連載【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】第11話
およそ20年前のSARSアウトブレイクの際に最前線で奮闘したカルロ・ウルバニ医師。自身もSARSコロナウイルスに感染し、46歳の若さで亡くなったイタリア人医師の足跡を追う。
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■思春期の私が憧れた姿そのもの
2023年7月下旬、新型コロナに関する共同研究の絡みで、ハノイ(ベトナム)とバンコク(タイ)に出張することになった。ハノイに2泊、バンコクに3泊。ハノイにはラボメンバーも同行し、私は途中から単身でバンコクに向かう予定になっている。
ハノイもバンコクも2度目の出張になる。ハノイには昨年(2022年)も訪れている。バンコクにはちょうど、新型コロナパンデミックが始まって間もない2020年の3月に、国際学会に参加するために訪問した。ダイヤモンド・プリンセス号のこともあり、当時は日本が新型コロナの世界的なエピセンター(感染流行の発信源)で、バンコクはいまだ無風。タイから見て北にあるアジアの国々に向けて、「武漢加油!」「東京五輪加油!」(加油は「頑張れ」の意)という看板が掲げられていたことを覚えている。
仕事柄、海外に出張することが多い。これは「アカデミア(いわゆる大学業界)」で研究者として働くことの醍醐味のひとつともいえるのだが、私は観光地を巡ることにはあまり興味がないし、史跡や博物館を訪れて造詣を深めるほどの知識も教養も残念ながらない。なので、訪れた先をあてもなくプラプラと散策し、面白そうな店を見つけたら入ってみたり、気に入った店があればそこでコーヒーやビールを飲んだり、気が向いたらそこで論文を書いたりするのを密かな楽しみにしている。
このときのバンコク出張は、私にとって初めての東南アジア訪問であった。それもあって、どんな空気感の街・国なのか、内心とても楽しみにしていた。しかし、まだ慣れていなかった不織布マスクをつけてまで熱気のこもる屋外を出歩く気分にもならなかったし、そしてなにより、「マスクをして出歩く日本人に向けられる目線」への自意識もあった。学会場にも、即席のサーモグラフィーが設置され、体調確認のチェックが行われていたことを覚えている。
そういうこともあって、空いた時間も周囲の散策などはほとんどせず、研究集会への参加も最小限に、ほぼずっとホテルの部屋に留まり、食事もルームサービスかカップラーメンで済ませていた。BBCで東京・赤坂を取材するイギリス人キャスターのコメントを拾いつつ、世界のいくつかの国々(中国に加えて、日本やイラン、韓国あたりだったように記憶している)に、新型コロナの感染者数を示す円グラフを載せた世界地図を映すようなライブニュースを見ながら、エイズウイルスの進化に関する論文執筆にいそしんでいたのを覚えている。
そして今回のハノイとバンコク。それぞれまったく異なる目的のための出張であったが、出張直前に改めて、2002年から03年に東アジア、東南アジアでアウトブレイクを引き起こしたSARSウイルスの経緯について復習するために、名著『スピルオーバー(デビッド・クアメン著、甘糟智子訳/明石書店)』に目を通していた。
「SARS」とは、「重症急性呼吸器症候群(severe acute respiratory syndrome)」の略であり、その名前から明らかなように、新型コロナウイルス(正式名称は「SARS-CoV-2」)に近縁なウイルス(SARSコロナウイルス)の感染によって引き起こされる病気の名前である。中国・広州を発信源とするこのウイルスは、2002年末から03年にかけて世界に広がって、香港やベトナム、シンガポールなどの東アジア、東南アジアを中心にアウトブレイクを引き起こした。
