2月13日からの休館を発表した「山の上ホテル」(東京・御茶ノ水)
連載【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】第32話
新型コロナの変異株に関する論文を短期間でまとめるために、ホテルでの「カンヅメ」が常態化していた筆者。そこに、「カンヅメ」をするホテルの代名詞、文豪たちの愛した「山の上ホテル」全館休業の衝撃ニュースが――。
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■山の上ホテルで「カンヅメ」
2023年12月17日。東京・御茶ノ水にある「山の上ホテル」で、この原稿を書いている――。
はっきり言って今回は、私的にはもうこの一文を記すことができただけで満足な、この一文だけでおしまいでもいいくらいの今回のコラムである。
「山の上ホテル」とは、「小説家やジャーナリスト、学者が愛したホテル」、あるいは「文化人のホテル」として広く知られたクラシックなホテルであり、「文豪が愛したホテル」などとも呼ばれている。
ちょっと調べただけでも、川端康成や三島由紀夫、池波正太郎や松本清張、そして、2023年に亡くなられた伊集院静氏などの定宿として愛されていた、と記されている。つまり、文豪たちが「カンヅメ」をするための逗留先として、長く使われていたホテルである。
私は、G2P-Japanによる新型コロナ・デルタ株の論文を短期間にまとめるために、2021年の初夏に初めて「カンヅメ」をした。その後、われわれG2P-Japanは、新たな変異株が出現するたびに、スクランブルプロジェクトを発進させた。
短期間に大量に集まる実験データを一気にひとつの論文に集約するためには、やはり「カンヅメ」が必要になる。特にオミクロン株出現後には、BA.2株やBA.5株、BA.2.75株、XBB株などなど、いろいろな変異株が立て続けに出現した。そのため、2022年には、「スクランブルプロジェクトからのカンヅメ」という生活サイクルが常態化するようになった。
私の「カンヅメ」のスタイルについては、この連載コラムの第17話で、オミクロンBA.1株が出現したときのことが詳しく記されているのでそちらも読んでみてもらえたらと思うが、目黒にある、喫煙可能な小汚いビジネスホテルの一室にこもって、ひたすらに論文を書いていた。
それは、優雅さや聡明さなど微塵もない、泥臭い作業だった。『ブラック・ジャック創作秘話~手塚治虫の仕事場から~(原作:宮﨑 克 作画:吉本浩二)』という漫画があるが、そこには、手塚治虫がどのようにして執筆していたのか、昼夜問わず、心血注いで作画に没頭していた様子が描かれている。それをイメージして、オマージュしていたかのような作業だった。
■山の上ホテル宿泊までの経緯
話は戻って、いま現在この原稿を書いている「山の上ホテル」であるが、「文豪御用達ホテル」ということを知って以来、「いつか泊まってみたい、そしてそこで、文豪たるべく執筆に専念するために、本当の『カンヅメ』をしてみたい」と夢見ていた。
タバコを止めた今、もはや喫煙可能なホテルである必要はない。小汚いビジネスホテルである必要もない。であればこそ、「山の上ホテル」のような由緒あるホテルで、文化人たるべくして「カンヅメ」をしてみたい......と、そんな矢先。2023年10月に、「山の上ホテルが2024年2月13日から全館休業」という衝撃のニュースが駆け巡る。
これは困った、である。休館(閉館)してしまったら、私の夢が叶わなくなってしまうではないか。どうしよう、最悪自腹ででも泊まるか、と思って慌ててネットの宿泊予約サイトをいくつか見てみるも、そこは絶賛話題沸騰中の、都内の人気ホテルである。どのサイトを見ても、もうすでに予約が取れなくなってしまっていた。
ワラをもつかむ気持ちで、この『週プレNEWS』の連載コラムを担当してくれている、集英社の編集者Kさんに相談してみた。するとなんと! Kさんはわざわざホテルまで直接足を運んでくれて、1室1泊の予約を取ってくれたのである! どうやら、報道直後の数日間は宿泊予約サイトも電話もパンク状態で、ホテル側が新規の予約を一時的にストップしていたらしい。
"集英社の経費で、山の上ホテルに「カンヅメ」をして、依頼されたコラムを書く東大教授"――なんとも文化人たる響きではないか。
......しかし。
「またまた佐藤先生、何言ってるんですか。僕は『よ・や・く』しただけですよ。大御所作家でもあるまいし、経費で落ちるわけないじゃないっすかー」
――というわけで、「ただ単に身銭を切ってホテルに泊まって、『山の上ホテルでカンヅメ!』と悦に浸りながら、ひとりこの文章を書いているだけ」、というのが事実である。
■2023年12月17日
2023年12月17日。東京・白金台にある研究室での打ち合わせを終えた私は、白金台駅から都営三田線に乗り、神保町で下車。靖国通りに沿ってすこし歩く。風は冷えるが、天気の良い日曜日の昼下がりである。
「かんだやぶそば」には行列ができていて、そこに並んでしばし待つ。数十分ほどで店内に案内され、席につくと、あいやきと天抜き、それにエビスの瓶ビールを注文。芝海老のかき揚げが浮かぶ天抜きは、行列に並んで冷えたからだを暖めてくれる。柔らかい合鴨のロースと、その脂がよく染みたネギは、中瓶を注いだ小さなグラスで飲むビールにとても合う。
次は日本酒と穴子の白焼き。すだちを絞って七味唐辛子をすこしかけた穴子やねりみそをつまみながら、小さな盃に注がれた日本酒をひと口すする。
シメにせいろを2枚。辛口のつゆにつけて食べる蕎麦と日本酒がとてもよく合った。蕎麦湯を飲み、年越しの酒のアテに、ねりみそを土産に買う。
AirPodsで斉藤和義の「メトロに乗って」を聴きながら、靖国通りを歩いた。街ゆく人々の足取りや路面に並ぶ店のデコレーションからも、年の終わりが近づく空気が醸し出され始めている。
途中、三省堂書店の仮店舗に寄って、つい最近発売された、われわれG2P-Japanの奮闘記である『G2P-Japanの挑戦 コロナ禍を疾走した研究者たち』(日経サイエンス)が店頭に並んでいるかを覗いてみた。しかし残念ながらそれは見つからず、書籍検索でも「在庫なし」とある。
通りに出て、明大通りを右に折れ、山の上ホテルにチェックイン。私の部屋は409号室だった。部屋の中をひととおり眺め、ライティングデスクに座り、いそいそと執筆活動を始める。なにせこれは、文化人のカンヅメなのである――。
宿泊した「山の上ホテル」の409号室のライティングデスク
――と、至極当然の話ではあるが、文豪がカンヅメしたホテルに泊まったところで、そしてその一室で執筆したところで、別に文章がうまくなるわけでもないのである。さらに言えば、文豪がカンヅメしたホテルに泊まったところで、私自身のカンヅメスタイルが変わるわけでもないのである。
書かなければならない論文も書類も、ちょうど手元にひとつもなかった。根が貧乏性で生真面目な私は、結局ほとんどの時間を部屋にこもったまま、夕食のために館内の天ぷら屋や鉄板焼き屋に足を運ぶこともなく、ルームサービスでパスタを食べ、ライティングデスクに座って、ひたすらにコラムの執筆にいそしんだのであった。
翌朝、やはりルームサービスで朝食を食べ、やはりライティングデスクに座ってひとつのコラムを仕上げた後、小さな荷物をまとめ、正午にチェックアウトした。
ロビーにある本棚には、伊集院静氏の書物が並べられていた。そしてその横で、集英社の編集者Kが私を待っていた。
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