WHO(世界保健機関)は新型コロナの変異株について、当初はギリシャ文字にちなんだアルファ株やデルタ株といった名前をつけていたが、オミクロン株以降は新たな名前をつけていない。今は、XBBやBQ.1など科学的に正しい名前で呼ぶことを推奨しているが......。 WHO(世界保健機関)は新型コロナの変異株について、当初はギリシャ文字にちなんだアルファ株やデルタ株といった名前をつけていたが、オミクロン株以降は新たな名前をつけていない。今は、XBBやBQ.1など科学的に正しい名前で呼ぶことを推奨しているが......。

連載【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】第9話

ギリシャ神話にちなんだ「ニックネーム」は悪なのか? 後編では、ウイルスの名前とスティグマについて考える。

前編はこちらから

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■「オフィシャルネーム」の必要性

世界保健機関(WHO)はそもそもなぜ、ギリシャ文字の「オフィシャルネーム」をつけるようになったのか? 「ウイルス(変異株)に、イギリス株、インド株など、国や地域の名前に由来する名前がついてしまうと、それが『スティグマ』になるから」というのがその理由である。「スティグマ」とは、それによっていわれのない差別や偏見につながることを意味する用語である。

つまり、たとえば「日本株」という変異株が出現し、それが世界中で流行し、たくさんの人たちを死に至らしめてしまった場合、私たちが日本人であるというだけで、「お前たちの日本株のせいで!」といういわれのない誹謗中傷につながってしまう恐れがある、というようなことであり、そのような事態を避けるために、ニュートラルな誰も傷つけない名前を「オフィシャルネーム」にしよう、というわけである。

「ウイルスの名前とスティグマ」というのは、実はウイルス学ではよくみられる事象であり、最近は特に配慮されている。たとえば、「エボラウイルス」や「マールブルグウイルス」というウイルスの名前を耳にしたことがある人も多いと思う。

「エボラ」とは、このウイルスがアウトブレイクを起こしたアフリカのある町を流れている川の名前に、「マールブルグ」とは、やはりこのウイルスがアウトブレイクを起こしたドイツの都市の名前にそれぞれ由来する。「そういうネーミングはよくないので、これからはやめよう、スティグマになるから」というのが、現在のウイルス学の慣習になっている。

また、これはちょっと違うタイプのスティグマによる名称変更の例だが、ずっと「サル痘ウイルス」と呼ばれていたウイルスが、2022年に先進国(日本を含む)でアウトブレイクを引き起こした。WHOがこのウイルスに対する「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態(PHEIC)」を発出したことを受け、「このままでは、このウイルスに感染した人が『サルのウイルスに感染した』という誤解を受けてしまい、それがスティグマになってしまう」ということを理由に、「サル痘ウイルス」は「エムポックスウイルス」という名前に改められた。

スティグマにつながる恐れのある、国や地名に由来するウイルスのネーミングは、絶対に避けるべきである。新型コロナも出現当初、それを「チャイナウイルス」などと揶揄する事案が散見されたが、そのようなことは絶対にあってはならない。

■「ニックネーム」は是か否か?

閑話休題、話は新型コロナの「ニックネーム」に戻る。WHOは、「グリフォン」や「ケルベロス」のような、ギリシャ神話にちなんだ「ニックネーム」を快く思っていないようで、変異株にニックネームをつけるのを止めるよう通達を出している(そして変異株を、XBBやBQ.1などという「科学的に正しい名前」で呼ぶことを推奨している)。

それは、私が理解するかぎり、「ウイルスに怪物の名前をつけると、『あいつケルベロスに感染した!』というようなことになり、それが『スティグマ』につながる恐れがあるから」というのがその理由だという。また、一部のウイルス学者や公衆衛生学の専門家は、「オミクロンのある変異株をさも怪物のように表現することは、それ自体が一般社会の恐怖を煽る危険性がある」とも考えているようである。

しかし、本当にそうだろうか? アルファベットと数字の組み合わせである「コードネーム」のようなわかりづらい名称で呼ぶより、キャッチーでわかりやすい名前の方が、一般社会には理解しやすいのではないだろうか?

