会津泰成あいず・やすなり
1970年生まれ、長野県出身。93年、FBS福岡放送にアナウンサーとして入社し、プロ野球、Jリーグなどスポーツ中継を担当。99年に退社し、ライター、放送作家に転身。東北楽天イーグルスの創設元年を追った漫画『ルーキー野球団』(週刊ヤングジャンプ連載)の原作を担当。主な著書に『マスクごしに見たメジャー 城島健司大リーグ挑戦日記』(集英社)、『歌舞伎の童「中村獅童」という生きかた』(講談社)、『不器用なドリブラー』(集英社クリエイティブ)など。
今シーズン、日本野球機構(NPB)にファーム(2軍)リーグ限定で新規参戦した「くふうハヤテベンチャーズ静岡」(以下、くふうハヤテ)。同時に参戦した「オイシックス新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ」は独立リーグの老舗球団だったが、くふうハヤテは母体も何もない、まさしくゼロから立ち上げられたチームだ。
開幕から約3ヵ月が過ぎた6月末、くふうハヤテに密着取材し、野球人生をかけて新球団に入団した男たちの挑戦を追った。
今回は、1983年のコーチ転身以来、広島、巨人で多くの一流選手を育ててきた名伯楽の奮闘を紹介する。(全15回連載の9回目)
まだ6月末なのに強い日差しと暑さの中、バットを片手にグラウンドを忙しなく移動して指導するコーチがいた。老練な雰囲気が全身から漂う。帽子を被り濃い色のサングラスをかけていたのですぐにはわからなかったが、見覚えのある風貌。少しして、内田順三コーチだと気付いた。プロ野球の歴史に名を刻む名伯楽だ。
「私は静岡県の三島市生まれで、東海大一高(現・東海大静岡翔洋)OBなんです。NPBのコーチ時代はこのグラウンド(ちゅ〜るスタジアム清水)にも二十数年、毎年12月に野球教室に呼ばれて来ていました。そうした縁もあって、静岡出身の山下大輔GM(清水東高OB)と赤堀元之監督(静岡高OB)とともに、球団社長から声がかかりました。
古くから付き合いのあるメディアや野球関係者からも『地元静岡に貢献できる良い機会でもあるし協力してはどうか』と後押しされたこともあって、『常駐は難しいですが、毎月10日程度ならば』という私の申し出にご理解をいただき、打撃アドバイザーという肩書きでコーチを引き受けることにしました」
今年9月10日で77歳になった内田コーチは、35歳で現役引退(1982年・広島)すると、翌1983年シーズンからは広島の2軍打撃コーチ補佐に就任し、指導者としてのキャリアを開始させた。
以降は広島と巨人を行き来するような形で37年間一度も途切れることなく、2019年シーズンまでNPBの指導者として活躍した。教え子を挙げればキリがないので割愛するが、巨人時代に師事した清原和博は、内田コーチの著書『打てる、伸びる!逆転の育成法』(廣済堂出版)収録の対談でこう言っている。
「僕は、プロ野球人生に後悔はないですけど、内田さんにもっと早く出会えて、内田さんの考えや理論を必死になって実践できていれば、もっとホームランを打てたんじゃないか、と思います。そこに関しては、悔いがありますね」
球界を代表する数多くの選手から慕われる名伯楽が、アドバイザーという肩書きとはいえ、70代後半という年齢にもかかわらず今も現場で、しかも誕生したばかりのチームで奮闘している。くふうハヤテというチームについてどう見ているのか。孫のような年齢の若い選手たちとどう向き合っているのか。
「(NPBファームリーグに参入した)同じ新球団でも、新潟(オイシックス新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ)は独立リーグでは老舗球団(2006年創設)という下地のある中での誕生でしたが、うちはまったくのゼロからの出発でしたので、大変なことばかりでした。
まず野球道具がない。キャンプでも練習ボールの数が足りなくて困ったり、打撃投手もいないので監督やコーチ、野手、時には球団職員が投げたりもします。最初は打撃マシンもなくて練習に支障をきたしていたので、社長に頼み込んで購入してもらいました。予算的に一気に揃えることは難しいので、最低限必要なものから徐々に揃えていきました」
くふうハヤテの選手は、NPB12球団で活躍する選手のように、バットなどをスポーツ用品メーカーから支給されることはまずない。内田コーチは、古巣の広島や巨人と試合をする際、相手チームのコーチにお願いしてボールを分けてもらったり、選手が自腹で揃えなければならないバットは、使用済みの中古を譲ってもらい、配ったりもした。
