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連載【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】第23話
音楽のルーツを辿ることとアカデミアの研究活動には、実は共通する部分がある。筆者が好きな音楽のジャンルやミュージシャンを紹介しながら、「ルーツを辿ること」の大切さについて綴る。
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■UKロックのこと
音楽が好きだということや、ギターも弾けないのに「バンドを組みたい」という(潜在的な)願望があることは以前どこかで述べたと思う。今回は、好きな音楽のジャンルのことから話を始めてみようと思う。
高校生の頃にビートルズやオアシスにハマって以来、ずっとUKロックが好きで、好んで聴いていた。ビートルズは説明不要かと思うが、オアシスですらもうオールドロックの部類かもしれないのでちょっと補足をすると、オアシスとは、1990年代に一世を風靡した、イギリス・マンチェスター出身のロックバンドである。
小遣いを貯めて新譜のアルバムを買う。そのライナーノーツを読んだりする。書店で音楽雑誌を立ち読みしたりするようになり、同時期に活躍するほかのバンドのことも知るようになる。オアシスのライバル的な立ち位置だったブラー、田舎の高校生には難解すぎてついていけなかったレディオヘッドなど。
そして、オアシスなどの90年代UKロックのルーツには、80年代にシーンを盛り上げたストーン・ローゼズがいて、その大元には、UKロックの生みの親ともいえるビートルズがいる訳である。
とはいえ、ギターも弾けない田舎の高校生にひとりでそこまで掘り下げていくほどの熱量はなかった。大学に進学後、洋楽オタクの同級生や先輩らに指南を受けながら、自分の好きなジャンルを掘り下げ、その輪郭を形作っていった。
そうやって好きな音楽を掘り下げていくと、アンディー・ウォーホールが手がけたバナナのジャケットで有名なヴェルヴェット・アンダーグラウンドに辿り着いたり、トラヴィス、フランツ・フェルディナンド、ベル・アンド・セバスチャンなどの好きなバンドが、みんな同じ国の同じ街から出てきたバンドだという共通項を見つけたりする。
■すべての科学にはルーツがある
こういう、音楽の「ルーツを辿っていく」という行為は、実は「アカデミア(大学業界)」の研究活動にも通ずるものがある。私たちが書く「学術論文」の最後のページには、必ず「引用文献(References)」という項目がある。
ここには、その論文で報告する新しい研究成果の背景となる情報や、礎となった技術が記載された、過去の文献・学術論文がまとめられている。つまり、論文とは、新しい知見を報告する文献であるものの、それが根も葉もないものでは決してなく、過去の叡智の礎の上にあるものである、ということである。
科学とは、先人たちが積み重ねてきた発見という石塚の上に、「新しい発見」という小石を載せることのようなものであり、これを「巨人の肩の上に立つ(standing on the shoulders of giants)」という表現で形容されることがある。
ちなみに余談だが、これをもじった(書き間違えて"shoulder"が単数形になってしまったらしい)「Standing on the Shoulder of Giants」は、オアシス4枚目のアルバムのタイトルであり、私が初めて、発売日当日に小遣いで購入した洋楽アルバムでもある。
「巨人の肩の上に立つ」というのは、すべての科学に通ずる原則で、それが仮にノーベル賞級の発見であっても、新型コロナに関する研究であっても、「引用文献」がない論文、つまり、その背景やルーツとなる情報がない論文など存在しない。
オアシスのルーツにビートルズがあるように、ロックンロールのルーツを辿るとエルヴィス・プレスリーに行き着くように、すべての科学にはルーツがある。
■「引用」という文化
「ルーツを辿る」という行為について、もうひとつ。海外のウェブニュースと日本の(特に大手既成メディアの)それの大きな違いのひとつに、その情報の「ソース(オリジナルの情報の引用)」の記載の有無がある。
海外のウェブサイトの記事には、ほとんどの場合、そこに記載された発言や情報にハイパーリンクが貼られていて、それをクリックすればその由来となる情報を辿ることができるようになっている。それに対し、日本のウェブサイトのほとんどの記事にはそれがない。そのため、その記事の「ソース」に辿り着くことができないことが多い。
なにかしらの権利関係のせいなのか、ただ伝聞を記事化しているだけなのでそもそも大元の情報を知らないのかまではわからないが、「ルーツを辿れない情報」「オリジナルの情報に辿り着けない情報」というのは、正直かなり問題があるし、危険であると個人的に思う。
日本では、「オリジナリティ(創造性)」、つまり、「自分で考えることの尊さ」はよく言及されるが、「引用することの大切さ」について語られることはあまりないように思う。オアシスがビートルズに憧れて自分たちの音楽を創造したように、アジアン・カンフー・ジェネレーションがオアシスに憧れて自分たちの音楽を創造したように、ルーツが辿れない音楽はない。
科学も基本的にそれと同じで、ルーツが辿れない科学はない。子どもが恐竜に憧れるように、知的好奇心のきっかけとしてなにかを「想像」すること、自分で考えることはとても大切なことであると思う。しかし、それを「創造」につなげるためには、「ルーツ・引用の大切さ」を学ぶことは絶対に欠かせないピースである。
恐竜に興味を抱くこと、白亜紀に妄想を膨らませること、架空の恐竜の姿を思い描くこと。そのような経験のある人は多いと思う。そのような空想・妄想はもちろん個人の自由であるし、とても楽しいものである。
しかし、科学の文脈において、「ぼくのかんがえたさいきょうのきょうりゅう」は存在しないし、恐竜を科学するためには、白亜紀について学ばなければならない。
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