ちょっと古い喩え話だが、ちょうどMac OS Xが、ネコ科動物の名前で呼ばれていたように。「v10.4とv10.5」と没個性に呼ばれるよりも、「TigerとLeopard」と呼ばれた方が、一般的には認知・識別しやすいはずである。そしてなにより、「前編」でも紹介したように、オフィシャルネームの発案当初は、そもそも「ギリシャ神話にちなんだ名前」も候補に挙がっていたというではないか。

今のWHOの見解だと、次のギリシャ文字の「オフィシャルネーム」がつくのは、臨床的にきわめて懸念される症状が確認された株が出現した場合、そしてそれを、危険度最高ランクの「懸念すべき変異株(VOC: variant of concern)」に分類した場合のみだという。そしてその理由は、「新しいギリシャ文字のオフィシャルネームをつけることによる、一般社会へのインパクトが計り知れないから」ということである。

2023年10月現在、VOCに分類されている変異株はない。つまり、次のVOCが出現するまでは、出てくる変異株はずーっと全部オミクロン、ということである。「前編」でも紹介したように、2021年には、VOCより下位ランクの「注目すべき変異株(VOI: variant of interest)」にすらギリシャ文字の「オフィシャルネーム」をがんがん乱発していた。今はそれの比じゃないくらいウイルスゲノムが違ういろんな変異株が出てきているのに、それらは全部オミクロン、である。第4話でも紹介したように、BA.2.86(ニックネーム:ピロラ)には、親株であるBA.2に比べて30以上もの変異が入っているのに。

その一方で、新型コロナワクチンは、「BA.1対応」「BA.5対応」、そして今秋から接種が始まった「XBB.1.5対応」と、バージョンアップが進んでいる。そうなると、「そもそもBAとかXBBってなに? ていうか、今のウイルスは全部オミクロンなんじゃないの? それなのになんでワクチンばっかりいろいろ変わってるの?」と疑問に感じる人も多いのではないだろうか。

「オフィシャルネームをつけない」という「縛り」そのものが、いろいろな混乱の根源になってしまっているようにも感じられる。その不便さを解消するために、誰ともなく「ニックネーム」がつけられ、それが世界各国の報道でも使われるようになり、広く社会に受け入れられるようになった。「便利だから使われるようになった」、ただそれだけのことで、それは自然の摂理のようにも感じられる。

蛇足かもしれないが、最後にちょっとだけ補足。現状の新型コロナ変異株のネーミングの是非、つまり、「もっとオフィシャルネームをつけるべき」とか「ニックネームを認めるべき・認めるべきではない」ということについては、私個人は特に意見は持っていない。

しかし、すくなくとも現状の「コードネーム」の認知度を上げるのはちょっとハードルが高い気がするし(だからこそニックネームが流布しているのだろうし)、それであれば、わかりやすいように「ニックネーム」で呼ぶのはアリなのではないかとは思う。

しかしそうなると、「じゃあワクチンも『ニックネーム』で呼ぶのか?」という次の議題が出てくる。もしそうなると、今度は「ケルベロス対応」「クラーケン対応」という、それこそおどろおどろしいワクチンのように聞こえてしまい、それはそれでよろしくないのは理解できる。うーむ、やはりネーミングは難しい......。

●佐藤 佳(さとう・けい) 
東京大学医科学研究所 システムウイルス学分野 教授。1982年生まれ、山形県出身。京都大学大学院医学研究科修了(短期)、医学博士。京都大学ウイルス研究所助教などを経て、2018年に東京大学医科学研究所准教授、2022年に同教授。もともとの専門は、HIV(ヒト免疫不全ウイルス)の研究。新型コロナの感染拡大後、大学の垣根を越えた研究コンソーシアム「G2P-Japan」を立ち上げ、変異株の特性に関する論文を次々と爆速で出し続け、世界からも注目を集める。
公式X(旧Twitter)【@SystemsVirology】

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