仙台市内の花見の名所、西公園で花見パーティーをしたときに作った「立ち看板」。壁に立てかけるタイプのいわゆる「立て看板」ではなく、自立する「立ち看板」を作ろう!、ということで作った。特に目的はない(あっても忘れてしまった)
連載【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】第42話
G2P-Japanの組織としての骨格のルーツは、筆者の大学時代のサークル(?)活動、その名も「隣人の会」にあった!?
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■大学時代のこと
さて、早いもので、この連載コラムももう40話を超えてしまった。ここのところディープな研究の話ばかりが続いたので、今回は少し軽めに読めるネタはなにかないかな...と思ってMacBook Airのキーボードを叩いていると、過去にも似たようなことをしていたような記憶が蘇ってきた。
――そうだ、20年ほど前、大学生の頃、コラムというかエッセイというか、そのようなものを書いてはウェブに載せていたのを不意に思い出した。
おそらく誰でもそうだと思うが、大学時代を日常的に振り返ることはあまりない。4年間、東北大学農学部の大学生として仙台で過ごしたが、華やかな、いわゆる「リア充」な記憶は、正直ほとんど残っていない。それはそうである。「記憶」どころか、そのような「事実」そのものがないのだから。
この連載コラムのどこかで書いたことがあるような気もするが、私はいわゆる、よくいる自堕落な大学生だった。友人と誰かの家に集まって自炊したり、鳥もも肉を塩胡椒で焼くだけでめちゃくちゃうまいことに気づいたり。納豆1パックで白米3合を食べたりすることとかもザラだった。
サッポロ一番みそラーメンの袋麺をいかに安くデコレートするか。試行錯誤の末に見出したのが、とろけるチーズと七味唐辛子だった。仙台から実家のある山形まで、バスや電車で帰省しようとすると、片道1,000円もかかる。それを節約するために、原付バイクで、国道で帰省したりもした(50ccの原付バイクではそもそも高速道路は走れない)。
これもよくある風景だと思うが、友人宅にたむろしてはセブンスターを吸い、徹夜で麻雀を打ち、翌朝その足で講義に顔を出す、というような、水面ギリギリの生活をしていた。そしておもむろに、それまでの数日に起きた出来事を、ノートパソコンで日記としてしたためたりもした。
深夜まで麻雀を打ち続けた、大学3年生の頃の筆者。この時はめずらしく勝ちまくった記憶がある
とにかくそのような、無為な時間を過ごしていた。そして、似たような人はやはり群がっていくもので、やがて友人が友人を呼び、よく集まる集合体のようなものができた。
■「隣人の会」とは
その瞬間のことだけはなぜか鮮明に覚えている。大学1年生の初夏のある日曜日の夜、5畳ロフト付きの私の仙台の自宅で、友人ふたりとやはり無為に集まって、3人で酒を飲んだりタバコを吸ったりしていた。
テレビで流れていたドラマでは、男女数人ずつで構成されたグループが、川原か海辺でバーベキューをしていた。今で言う「リア充」の光景である。それを見て「こんなことがしたい!」と無性に思いたった私たちは、なぜか自分たちでサークルを作ることにした。その経緯も理由も忘れたが、その集合体はすぐに「隣人の会」と命名され、私が会長に任命された。
目的も主たる活動も特にない、ただ友人の友人たちが集まって酒を飲むだけの集合体だった。気が向いたら広瀬川の河畔で芋煮会をしたり、バーベキューをしたり、釣ってきた川魚を焼いたり、スーパーで買ってきた秋刀魚を焼いたりした。そしてうだうだと発泡酒を飲んでは、やはりタバコを吸ったりしていた。ただそれだけの集まりである。テニスやフットサル、軽音バンドのような活動実態はないので、いわゆるサークルというわけではないのだが、われわれ(あるいは私)はその集団のことを頑なに「隣人の会」と呼び続けた。
広瀬川沿いでの芋煮会での一景。スーパーから買ってきた秋刀魚を焼いて食べた。芋煮の写真も探したのだが、ここでお見せできそうなものはなかった...。
ある年の春には、ふと思い立ち、やはりサークルたる活動をすべきだと思い至った私たちは、とりあえず新入生を勧誘するためのビラを作り、新入生にそれを配る、ということをやってみた。
ビラを作り、それを配ることで、サークル活動を達成した快感を得ていたわれわれである。しかし、そのビラを見た数人の新入生から本当に連絡が来てしまい、慌てて広瀬川沿いで新歓バーベキューを開催したのを覚えている。
この「隣人の会」には、htmlを操ることができる工学部の賢いメンバーがいたので、サークルのウェブサイトを開設してもらった。メンバーはほぼ固定だし、主たる活動も目的もないので、ウェブサイトなどそもそも必要ないのだが、当時隆盛をきわめていた2ちゃんねるを模したスレッド式のページを作ってもらい、そこでは私を含めたメンバーたちが、どうでもいいスレッドを立ち上げては、「ワロタ」「マターリ」「鬱」などという意味のないやり取りをしていた。
そしてそのウェブサイトの一角に、「会長のつぶやき」というページを作ってもらっていて、そこで私が、当時思っていたことや持論などをつらつらと書き連ねていたのである。モラトリアムを謳歌する地方都市の根暗な大学生あるあるである。
黒歴史と良い思い出の境界線上のエピソードであるが、今回のこのコラムの筆をとってみて、ふとそんな20年前のことが思い出されたりもした。
■「隣人の会」と「G2P-Japan」の奇妙な類似点
ひさしぶりにこうやって20年も前のことを思い返していたら、ふとあることに気づいた。友人が友人を呼ぶサークルのような集まり、そして、何かしらの理由で私が長を務める集団。「隣人の会」の組織としての骨格は、新型コロナ研究で奮闘を続けるG2P-Japanのそれとまったく同じではないか!
そしてG2P-Japanでは、プロジェクトの情報伝達は主にSlackを使っている。このスタイルもやはり、スレッド形式のウェブサイトでやり取りをしていた「隣人の会」のそれと酷似している。
■バタフライエフェクト!
コロナ禍で疎遠になってしまったところもあるが、「隣人の会」のメンバーとは、いまでも折々に連絡を取ったりしている。
これまであえて深く思い返すこともなかったが、20年前の仙台のいち大学生の根暗な生態が、コロナ禍で奮闘し、世界と伍する研究集団の下地になっていた(のかもしれない)さまは、まさにバタフライエフェクト以外のなにものでもない。
新型コロナパンデミックそのものがまさにそうであるが、未来になにが起こるかは誰にもわからない。こんなパンデミックが起こるなんて、(もちろん危惧するひとはいたであろうが)5年前にこんな事態を予見していた人は世界のどこにもいなかっただろうし、いわんや、20年前に仙台に住んでいた田舎育ちの根暗な大学生が、東大のいち教授として、週プレのコラムの筆を取ることになっているとは、である。
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