南アフリカで突如、出現した「B.1.1.529」。専門家たちの予想を大きく裏切り、WHOはその正式名を、「ニュー」とその次の「クサイ」を飛ばして「オミクロン」と名付けた。南アフリカで突如、出現した「B.1.1.529」。専門家たちの予想を大きく裏切り、WHOはその正式名を、「ニュー」とその次の「クサイ」を飛ばして「オミクロン」と名付けた。

連載【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】第16話

「G2P-Japan」の活動でいちばん大変だったことは? そう問われたとき、筆者が挙げるのは「最初のオミクロン株」の研究だという。それは、まったく予期しない形で始まった......。

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■「カンヅメ」をする

論文を執筆するときも含めて、デスクワークをするときには、ほぼいつもなにかしらの音楽を流している。

「平時のテンション」で論文を書くときには、ボサノバやショーロ(ブラジル音楽の一種)、ジャック・ジョンソンやノラ・ジョーンズのような、比較的「無害」ともいえる音楽をBGMとして流している(余談だが、Apple MusicやYouTubeでボサノバを適当に流していると、大抵の場合ジャズが混入してくるのだが、なぜか個人的にジャズはなじまない)。

年齢とともに音楽の嗜好も変わってきていて、最近では気分によっては、以前はまったく興味のなかった、テクノやYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)のような無機質なものを好む気持ちも芽生えてきている。

ただし、これらはあくまで「平時のテンション」のときのことであって、G2P-Japanの「有事のテンション」、つまり、新しい変異株が出現して、そのプロジェクトの論文を執筆するスクランブル状態のときには、もっぱらロックを鳴らすことが多い。

選曲はそのときの気分次第だが、その折々の状況で、BPM(beats per minute)で曲を使い分けている気がしている。じっくり文章や内容を推敲したいときには、バラード調でBPMが低い落ち着いた感じの曲を。一方で、一気に文章を書き上げたいときには、BPMが高いゴリゴリのハイテンションな曲を、という感じで。

学術論文は英語で書く。英語の文章を推敲するときに、日本語が耳に入るのはどうしても耳障りなので、流す曲はほとんど外国語のヴォーカルのものである場合が多い。

いつの頃からか、G2P-Japanのスクランブル論文を執筆するときには、目黒の安いビジネスホテルを定宿に「カンヅメ」するようになった。「カンヅメ」をするホテルにはいくつか条件があった。まず、要事にすぐにラボに戻れるよう、ラボへのアクセスが比較的容易なところであること。

そして、昨年(2022年)まではタバコを吸っていたので、都内では珍しくなった「喫煙可」の部屋があること。これらふたつの条件は、どうしても譲れなかった。

■いちばんのスクランブル "オミクロン論文"

「G2P-Japanをやっていて、どんなことが大変でした(です)か?」と訊かれることがたまにある。G2P-Japanに参加するコアメンバーたちはみんなモチベーションが高く、またそのほとんどが同年齢ということもあり、変な遠慮や忖度なく、風通しよく議論をすることができる(ちなみに、みんな全国に散らばっているので、議論はもっぱらSlackを活用し、特に重要な事案で集中した議論が必要なときにはZoomを使っている)。

そしてなにより、みんな人間性も素晴らしく、いわゆる「腐ったみかん」がいない。なので、マネジメント面で苦労したことはほとんどない。それよりも大変だったのは、やはり新しい変異株が出現したときと、そのプロジェクトの結果を論文にまとめるときである。

研究開始のタイミングは、「本当にやばい新しい変異株」を見つけたときで、この号砲のトリガーは、私のラボの助教のIが握っている。彼は、独自に開発したモニタリングシステムを駆使し、そのときに主流の変異株よりも流行しやすい株、つまり、「近い将来、そのときの主流の変異株を追いやって、次の主流になるポテンシャルを持つ株」を常時監視している。

「ふたつめのオミクロン」であるBA.2の出現以降、このシステムが稼働し始め、G2P-Japanは、世界最速で「本当にやばい新しい変異株」を捕捉することが可能となった。しかし、「最初のオミクロン」であるB.1.1.529(のちにBA.1に改称)が出現したときには、I助教のモニタリングシステムはまだ稼働していなかった。

最初のオミクロン株の研究は、まったく予期しない形で始まり、その後、怒涛の勢いで展開した。「G2P-Japanの活動の中でいちばん大変だったこと」を訊かれたら、私は、このプロジェクトに関する一連の出来事を挙げることにしている。

■2021年11月25日

忘れもしない、2021年11月25日。南アフリカ政府は突如、「非常に伝播力が高い、新しい変異株が自国で見つかった」と、世界に向けて声明を出した。その株にはまだギリシャ文字のオフィシャルネームはついておらず、専門的なコードネームで「B.1.1.529」と呼ばれていた。

