2024年7月3日から新紙幣の発行が始まる。千円札には、野口英世から、破傷風血清療法の確立、ペスト菌の発見のほか、伝染病研究所、北里研究所を創立した北里柴三郎の肖像がデザインされる
連載【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】第54話
新紙幣が発行される。千円札の肖像は、野口英世(のぐち・ひでよ)から微生物学者・北里柴三郎(きたさと・しばさぶろう)に変わる。実はこのふたり、筆者の所属する東京大学医科学研究所と深~いかかわりがある。
* * *
■2024年7月3日、新紙幣の発行開始!
日本円の紙幣のデザインが一新される。最高額紙幣の一万円札の「顔」となる渋沢栄一については、2021年に大河ドラマ『青天を衝け』で取り上げられるなどして大いに話題となった。しかし私的に、もっぱら着目すべき、時事的なコラムのために筆を取るべきであると思ったのは、やはり千円札である。
これまでの千円札の「顔」は野口英世、そして、新紙幣の「顔」は北里柴三郎である。
このふたりには共通点がある。そのひとつは、「野口も北里も『微生物学者』である」ということである。著名なふたりではあるが、それぞれの科学的功績については意外と知られていないかもしれないので、まずはこの機に、ここですこし解説を加える。
新たに千円札の「顔」となる北里柴三郎は、「微生物学の始祖」のひとりであるロベルト・コッホを師事し、ドイツのベルリン大学に留学した。1889年、彼はドイツで、世界で初めて破傷風菌の純粋培養に成功した。そしてさらに翌1890年、破傷風菌の毒素に対する抗体を発見し、「血清療法」という画期的な治療法を開発した。Wikipediaは彼のことを「感染症学の巨星」と表現している。
一方、これまでの千円札で馴染み深い野口英世のいちばんの功績は、1913年、進行性麻痺や脊髄癆(せきずいろう)という神経性の疾患と、「梅毒スピロヘータ」という細菌の感染に関連があることを見出したことにある。
――こう聞くと、「あれ?」と思う人が大半ではないだろうか? 野口英世といえば、エピソードには事欠かないひとであるとも言える(だからこそ伝記になり、それが広く読まれ続けているのだろう)。その有名なエピソードはやはり、幼少期に囲炉裏に落ちて左手に大やけどを負ったこと、そして1928年、アフリカのイギリス領ゴールドコースト(現在のガーナ)で、自身が研究していた「黄熱病」という感染症で命を落としたことだろう。
狂犬病、ポリオ(小児麻痺)、そして、彼自身が感染してしまい、命を落とすことになった黄熱病。これらはすべて、野口自身が研究していた感染症であり、また彼が、病原体の発見・同定を報告した感染症である。しかしこれらの報告は、現在ではすべて否定されている。
――それはなぜか? なぜならそれは、これらの病気は、狂犬病ウイルス、ポリオウイルス、そして黄熱ウイルスという、「ウイルス」の感染によって引き起こされる感染症だったからである。
ウイルスがとても小さい存在であることは、新型コロナパンデミックを経験した読者のみなさんの知るところであろう。それはあまりに小さすぎて、普通の顕微鏡(「光学顕微鏡」と言います)では見ることができない。それを見るには、「電子顕微鏡」という特殊な顕微鏡が必要であるが、これを使って初めて可視化されたウイルスは、タバコモザイクウイルスという植物のウイルス。
そしてそれがなされたのは、野口の死の10年後、1938年のことであった。つまり、野口が研究対象としていた感染症たちは、野口が生きていた時代には、観察することができない未知の病原体たちによって引き起こされていた、ということになる。
■野口と北里(と筆者)の共通点
そしてこのふたりには、「微生物学者」ということ以外にもうひとつの共通点がある。そしてそこにはなんと、僭越ながら、筆者の私も含まれる(!)。それは、野口も北里も、私が現在所属している、東京大学医科学研究所(医科研)に在籍していた、ということだ。
しかしながら、この表現ではちょっとした語弊が生じる登場人物がひとりいる。それは北里である。北里は、医科研に「在籍」していたのではない。正しくは北里は、医科研の「設立」に貢献したひとである。
(左)「伝染病研究所 発祥の地」と記された石碑(石碑の「伝」の字は、旧字体の「傳」で記されている)。(右)石碑の遠景。右の解説の看板には、「北里柴三郎は、福沢諭吉始め民間の援助を受け明治二十五年十一月三十日この地に開設された大日本私立衛生会附属伝染病研究所において、細菌学の研究を開始し伝染病の撲滅に多大の貢献をした。以来伝染病研究所は幾度かの変遷を経て現在に至っている。創立百年に当たり、ゆかりの地に碑を建て、先人の偉業を顕彰するものである。 平成四年十一月吉日 東京大学医科学研究所 社団法人 北里研究所」と記されている。ちなみにこれは、東京メトロ御成門駅からすぐのところにあります
「破傷風の治療法につながる技術の開発」というノーベル賞級の偉業をドイツで成し遂げた北里はその後、欧米の研究所からあまたの誘いを受けた。しかし北里はそれらをすべて断り、伝染病の脅威から日本国民を救うべく、1892年に帰国する。
しかし哀しきかな、当時の日本には、満足な研究環境がなかったのである。それを憂い、北里を支援したのが、慶應義塾の創設者であり、一万円札の「顔」でもあった福沢諭吉である。福沢は1892年、北里のために、現在の東京・芝公園の中に、「私立伝染病研究所」を設立。北里はその初代所長となった。それは福沢が57歳、北里が40歳のときのことであった。そして1898年から99年にかけて、22歳の野口英世は、この研究所に在籍していたのである。
野口英世の履歴書。東京メトロ白金台駅からすぐ、医科研正門から入って左手にある、「近代医科学記念館」に展示されている
1899年、国から支援を受ける形で、この研究所は内務省管轄の「国立伝染病研究所」に改組される。その後、所員が増えて手狭になったことを受けて、1906年、現在の所在地である東京・白金台に移転される。
そして1914年、「国立伝染病研究所」は、北里所長に相談することなく、内務省から文部省に突如移管され、東京帝国大学(つまり、現在の東京大学)に合併されることになる。それに猛反対した北里は、所長を辞任。現在の「プラチナ通り」を下ったところのエリア、東京・白金に、「北里研究所」を新たに設立して「独立」する。
一方、東京帝国大学に取り込まれた「国立伝染病研究所」であるが、1916年に「東京帝国大学附置伝染病研究所」に改組。そして1967年、現在の名称である「東京大学医科学研究所」に改称され、今に至る。
ついでにもうひとつトリビアを。第二次世界大戦後の1947年、東京・白金台にある「東京帝国大学附置伝染病研究所」は、その用務の一部が独立し、厚生省所管の「国立予防衛生研究所」が設置される。
「国立予防衛生研究所」はその後、都内を点々とし、最終的には1992年、東京・新宿区の戸山に落ち着く。そしてこの研究所は、1997年に改称される。2024年現在も使われているその名称は「国立感染症研究所」。つまり、現在の感染研である。そう、感染研と、現在私が所属する医科研は、ルーツを辿ると兄弟の関係にあるのである。
――と、新型コロナパンデミックの裏で着々と進んでいた新紙幣の発行。そこにも実は、感染症をめぐる、大河ドラマスケールのドラマが隠されているのである。
★不定期連載『「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常』記事一覧★