幸いにして本邦での感染者はゼロであったが、最終的に世界の30ヵ国に感染が広がり、8000人以上が感染し、900人以上が死亡したと報告されている。感染者数も死者数も、新型コロナパンデミックを経験した現在から振り返れば小さな規模の流行のようにも聞こえるが、その致死率は計算上10%を超える。つまりSARSは、その病態としては、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のそれよりもシビアであったといえる。
今年に入り、縁あって知り合う機会を得た公衆衛生学者の押谷仁(おしたに・ひとし)先生(東北大学)から、20年前のSARSアウトブレイクの際に最前線で奮闘した、カルロ・ウルバニ(Carlo Urbani)医師の話を伝え聞いていた。『スピルオーバー』を再読したのは、それを復習するためである。
押谷先生の友人であったイタリア人のウルバニ医師は、寄生虫学を専門とし、その対策のために、世界保健機関(WHO)の一員としてハノイに滞在していた。2003年2月、ウルバニ医師は、ハノイのF病院で、原因不明の肺炎を示す中国からの渡航者を診察した。その重篤性と伝播可能性から、彼はそれを未知の呼吸器感染症であると判断。それをWHOに即時に勧告し、そしてなんと、F病院をまるごと封鎖した(一説によると、感染症対策のための病院まるごとの封鎖・隔離は、なんでもこれが世界でも初めての事例ということらしい)。
ウルバニ医師が主導したこの迅速な対応によって、ベトナムにおける大規模なSARSコロナウイルスのアウトブレイクを防ぐことができたと評されている。しかし彼自身も、診察時にそれに感染してしまっていた。翌月彼は、寄生虫学の研究集会に参加するためにバンコクへ渡航したが、そこで急に症状が悪化。そして、2003年3月29日、46歳の若さでこの世を去った。
余談だが、これまでの研究の経緯から、「ウルバニ(Urbani)」という名前のSARSコロナウイルスの株があることには気がついていた。しかしそれがこの医師の検体から分離されたものであり、彼の名前に由来するものであることを、このエピソードを以て知ることとなった。
ハノイからバンコク、そしてコロナウイルス。『スピルオーバー』を再読して、2023年7月の私の渡航はちょうど、2002年から03年のウルバニ医師の軌跡と符合していることに気づいた。「アウトブレイクの最前線で奮闘する科学者」。それは、この連載コラムの第1話で触れた、思春期の私が憧れた姿そのものである。そこで私は、今回の出張の合間に、20年前のウルバニ医師の軌跡を辿ってみることにした。
■ハノイ、F病院
同行するラボメンバーと共に、ハノイ・ノイバイ国際空港に到着し、タクシーで滞在先のホテルに向かう。タクシードライバーは英語も日本語も話せないベトナム人の青年だったが、スマートフォンのGoogle翻訳を見事に使いこなし、ベトナム語を日本語に翻訳しながら、そして私たちもやはりGoogle翻訳で日本語をベトナム語に翻訳してみたりしながら、ホテルに到着する。
この旅のスピンオフ的ないちばんの収穫は、自動翻訳アプリの性能と精度の進歩である。普段は欧米への出張が多いこともあり、「外国に行ったらとりあえず体当たりで英語」という感覚が染みついているが、アジアではそれは必ずしも「是」ではない。今回のように、自動翻訳アプリを駆使しながら現地のひとたちと交流する、というのは、新しいようで原点回帰するような、新鮮な気持ちを覚えた。
初日はチェックイン後に、共同研究先に挨拶を済ませる。夕食は、前回の訪越時にも訪れたレストランで、水牛とたけのこのオイスターソース炒めやバナナの花のサラダ、蛙や鴨がローストされたものを食べたりした。どれも旨かったが、東南アジアは海老が特においしい。塩茹でされただけの海老はとてもおいしかった。私は氷入りのベトナムビールを飲み、同行したラボメンバーは、ココナッツの実の口のところだけを切ってストローを入れたドリンク(要はココナッツの実の汁)を飲んでいた。