このニュースは瞬く間に世界を駆けめぐり、ウェブニュースのトップページが「B.1.1.529」の文字で埋め尽くされた。ツイッター(現X)では専門家たちが、この変異株について活発に議論を重ねていた。

2021年11月当時、世界保健機関(WHO)による最新のギリシャ文字ネーミングの変異株は「ミュー株」だった。一連の報道を受け、ツイッター(現X)を跋扈する専門家たちは、「WHOはB.1.1.529にギリシャ文字の名前をつけるだろう」と予想していて、この時点でB.1.1.529株は、「ミュー」の次のギリシャ文字をとって勝手に「ニュー株」と呼ばれていた。

このような動きを受けて、G2P-Japanも即日、Zoomで緊急会議を開く。議題はもちろん、「B.1.1.529株のプロジェクトを始動するか?」。当時はデルタ株が完全に天下を掌握していて、ツイッター(現X)では、専門家やマニアックな人たちが、「デルタ株が完成形であり、これ以上の変異株はもう出てこない」と持論を展開したり、「デルタ株を追いやるのはどの株か?」という議論をしたりしていた。

また当時は、データベースを漁るギークな変異株ハンターが、「この株はやばい!」とツイートしてはそれが数日から数週間で忘れ去られる、ということが繰り返されていた。割と名のある専門家の中にも、「この株こそマジでやばい」と情報発信しては、ポシャったりすることを繰り返す人もいた。

G2P-Japanのプロジェクトは、立ち上げから論文(プレプリント)にまとめるまでを1~2ヵ月で完遂する超高速プロジェクトがほとんどだが、研究期間が比較的短い分だけ、その期間の濃度と密度はすさまじい。

つまり、ある変異株に着目し、プロジェクトを開始したとして、開始後にそれが実は大したことがない変異株、つまり「ガセネタ」だったことが判明したりすると、メンバー全員がすごい熱量で進めていたプロジェクトがポシャってしまうことになる。

これは研究的な意味合いでは「大事故」であるので、なんとしても避けなければならない。つまり、当時の情報だけでは、B.1.1.529が「ガセネタ」となってしまう可能性も充分に考えられた。しかし、11月25日のG2P-Japan緊急ミーティングでは、満場一致で「(B.1.1.529株の研究は)開始すべき」と決定。その場でそれぞれが担当する実験パートも決められた。あとは実験材料を揃え、ウイルスを入手し、計画した実験を着実に遂行するのみである。

同日、WHOは緊急ミーティングを開催。当時の「危険な変異株」は、WHOによって2段階でランク付けされていた。最高ランクの「パンデミックを引き起こしている、あるいはそのリスクがきわめて高い株」は、「懸念すべき変異株(VOC: variant of concern)」とランクづけされた。一方、その予備軍である「将来パンデミックの原因になるかもしれない、ある国や大陸で流行している株」は、「注目すべき変異株(VOI: variant of interest)」と分類されていた。

世界中の新型コロナウイルスのゲノム情報は、「GISAID」という公共データベースに集約されている。当時の私たちの見立てだと、「GISAID」に登録されたゲノムの数が1000を超えたくらいのタイミングで、その株が「注目すべき変異株(VOI)」に認定されていた。

このときのB.1.1.529株の「GISAID」への登録配列数はまだ10。そのような背景と世間の反応から鑑みて、「B.1.1.529は『ニュー』と命名され、『注目すべき変異株(VOI)』に分類されるだろう――」。これがこの日の夜の私の見立てであり、またツイッター(現X)の大方の専門家たちの予想だった。

しかし翌朝、いちばんに目にしたウェブニュースは、私を含めた専門家たちの予想を大きく裏切るものであった。

B.1.1.529の正式名は、「ニュー」とその次の「クサイ」を飛ばして「オミクロン」。

そしてその分類は、危険度最高ランクの「懸念すべき変異株(VOC)」に分類されていた。(中編に続く)

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佐藤 佳

佐藤 佳さとう・けい

東京大学医科学研究所 システムウイルス学分野 教授。1982年生まれ、山形県出身。京都大学大学院医学研究科修了(短期)、医学博士。京都大学ウイルス研究所助教などを経て、2018年に東京大学医科学研究所准教授、2022年に同教授。もともとの専門は、HIV(ヒト免疫不全ウイルス)の研究。新型コロナの感染拡大後、大学の垣根を越えた研究コンソーシアム「G2P-Japan」を立ち上げ、変異株の特性に関する論文を次々と爆速で出し続け、世界からも注目を集める。『G2P-Japanの挑戦 コロナ禍を疾走した研究者たち』(日経サイエンス)が発売中。
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