンク在籍時は最強軍団と呼ばれたチームのスーパーサブとして、ここ一番で最高の仕事を見せた。良いか悪いかは別にして、守備でも怪我を恐れずフェンス際のボールにも果敢に食らいつく姿が印象的だった。
ロッテでは、入団してすぐ死球を受けて右肩骨折という大怪我を負い、まともに動かせる状態ではなかったが、やはり大事な場面では確実に仕事をこなし、時にビッグプレーをみせた。結果的に、怪我の癒えない状態で無理に続けたことで右肩の状態を悪化させ、試合出場もままならなくなり戦力外通告を受けたが、チームからは即、コーチ就任要請を受けた。
試合に出ても出なくても関係なくひたむきに練習し「その時」に備える姿勢。成績という数字以上に多大な貢献をするのが福田秀平。それはくふうハヤテでも同じだった。
取材した6月下旬までの福田の成績は打率1割台と、エースキラーと呼ばれた男にとっては絶望的な数字だった。この数字だけで、右肩の状態がいかに悪いか確認するまでもなかった。それでもやはり福田はチームに必要な選手だった。投手の平間凜太郎は福田についてこう話した。
「体力がより求められる投手にとって走り込みは大切なメニューですが、野手で福田さんほど走り込みをする選手に出会ったことはありません。
右肩の状態が悪くて、たしかに打率は1割台かもしれません。でも福田さんはアウトになるにしても、ランナーを進塁させたり、次に繋がるプレーをします。アウトでもチームに貢献するアウト。自分は投手ですが、練習でも試合でも常に全力で取り組む福田さんを見て学ぶべきことはたくさんあります」
平間の話を伝えると、福田は「それは嬉しいですね」と笑みを浮かべた。
肩の状態が限界に近い現状では、安打や好返球など華々しいプレーで手本を示すことは難しい。それでも一見気づかれにくい些細にも思える部分で、後輩たちが大切なことを感じ、学んでくれたのだとすれば、このチームに来た意味はあったのではないか。
平間の話を受けて、福田はこう解説してくれた。
「(ノーアウト2塁から)外野フライでアウトになるにしても、1アウト2塁になるのか、それともひとつ進めて1アウト3塁にできるかで、次のバッターの状況は大きく変わりますし、当然得点できる確率も変わります。そういう部分を若い選手が見てくれているのは、嬉しいなと思います。
くふうハヤテにいる若い選手たちは、もちろんNPB12球団にドラフト指名されることを目標に頑張っています。でも本当に目指すべきは1軍で活躍することです。そのレベルで考えると、僕も相当厳しい目で見てしまうときもあるので、そのあたりは後輩たちへの伝え方も、同じ選手という立場ではありますが、どう伝えれば聞く耳を持ってくれるかなど、もっと勉強していかなければいけないと思います」
2019年オフ、福田は国内FA権を行使して13年間在籍したソフトバンクを離れ、5球団競合の末、4年総額推定6億円でロッテに移籍した。スーパーサブではなくスタメンで全試合出場したいという思いが、愛着あるチームから離れることを決断させた。
ロッテからは西岡剛、鈴木大地など歴代キャプテンが付けた背番号「7」を与えられ、大きな期待がかけられた。しかし前述したように、2020年シーズン開幕直前の6月、巨人との練習試合で死球を受けて右肩甲骨を骨折し、医師から全治3ヵ月と告げられた。本来ならば治療に専念するべきだったが、福田はわずか1ヵ月で実戦復帰した。これが悪循環となり、弊害はさまざまな箇所に広がった。
「右肩が使えない状態なのに、ろくにリハビリもしないまま野球を続けてしまったんですね。『とにかく試合に出て結果を残さなければ』と焦っていたことが一番大きかった。『絶対にレギュラーの座を奪ってやる』と、自分にとって野球人生で一番の大勝負と思って移籍しましたし。その中で、出鼻をくじかれた状態で、焦りしかなかったというのが本音です」
故障を抱えつつプレーし続けた福田がようやく手術に踏み切ったのは2年半が経過した2022年シーズンオフ。しかしそのときは、本来のプレーを取り戻すばかりか、野球をすること自体も厳しい状態まで悪化していた。
ロッテでは期待に応える結果をほとんど残すことができないまま、契約満了で戦力外通告を受けた。このことについて聞くと、「チームやファンに対しては申し訳ない気持ちでいっぱい。悔しい気持ちが一番強い」と答え、「野球人生一番の大勝負に負けた」と話した。
「(怪我に関して)先輩たちからは言われていたんですけどね、『今の状態で無理して頑張ったところで、良いパフォーマンスは発揮できない。でも周りからは、それが実力と思われてしまう。それはお前にとって損なことだよ』って。でも、プロ選手はみなどこかしら、怪我や故障を抱えながらプレーしています。『それでも結果を残せるのが一流選手だ』という思いが強かった。『自分もこんな怪我で引っ込んでいられない』と考えていました」
福田が新人から13年間在籍していた頃のソフトバンクは、リーグ優勝7度、日本一6度と、圧倒的な力を誇っていた。