翌日。オバマ大統領も訪れたという観光客御用達のようなベトナム料理屋で、「ブンチャー」というハノイの名物料理を食べながら、共同研究メンバーらと顔を合わせて詳しい打ち合わせをする予定になっていた(そして、このブンチャーはとてもおいしかった)。午前中は時間が空いている。その時間を縫って、さっそく私は、ウルバニ医師がSARS患者を診察した(そして自身も感染してしまった)F病院を訪れることにした。
外観を眺め、こっそり内部に入ってみたりもした。週末ということもあるのか、病院の中は閑散としていて、院内にあるカフェの店員が数人、暇を持て余して、カフェのテーブルに突っ伏して寝ていた。20年前にSARSパニックが、そしておそらく数年前には、新型コロナパンデミックによるパニックがあったとは微塵も感じさせない静けさがそこにはあった。
その道中、ウルバニ医師がバンコクに発つ前日に、押谷先生とウルバニ医師が(最後の)晩餐を共にしたという和食レストラン「K」にも足を運んでみた(エピソードと場所は、押谷先生から事前に教えてもらっていた)。Googleマップでは場所を確認できていたが、到着してみると、残念ながらそのレストランは閉店してしまっていて、まったく別のモダンな店舗(なんの店なのかまでは判別できなかった)に改装中であった。
■ハノイの「いま」
ベトナム(特にハノイ)は、2003年のSARSアウトブレイクと2020年以降の新型コロナパンデミックという、ふたつの大きな感染症有事を経験した数少ない国(都市)である。加えて、養鶏がさかんな東南アジアの国々は、H5N1鳥インフルエンザのリスクを常に抱えている。そして、2020年の新型コロナパンデミックの最初期には、欧米の大都市と同様、ロックダウンに近い厳しい施策が取られていたとも聞く。
しかし、訪問した2023年7月現在、いち旅行者である私の目線からは、そのような幾度もの感染症有事を経験した痕跡は微塵も見出すことができなかった。市民はほとんどマスクもつけておらず、過去のアウトブレイクのことを振り返ることもない。ちなみに、原付バイクを運転しているドライバーだけやたらマスクをしていたので、その理由を聞いてみたところ、その目的は感染対策ではなく、PM2.5のような大気汚染対策のためだという。
特に不思議だったのは、訪問した時期は、日本にとっての第9波、そのほかのいくつかの国々でも、新型コロナの感染者が増加傾向にある、ということがにわかに騒がれ始めていた時期でもある。それでもなお、ハノイでは、新型コロナの感染者の増加傾向はなく、入院患者も特に増えていないという。その理由を何人かに聞いてみたが、もちろん明確な回答は得られなかった。
日本の新型コロナの流行を見ても明らかであるが、「なぜ流行が広がるのか」「なぜそれが収まるのか」、その原理について、天気予報のような明確な回答を示すことはきわめて難しい。流行の波があるならまだしも、「なぜ(流行の)波がないのか?」など、そこにはそもそもの疑問点がないため、問い立てにはならない。
つまり、私たちの行動によって引き起こされていることは自明であるはずの「感染症の有事」は、その原因や理由を辿るのが実はとても難しい。そしていわんや、それを予測・予報することであればなおさら、である。
私のハノイ訪問の主務は、現地の共同研究者たちと打ち合わせをし、彼らと私のラボメンバーたちとを引き合わせることにあった。その用務を完了した私は、ラボメンバーたちをハノイに残し、一路バンコクへと向かった。(後編に続く)
●佐藤 佳(さとう・けい)
東京大学医科学研究所 システムウイルス学分野 教授。1982年生まれ、山形県出身。京都大学大学院医学研究科修了(短期)、医学博士。京都大学ウイルス研究所助教などを経て、2018年に東京大学医科学研究所准教授、2022年に同教授。もともとの専門は、HIV(ヒト免疫不全ウイルス)の研究。新型コロナの感染拡大後、大学の垣根を越えた研究コンソーシアム「G2P-Japan」を立ち上げ、変異株の特性に関する論文を次々と爆速で出し続け、世界からも注目を集める。
公式X(旧Twitter)【@SystemsVirology】