連載【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】第5話
今回は、佐藤教授のもともとの専門であるエイズウイルスについてのコラムをお届けする。「種の壁」を乗り越えて、ヒトに感染するようになったエイズウイルス発生のメカニズムとは?
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■ウイルスと宿主の「相克」
2020年に新型コロナの研究をはじめるまで、私はエイズウイルスを専門にする研究者だった。エイズウイルスの正式な名前は「ヒト免疫不全ウイルス」、略称はHIVである。つまりHIVは、エイズ(免疫不全症候群)という病気の原因ウイルス、ということになる(余談だが、ウイルスの名前とその感染で引き起こされる病名が異なることはままある。新型コロナもそうで、そのウイルスの正式名称はSARS-CoV-2、その感染で引き起こされる病名がCOVID-19、である)。
HIVと新型コロナは、専門的に分類すると、「全然違う」ウイルスである。ウイルスの分類にはいろいろなやり方があるが、わかりやすいもののひとつに、「ゲノム(全遺伝子情報)が何でできているか?」というものがある。ヒトのゲノムはDNA(デオキシリボ核酸)でできているし、ヘルペスウイルスやパピローマウイルス、昨年世界を騒がせたエムポックスウイルス(サル痘ウイルス)のゲノムもDNAである。
それに対し、HIVや新型コロナ、インフルエンザウイルスは、RNA(リボ核酸)をゲノムにしている。HIVと新型コロナは、ゲノムがRNAである、というところは似ているが、増殖の仕方も、感染標的とする細胞も、感染によって引き起こされる病気も全然違う。そのため、HIVは「レトロウイルス科」に、新型コロナは「コロナウイルス科」に分類される。
ウイルス学は、実は「縦割り」の構造になっていて、自分が専門とするウイルス以外の研究はほとんどしない、という場合が多い。つまり、HIV(レトロウイルス)の専門家である私が、コロナウイルスの研究に着手することは通常ではほとんどありえない。一般の方やほかの分野の研究者の方からすると、「いやいや、ウイルスだったらなんでも同じなんじゃないの?」と思われるのではないだろうか。
しかし、それぞれのウイルスの性質や特徴、感染によって引き起こされる病気がまるで違うこともあって、ウイルス学の文化はそれぞれのウイルスごとに醸成されている場合が多い。そして、そういう「文化の壁」を無遠慮にぶっ壊したのが、新型コロナパンデミックであり、そこに乗じたのが、まさに私や、研究コンソーシアム「G2P-Japan」のメンバーたちであった。
閑話休題。私はHIVやレトロウイルスについていろいろな研究に従事したが、主にふたつのことに関する研究を進めた。ひとつは、HIVの増殖の手伝いをしたり、その邪魔をしたりするヒトのタンパク質についての研究。ヒトの細胞は実は、HIVの増殖を妨げるさまざまなタンパク質を持っている。
しかし、HIVは巧みなウイルスで、それらのヒトのタンパク質を邪魔するタンパク質を持っているのである。このヒトのタンパク質とウイルスのタンパク質の「相克」のメカニズムについて、いろいろな方法で詳しく調べていた。
興味深いのは、ウイルスの遺伝子が変異することで、そのタンパク質の機能も変化することである。これによって、ヒトとウイルスの「相克」の図式も変化する。この「ウイルスの遺伝子の変異が、ウイルスの性質に与える影響を調べる」というコンセプトは、G2P-Japanによる新型コロナ研究にも通底するコンセプトである。
■ウイルスの「スピルオーバー」
そしてもうひとつ、強く惹かれたのが、「HIVが誕生した原理」についての研究である。新型コロナは2019年末に突然ヒトの世界に出現し、パンデミックを引き起こした病原ウイルスであるが、どこからか自然に湧いて出たわけではもちろんない。去年(2022年)に先進国で流行して話題になったエムポックスウイルス(サル痘ウイルス)も、そしてHIVも、無から突然生まれたものではない。
それでは、HIVはどのようにして誕生したのか? HIVほどその詳細を調べ尽くされているウイルスはないと思う。それくらい、HIVについてはいろいろなことがわかっている。HIVは、100年ほど前に、アフリカのチンパンジーが自然感染していた「SIVcpz」というウイルスがヒトに「スピルオーバー」することで誕生した、と考えられている。
「スピルオーバー」とは、動物種の壁を超えて、別の動物種に病原体が伝播されることを意味する言葉である。これは、ペンシルベニア大学(アメリカ)のベアトリス・ハーン(Beatrice Hahn)という研究者の研究チームが、カメルーン南東の熱帯林で、その場所をGPSで記録しながらチンパンジーの糞を集め、糞からRNAを抽出し、ウイルスのゲノム解析をすることで明らかになった。
さらに詳しく調べると、このチンパンジーの「SIVcpz」というウイルスは、アフリカに生息するサルたちが自然感染しているふたつのウイルスがチンパンジーに「スピルオーバー」し、それらが「遺伝子組換え」を起こして誕生したこともわかってきた(ちなみに余談だが、このコラムの第1話で紹介した高校時代の私のスクラップブックの切り抜きは、まさにこれを紹介した記事である)。
繰り返すが、ウイルスが「スピルオーバー」をするためには、宿主の「種の壁」というハードルを乗り越える必要がある。HIVはヒトとチンパンジーには感染するが、サルには感染しない。それはそこ(ヒト・チンパンジーとサルの間)に「種の壁」があるからであり、それを担うのが、先に述べた、ウイルスの増殖を妨げる宿主のタンパク質たちである。
それに対してウイルスは、「種の壁」を乗り越えてスピルオーバーするために、つまり、ウイルスの増殖を妨げる宿主のタンパク質を邪魔する機能を獲得するために、遺伝子を変異させたり、遺伝子組換えを起こしたりするわけである――。
どうだろうか? ウイルスの基礎研究には、医学的な使命ももちろんあるが、このような目に見えない世界で起きている壮大なドラマのような側面もある。そして、ウイルスと宿主の関係を理解することは、それぞれの起源を理解することにもつながり、それは生命の進化を紐解いていくことにもつながっていくのである。
●佐藤 佳(さとう・けい)
東京大学医科学研究所 システムウイルス学分野 教授。1982年生まれ、山形県出身。京都大学大学院医学研究科修了(短期)、医学博士。京都大学ウイルス研究所助教などを経て、2018年に東京大学医科学研究所准教授、2022年に同教授。もともとの専門は、HIV(ヒト免疫不全ウイルス)の研究。新型コロナの感染拡大後、大学の垣根を越えた研究コンソーシアム「G2P-Japan」を立ち上げ、変異株の特性に関する論文を次々と爆速で出し続け、世界からも注目を集める。
公式X(旧Twitter)【@SystemsVirology】