例えば福田が1軍デビューした2010年シーズンでいえば、野手の主力は小久保裕紀、川﨑宗則、松田宣浩、多村仁志、長谷川勇也、本多雄一など。投手の主力は和田毅、杉内俊哉、攝津正、馬原孝浩など。どのポジション、どの役割にも球界トップクラスが揃っていた。他球団ならば間違いなくスタメンに定着できるような選手でも、1軍に上がるだけでも熾烈な競争に勝ち残らなければならなかった。福田はそんな最強軍団の中で揉まれ、プロ意識を叩き込まれた。
「今でも特に強く心に残っているのは、新人の頃、小久保さんから言われた言葉です。僕は代走守備要員で1軍に帯同しましたが、ある試合で、代走で1塁についたとき、打者がライト前ヒットを打って2塁に進塁しました。もしかしたら3塁まで進めたような当たりでしたが、安全策をとって2塁で止まった。
そうしたら試合後、小久保さんから呼ばれて『なぜ3塁を狙わなかったのか。お前は何で飯を食っているんだ。お前が今このチームで生き残れるとすれば、たとえアウトになったとしてもあの場面で挑戦することだ。それができない選手なら、このチームで価値はない』と言われました。それは強く心に響きました」
もうひとつ、福田には新人時代に経験した忘れられない出来事があった。エラーをした福田は試合後、ある先輩投手から呼び出された。1軍と2軍を行き来する、いわゆる当落線上の投手だった先輩からこう言われた。
「自分には責任のない野手のエラーひとつで降板させられ、それで二度と1軍に戻れなくなる投手もいることを考えたことがあるか。お前のエラーひとつで、俺の人生だけでなく、俺の家族の人生も、応援してくれている人たちの思いも、すべてぶち壊すことになる。たとえ些細に思えるようなプレーでも、そのひとつひとつには多くの人の人生や思いが詰まっていることは、忘れずに覚えておけ」と。
「その先輩は自分を責めるような言い方ではなくて、『だから自分たちは、どんな場面やプレーでも手を抜かず、仲間のためにも常に全力で取り組んで頑張る必要がある』と教えてくれました。それからですね、守備でも仲間の人生も背負っていることをより強く意識するようになったのは。
自分の強みは、他の選手では届かないような打球でも追いついてアウトにできること。バッティングはたいした選手ではないと思いますが、走塁と守備は負けない。プロとしてそれで飯を食わせてもらっている以上、怪我のリスクがあったとしても挑戦しなければ、それこそ小久保さんから言われたように、自分の価値はないと思うようになりました」
常に全力、勝利のために緻密かつ挑戦する気持ちを忘れない。当時のソフトバンクは、小久保はじめ球界屈指と評価される選手が率先して手本を示し、スタメン、控えに関係なく、すべての選手が高いプロ意識を持っていた。強いチームには強い理由がある。福田は身をもって学び、それがプロの基準になった。
「今は右肩の状態をこれ以上悪化させることはできないので、たくさん練習している姿を見せることができないのは歯痒(はがゆ)いですが、ハヤテの若い選手にも、自分が学んできたことを少しでも伝えられたら良いな、という思いでやっています」
取材に伺った日、福田は若手のティーバッティングのサポートをしたり、ボールやネットの片付けも率先して取り組んでいた。
「今はとにかく、お腹いっぱいと思えるように精一杯やって(現役生活を)終えたいですね」
福田はそう話すと、リハビリテーション治療のため病院へと向かっていった。
* * *
現地取材したおよそ1ヶ月後の8月1日――。
福田は、今季限りで18年間の現役生活に別れを告げることを発表し引退会見が開かれた。
「(プロ野球選手になったときは)僕のような選手が、ここまで(長く現役を)できるとは思ってませんでしたし、最初入ったときには王(貞治)監督(現球団取締役会長)含め、レジェンドの方たちがたくさんいる中で、1年ですぐクビになるなっていうふうに思い知らされたプロの世界だったので。その中でも、先輩たちに追いつき追い越せの気持ちで、なんとかしがみついてやってきたのかなというふうに思っています」
引退会見時点でのウエスタンリーグでの成績は52試合に出場し打率.169、本塁打0、打点15だった。しかし最後まで希望を捨てず、リハビリに取り組みつつ、「明日」を信じて練習に取り組み続けた。福田の思いは同じように「明日」を夢見る後輩たちにも伝わり、かけがえのない財産になったはずだ。
●福田秀平(ふくだ・しゅうへい)
1989年生まれ、神奈川県出身。多摩大聖ヶ丘高から2006年ドラフト1位でソフトバンク入団。プロ入り4年目で1軍出場を果たし俊足と堅守の万能選手として活躍。19年限りでソフトバンクを離れてロッテにFA移籍。しかし怪我に苦しみ、23年限りで戦力外通告された。24年はNPB1軍復帰を目指してくふうハヤテでプレー。8月1日、今季限りでの現役引退を発表した
1970年生まれ、長野県出身。93年、FBS福岡放送にアナウンサーとして入社し、プロ野球、Jリーグなどスポーツ中継を担当。99年に退社し、ライター、放送作家に転身。東北楽天イーグルスの創設元年を追った漫画『ルーキー野球団』(週刊ヤングジャンプ連載)の原作を担当。主な著書に『マスクごしに見たメジャー 城島健司大リーグ挑戦日記』(集英社)、『歌舞伎の童「中村獅童」という生きかた』(講談社)、『不器用なドリブラー』(集英社クリエイティブ)など。