連載【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】第7話
宮城県仙台市で開催されたウイルス学会で講演を行ない、学生時代に通った街を自転車で走り、当時の記憶を辿る。
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■第70回日本ウイルス学会学術集会 in 仙台
2023年9月26日から3日間、仙台で、第70回日本ウイルス学会学術集会(通称「ウイルス学会」)が開催された。私は2005年からウイルス学会に参加しているが、それから今年まで、東北地方の都市で開催されたことがなぜか一度もなかった。
今年は、国立病院機構仙台医療センターの西村秀一先生が大会長を務められた(西村先生もいろいろ縁ある先生であるので、このコラムでもそのうち紹介する機会があるかもしれない)。聞けば、仙台でのウイルス学会の開催はなんと50年ぶりだという。ちなみに今年のウイルス学会のテーマは、「流行不易~変わるもの変わらぬもの~」。
この連載コラム第1話でもちょっと触れているが、私は山形から東北大学農学部に進学し、仙台で大学時代の4年間を過ごした。農学部といっても、卒業研究で配属を希望したのは「分子生物学研究室」で、遺伝子ノックアウトマウスを使った分娩のメカニズムについての研究に従事した。なので、「農学」を学んだという意識はほとんどない。
仙台には前日入りし、ひさしぶりの牛タン定食でさっそく舌鼓を打つ。学会初日の朝のシンポジウムで、トップバッターで講演。G2P-Japanの研究成果や研究活動を紹介した。同じセッションでは、私と同じ東大医科研の河岡義裕先生や、コロナウイルス学の世界的大家であるノースカロライナ大学(アメリカ)のラルフ・バリック(Ralph Baric)教授など、錚々たる面々が講演した。
1年前に南アフリカで開催されたワークショップで面識のある、インペリアルカレッジロンドン(イギリス)のウェンディ・バークレー(Wendy Barclay)教授もこのシンポジウムで講演し、ここで再会した。講演後にはシンポジストたちだけで昼食をとる時間があり、いろいろと意見交換をすることができた。
学会2日目。昼食をとるために、地下鉄東西線(余談だが、私が大学生当時、「東西線」はまだなかった。「南北線」の1路線だけ。それでも、田舎育ちの私からすると、「地下鉄が走る街」というだけで、仙台というのは大変な都会のように思えたのを覚えている)に乗り、東北大学川内キャンパスの学食で、大学生当時、毎日のように食べていたカレーを食べた。
私のラボの助教のIが、「杉浦奨励賞」という若手ウイルス学者の登竜門たる賞を受賞する栄誉を受けたので、午後には彼の受賞講演(英語)を拝聴。その後、いろいろな先生方と旧交を温めたり、雑談を交わしたりした。ウイルス学会にはG2P-Japanの面々ももちろん参加していたので、折々に研究の進捗や今後の方向性について話をしたりもした。
夜には、助教のIの受賞をお祝いするパーティーを開催した。私のラボメンバーたちだけではなく、G2P-Japanのメンバーである熊本大学のIや彼のラボメンバー、さらには、来年から私のラボに参加する面々も交えた盛大などんちゃん騒ぎとなった。こういう旅先でのどんちゃん騒ぎも、「アカデミア(大学業界)」で研究をしたり、出張して研究集会に参加したりすることの醍醐味のひとつであると思う。
■「疱瘡石」
ウイルス学会の途中、どうしてもその目で見ておきたいものがあったので、ちょっとだけ学会を抜け出して、レンタサイクルで仙台の街に繰り出した。
それは「疱瘡石(ほうそういし)」と呼ばれるもので、東北大学の押谷仁(おしたに・ひとし)先生にその存在を教えてもらった。大学生当時に聴いていた音楽をAirPodsで流しながら、覚えているような覚えていないような街並みを横目に、レンタサイクルでその場所に向かう。
事前の情報がなければ絶対に見つけられないし、そもそも誰も気にも留めないだろう。なんの変哲もない道路に、路肩の雑草に埋もれてその石はあった。その背後にある解説には、「手前の石碑は、天然痘除けのために建てられた『疱瘡神碑』。道路拡張の際、発見されました。」とある。
「道路拡張」がいつなされたのかはわからないが、私の記憶が正しければ、この道は私が川内キャンパスに通学する際に毎日通っていた通学路のはずだった。もちろん大学生当時は、こんな石の存在に気づくはずもなかったわけだが。
手を合わせるのも妙な感じなので、その石の前でほんの少しだけ物思いに耽り、その場を後にした。