NPB球団とはいえ、環境面は独立リーグ球団に近いが、内田コーチは「ほとんどの選手は、既存12球団のファーム選手よりも覚悟を持って野球に取り組んでいる」と評価する。
「私が広島や巨人のファームで監督やコーチをしていた頃、なかには『もっと練習しなさい、プロ野球選手になれただけで満足してはいかんよ』と叱咤激励して、首根っこを捕まえなければ自主的に練習しない選手もいました。ですが、今ここにいる選手からは、ほぼ全員から覚悟を感じます。私から何も言われなくてもみな自主的に取り組みます。このチームに来てから、選手に対して『もっと練習しなさい』と話したことは一度もありません。
NPBで解雇されてここに来た選手も、どうにか這い上がろうと必死に取り組んでいます。解雇された理由は技術なのか、あるいは私生活の問題なのか。ある程度遠回しに編成担当者から聞いたりもしていますが、私自身は先入観を持たずに向き合っています。先入観を持ったら指導はできません。必死に這いあがろうとしている彼らの力に少しでもなれるように、体の動く限りは全力で協力できたらと思っています」
取材中、ある場面に目が止まった。
練習開始前、グラウンドに集合して円陣を組んだ選手たちに対して、内田コーチが厳しい口調で話していた。温厚だった表情は一変。身振り手振りで怒りの感情をあらわにして話し続けた。明らかに雷を落としている雰囲気。しばらくしたのち内田コーチの話が終わると、選手全員揃って腹の底から声を出すように「ハイッ!」と大きな返事をして練習が始まった。
「『グラウンドで移動するときは歩くな、走れ!』と話しました。これから一日の練習が始まり、指導するために待つ監督やコーチはどう受け止めるか。これは野球選手としてというよりも、社会人としての礼儀であり、とても大切なことです。
私はぬるい雰囲気は嫌いなの。どちらかといえば熱い性分だから。熱いメッセージをどんどん発信して、反発する選手がいれば指導すればいい。反発できないような選手に対しては、積極的になれるように方法を考えて向き合えばいい。選手と向き合う熱さは、何歳になっても変わりません。今は大声で叱れば、すぐにパワハラと言われてしまう時代です。でも私は必要と思えば大声も出します。
個人のプレーの失敗は助言してやればいい。でもチーム全体にマイナスになるような行動をすれば叱らなければいけない。それをしないまま見過ごすことは、私の野球観にはありません。今の時代に合わせることも大事ですが、それがすべてではない。それに選手も、40代の血気盛んな若いコーチから大声で叱られたら腹も立つかもしれませんが、77歳になろうかという爺さんから言われても、腹は立たないと思います(笑)。親父が怒れば母親がなだめるように、別のコーチが後でフォローしてくれると考えて伝えるようにしています。
ただ、私もコーチになりたての頃は、まさに昭和の野球でした。手を抜けば怒鳴りつけたり、時には蹴飛ばしたこともありました。でも昭和と平成そして令和では当然、指導方法や選手との向き合い方は変化してきました。昭和のスタイルのまま指導していたら、私もここまで長く指導者として求められることはなかったはずです」
1983年に指導者に転身して今年で42年目。そんな内田コーチから見て伸びる選手、プロ野球で活躍できる選手とはどんな選手か、自身の指導者として大切にしてきたことと併せて聞いた。
(つづく)
●内田順三(うちだ・じゅんぞう)
1947年生まれ、静岡県出身。東海大一高、駒澤大を経て1969年ドラフト8位でヤクルト入団。のち日本ハム、広島に移籍して82年、35歳で現役引退。同時に広島2軍打撃コーチ補佐に就任すると、以降は広島と巨人を行き来しながら37年間、一度も途切れることなく2019年シーズンまでNPBの指導者として活躍した
1970年生まれ、長野県出身。93年、FBS福岡放送にアナウンサーとして入社し、プロ野球、Jリーグなどスポーツ中継を担当。99年に退社し、ライター、放送作家に転身。東北楽天イーグルスの創設元年を追った漫画『ルーキー野球団』(週刊ヤングジャンプ連載)の原作を担当。主な著書に『マスクごしに見たメジャー 城島健司大リーグ挑戦日記』(集英社)、『歌舞伎の童「中村獅童」という生きかた』(講談社)、『不器用なドリブラー』(集英社クリエイティブ)など。