■20年前の記憶を辿る
大学生当時は原付に乗っていたので、仙台の街を自転車で走った記憶がない。なので、レンタサイクルで仙台市街を走るのはちょっと新鮮な感覚であった。そのせいなのか、20年の月日で街並みが変わったからなのかはわからないが、記憶にない風景ばかりが目に映る。
帰路、堤通雨宮町にあった、私が通学していた農学部キャンパスの跡地にも訪れてみた(現在は、建物はすべて取り壊され、更地になり、農学部は青葉山キャンパスに移転している)。
私は、お世辞にも真面目な大学生ではなかった。「大学生活の最初の2年間は、いわゆる教養キャンパスである川内キャンパスに通学する」ということすら知らず、合格発表後、当時農学部があった雨宮キャンパスまでギリギリ通学範囲の、台原というところにアパートを借りた。2階建てアパートの2階の角部屋、5畳ワンルーム、ロフト付きで家賃4万円。川内キャンパスは自転車で通学するには遠すぎたので、慌てて原付免許試験を受け、親に懇願して原付(カブ)を買ってもらい、川内キャンパスにはそれで20分ほどかけて通学した。
しかし、1年生の後期セメスターには、冬の寒い中、苦労して遠距離を通学する意欲をなくし、川内キャンパスにほど近いところに住んでいた、同じ山形の高校から東北大学の法学部に進学した友人(男性)の家に居候するようになった。そのうち、講義にもほとんど出ないようになり、その友人の家で一日中ゲームをしたり、『マクマリー有機化学』を読んだりしながら独学していた記憶がある。
2年生の春になり、また台原の自宅から通学するようになった。しかし、その年を終えるくらいまでは、積極的に勉学に励んだ記憶はほとんどない。友人の家にたむろっては酒を飲み、タバコを吸い、麻雀を打ち。そういうよくある堕落した大学生活を送っていた。アルバイトもロクに続かず、すぐに辞めては転々としていた。
3年生になり、専門分野の講義が始まると、俄然勉学に集中するようになり、講義にも実習にもちゃんと出るようになる。そして4年生になり、入学時から希望していた「分子生物学研究室」に配属になり、たった1年であったが、卒業研究に没頭した。
■東北大学農学部で学んだこと
先日、高校生に向けた講演をする機会があった。そのときにある生徒から、「農学部に進学して良かったと思うことはありますか?」という質問を受けた。これは正直いままでに一度も自問したことがなかった問いだてで、うまく答えることができなかった。仙台の街をレンタサイクルで走り、農学部キャンパスの跡地の前で足を止めたとき、大学生当時の記憶が不意に思い出された。
配属された「分子生物学研究室」の先輩方はみんな良い人で、実験技術だけではなく、研究に対する姿勢や所作、考え方を教えてくれた。それが現在の私の、研究者としての第一歩であったことに議論の余地はない。
「分子生物学研究室」では、ウイルスに関する研究は一切やっていない。しかしそれでも、この研究室に配属されたあのときの1年間の経験がなければ、今の私はないと断言することができる。これは「農学部に進学して良かったか?」という問いへの直接の答えにはなっていないのかもしれないが、この研究室で、そのような経験を得ることができただけでも、私は「東北大学農学部に進学して良かった」と思っている。
■「変わるもの変わらぬもの」
冒頭で紹介したように、「変わるもの変わらぬもの」は、今年のウイルス学会のサブテーマであった。
学会を終えた帰路、仙台駅に向かう途中、駅前のペデストリアンデッキから駅を望む風景を目にすると、不意に斉藤和義の「小さな夜」という曲が想起された。その曲のプロモーションビデオが、仙台駅前のペデストリアンデッキで斉藤氏が弾き語るシーンから始まるからだ(とても良い曲なので、ぜひ聴いてみてください)。
その歌の冒頭のAメロに、こんな歌詞がある。
"あの頃描いた未来が今なら あの日のボクは今なんて言うのだろう
「うまくやったな」かな「それでいいの?」かな
どう答えるべきか"
●佐藤 佳(さとう・けい)
東京大学医科学研究所 システムウイルス学分野 教授。1982年生まれ、山形県出身。京都大学大学院医学研究科修了(短期)、医学博士。京都大学ウイルス研究所助教などを経て、2018年に東京大学医科学研究所准教授、2022年に同教授。もともとの専門は、HIV(ヒト免疫不全ウイルス)の研究。新型コロナの感染拡大後、大学の垣根を越えた研究コンソーシアム「G2P-Japan」を立ち上げ、変異株の特性に関する論文を次々と爆速で出し続け、世界からも注目を集める。
公式X(旧Twitter)【@SystemsVirology】